福祉企業~論語と算盤~

渋沢栄一(1840~1931)は、日本近代経済の父とも呼ばれ、社会福祉事業にとても熱心に取り組んだ方です。今では企業や福祉は別物とさえ思われている節がありますが、本来、これらの価値観が西洋から入ってきたときどのようなものだったのかを観直してみます。

その渋沢栄一の有名な言葉に「論語と算盤」というのがあります。道徳と経済という言い方をしてもいいのかもしれません。西洋から入ってきた福祉や企業という考え方をどのように解釈すればいいかを分かりやすくしたのがこの一文でもあります。

本来、今の時代は分かれてしまっているものをどのようにその人の腹で一つにするかがこの言うところを為すことであろうと思います。

本来、渋沢栄一は富を為す根源は仁義道徳のためであると言います。これは道徳上必要な経済を起こすのが実業道であると定義しています。その実業道とは「士魂商才」といい、その実践があってはじめて為ると言い切っています。

この士魂商才の意味はまず考え方として「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである」と、その上で具体的にはこう言います。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である」ということです。

常に武士道精神があっての商才であること、言い換えれば正しい理念があっての技術ということであろうと思います。これは医は仁術に通じる話です。「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」ともいいます。実業道である以上、道を踏み外してはならぬと諭したのでしょう。

そしてこう戒めます。

「われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」、つまり「論語と算盤とは一致すべきものである」ということを言うのです。

そもそも分けて考えるのは、その間に自分を中心にした価値観のモノサシではかろうとするからそうなるのです。人間や自分という考え方を優先する個人主義の西洋の発想を、それまで全体の一部である自然を少しだけ優先する発想の日本に取り入れる際に人間の欲望が強まっていき次第に歪んでいったのだと思います。

分かれたもの、いわば矛盾したものを一つに調和するというものは本人の中で行うものですから、常に大切な優先しているものが何かを重んじて生きていくことが大切なことのように思います。私の言葉では論語が算盤よりも「少し優っている」くらいがちょうど善い(適善)ということでしょう。

経済が発展すればするほどに、如何に人格形成に力を入れていくか、教育の本義です。本来はこれは国家繁栄の仕組みなのだろうと思いますが、個人の慾が強すぎる昨今を眺めていると渋沢栄一が心配していた通りになってしまったと実感しています。

どのような生き方、どのような会社が本来の論語算盤、福祉企業なのか、適善社業をもってそれを今の時代に体現していこうと思います。

 

 

 

いのちのヒビキ~生態系の共振共鳴~

生態系を深めていると、確かにそこに自然の理を感じます。見えるものから見えないものまですべての生態系はある一定のリズムによって生き死にしますが、そこには自然の響き合い(共振共鳴)の音を感じ取っているように思うのです。

虫が鳴くのも鳥が鳴くのも、また木々や稲、野菜らが風に舞い揺れ動くのもそこには確かに「ヒビキ」があります。ヒビキとは共振共鳴であると定義していますが、それは自然の中にある音に合わせていのちや心を響かせています。そして万物は象容した音のつながりの中のご縁にゆられ響き合います。

自然に沿っていのちを育むということが音にゆられ愉しむということです、人生を謳歌するということです。どうしても抽象的な言葉になってしまいますが、理屈ではなく生態系というものがそのまま共生の響き合いだからです。

生き物たちはすべてそのいのちの音ともいうべきものを聴いています。私たちは耳を言葉を聞きわけるように発達させてきましたが、言葉がなく言霊であった原始の時代は私たちはいのちの音を聴き分けていたのです。

それは心の音色とも言います。

人が共感したり受容したりすれば認め合う世界が産まれます。その世界の音というのは心の通わせ合いにより産まれる仕合せの世界です。人は心が満たされることで平和になります。自然界というのはその平和の音を聴いているのです。お互いが認め合い育ちあう、それが共振共鳴共生ですがそれを私は「ヒビキ」であると確信します。

人は人工的に人間都合で塗り固められた世界に居すぎると心が疲れていくものです。それを癒し、本来の地球の一部、宇宙と一体になった人間であることを自覚することでバランスを取るように思うのです。

温故知新の比率は常に3対2、地球の海と陸の比率も3対2です。その3対2というのは、いのちや心の世界に生きながら、この時代の現実の中に生きるというバランス(調和)です。バランスこそが永続発展する自然の理であるのはいのちを深めれば必ず出会う智慧であり法理です。

バランスが崩れるとは何か、それをちゃんと自覚している人は少ないように思います。それは例えば、太陽が微妙なバランスで燃え続けるように、地球が微妙なバランスで呼吸するように、常に前向きに傾くのです。前向きとは先ほどの3対2なのです、七転び八起きがバランス感覚ということです。生生発展、永続繁栄、つまり七回転じれば八(無限)ということです。これは少し楽観的あることの方がいいということに似ています。楽観と悲観も3対2で少し楽観が優っている方が仕合せで愉しいのです。

豊かさもまた、心が3で物質が2の方が愉しくなるのです。私たちが如何に楽観的に生きていくのが仕合せかは、生態系そのもののいのちを眺めれば観えてきます。

子ども第一主義の学びは、突然にいつも自然に私の心にシンクロニシティを呼び覚まします。お仕事と使命とはいえ、有難いご縁に深く感謝します。

いのちの「ヒビキ」の中にある真理法理を一円観に照らして自然の摂理を現代の技術の最先端に温故知新し救命救済の道具を発掘して人々へ還元していきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

苗半作~厳父と慈母~

先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。

そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。

自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。

たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。

言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。

この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。

できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。

来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。

またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。

寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。

自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。

引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。

 

損得勘定

物事のとらえ方というのはそれぞれですが、お金を優先した物質経済の価値観が強すぎるとある一定の感情と判断が世間に蔓延してくるように思います。簡単に言えばそれは損得勘定というものです。それは利害を一つ指標として自分にとって損か得かのモノサシでばかり物事を考えるということです。

自分が損をしたくないからと、自分が得をする方へと判断することで損か得かを常に自分を中心にして考えていることほど本当の損なことはありません。自我が強くなりすぎる理由も世の中に損得という物差しがあまりにも目に入ってくるからかもしれません。

沢山のお店が並んでいる前を通ると、如何に安いか得をするかということばかりが宣伝されます。他にも広告なども見ようとしなくても目に入ってきます。情報量が多く比較するものもたくさんありますから、損したとか得したとか利用した後までそれを話し合う始末です。

確かに損得もありますが、同じ呼び名でもそこに「尊徳」という捉え方がありません。徳という考え方は、損か得かではなく善いことが循環するかどうかということです。自分の存在が周りを善きものへと循環するような体験をしているか、思いやりや有難い感謝に換えているかというものです。

物事は決して損得勘定だけでは裁けず、メリットデメリットだけではない中庸ともいえる本質があります。「何のために」となると、行動すべては意味があるものでありそこに真実もあるからです。

本来、人生は有難いものですから目先の損得では裁けないものばかりです。現代人は、その損得勘定の刷り込みにやられてしまい、苦しんでいる人たちをたくさん見かけます。本来の仕合せのモノサシを持てるようになるには、生活を正していくことしかないのかもしれません。

最後に先日のダライラマ14世の言葉で締めくくります。人間について何が驚きますかという問いに対する返答です。

「人間は自分の健康を害してまでもお金を稼ごうとします。そして今度は、その害した健康を取り戻すためにお金を使うのです。さらに人間は将来のことを憂うばかりで、今この時を楽しむことをしません。結果として、人は今も未来も生きられないのです。人は、あたかも死ぬことなどないかのごとく生き、そして一度も本当の意味で生きることなく死ぬのです。」

損得を超えたモノサシを持てることが本当の豊かさを持つことなのかもしれません。そして本当の豊かさというのは徳を尊ぶ中にあるのでしょう。損得ではなく、尊徳のモノサシを広げていきたいと思います。

 

 

遺徳遺産~生き方を守る~

世界遺産というものがあります。世界各地で世界遺産があり観光のメッカになっています。今年は国内の世界遺産をいくつか拝見する機会がありましたが、その都度その地の人の多さと雰囲気の荒廃ぶりに驚きました。

そもそも世界遺産とは何かといえば、1972年11月、第17回UNESCO総会で採択されました。条約の正式名は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」といいこの条約のもと作成される「世界遺産リスト」に名を連ねた場所、それが「世界遺産」です。その条約の内容は「国や民族の枠にとらわれず、世界各地の自然や文化財を、人類共有の財産として守る」ことだと書かれています。

これは文化財や環境を人間の都合で破壊するのをやめてもらうためにとはじめたことでしょうが、どちらにしてもそれを創ったものも破壊するのも人間が行うものです。人間が創造したものを人間が破壊するのですが、破壊しないことを目的としているのはわかるのですが本当に大切にしたいものは残るのかということには疑問を思います。

本来、そこでの人々の文化や暮らしが世界遺産であるはずが見た目の建造物やその場所がそうだというだけになれば見た目さえ維持できればいいという話になってしまいます。観光客が来るからとどんどん観光収入が増えてくると本来の目的がすり替わり気が付けば元の文化や暮らしが喪失しまうことになりかねません。それは守るものが何かということがズレてくるからです。

例えば、生き方や働き方を守るのは、単に見た目の形だけを守ればいいというわけではありません。「大切」にするものそのものが異なるからです。本来、先人たちが人間が傲慢にならないようにと謙虚に守り続けてきた生き方が、何らかの形で喪失して滅ぶ、もしくは滅びそうだから世界遺産が必要になったのではないかと私は思うのです

本来、変えてはならないものを自分勝手に変えてしまい変えるべきものをいつまでも変えないことが自然の法理に逆らっているということの教えなのでしょう。これは時の流れに反しますから必ず滅亡の一途を辿るのは自明の理です。

すでに今の人類の欲望の拡張と拡大は限界に来ていますからこれからの私たちの時代と子孫はその歪に向き合うことになりますから本当に大変なことで心配です。

「今の時代を自分たちの代で消費しつくす」という思想は悪循環を産み出す大変危険な発想ですから論語の「遠慮なければ近憂あり」であるように必ず目先の快楽により未来がいよいよ危うくなっているのです。

世界遺産というならば、生き方そのものを遺産にすることだと私は思います。それは生き方遺産です。生き方遺産があれば人は本当の今に生き、今が仕合せである本質を理解できるように思います。そして生き方遺産とは遺徳のことです。

人が今に生きるというのは如何に今に生き切るかですから「今、此処」を大事にし味わい尽す中にこそ本来の人としての仕合せがあると私は信じています。

そうしていれば今、此処に満たされますから本当に遺していかなければならない遺産とは、先祖がここまで私たちに大切な環境といのちをつないで遺してくださった徳に由るものだと気付くのです。

そういう世界の遺徳を守る、つまり世界遺産を守るというのはその遺徳を守る謙虚な生き方を私たち自身が守ることです。だからこそその遺徳遺産は一人一人の生き方の中にあることを忘れずに今日も社業の実践を積み重ねていきたいと思います。

古い友人

久しぶりに古い外国の友人に会っていると色々なことを思い出します。こちらから連絡が取らないでいると疎遠になりますが、いつも連絡をくれて一緒に会いたいと思ってくれるのは本当に有難いと思います。

古い友人といえば以前、「ゆるす言葉」(出版イースト・プレス)というダライラマ14世の著書にこう書いてあったことを思い出しました。

私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。

どんな人に会おうとも、それは自分にとって大切な古い友人であるということ。ご縁を大切にする一期一会の真心の実践に生きる姿から敵も味方もなく愛するということの偉大さを感じます。

またこの本は「ゆるし」に関することばかり書かれていますがいくつか紹介します。

「ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。」

自分を愛するように人を愛せて愛を循環することができるということなのでしょう。自分を素直に愛するには正直に生きる実践が思いやりを育てるのでしょう。

「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」

自分を自由にするというのは、一生懸命に真摯に生き切るということです。なぜなら人事を盡すのならばそこに悔いはありません。悔いがないということは、全力を出し切ったのだから後は天にお任せしますという謙虚な心になるからです。思いやりでいる、思いやりのままで居続けるというのが自分を自由にする最善の方法そのものだと私は思います。

最後に、経済のことや大義についても語られます。ここに今の社業の命題もありますし、世界が今、置かれている最重要課題について書き記されているので紹介します。

経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いているときにも、大義を見失わないことが肝心です。」

平和を愛するということがどういうことか、子どもの周りにいる私たちだからこそ常に身を引き締めて実践を高めていきたいと思います。

仕合せの仕事~自分との出会い~

人は自分が誰かのお役に立つことを仕合せに感じるものです。人に親切にするというのは、親切をさせていただける仕合せを噛みしめているということであろうと思います。

それは言い換えれば、自分の存在が困っている人の力になれることが何より嬉しく楽しく有難く幸せだと感じるからです。自分の存在が困っている人の力になるときほど感謝を実感するものです。

仕事というのは本来は人の仕合せの「仕」です。そして人に仕えるというのは奉仕の仕です。奉仕とは見返りを求めず相手のために思いやりで取り組むことです。仕事というのは、誰かのお役に立つことを自分のこととして真摯に捧げていくことのように思います。そしてそれが親切の本質であるように思うのです。

この親切という字は、親を切ると書きますが不思議に思いかつて調べてみたら身が切れるほどの親しい距離にいるという意味でした。つまりはそれくらい相手と親しみ同じかそれ以上に共感してその人のために尽くしてあげるということです。

だからこそ親切にできること、親切をさせていただけることは本当に有難く感謝に満ちているのです。そしてそれをするのが本来の「仕事」の定義ではないかと思うのです。昔は親切のことを深切としそれくらい深く関わることを大事にしましたし、滅私奉公というように自分を世の中に捧げきることが大切だということを確認し合っていました。

今の時代は歪んだ私的な個人主義が蔓延し、自分中心に物事を捉え視野も狭くなっていますから如何に仕事が仕合せかということも振り返ることもなくなってきたのかもしれません。そのことから仕事という定義が変わってしまっているように思います。「仕事ができる」という意味も結果だけのできるになっていて、本来の「できる」という意味が勘違いされているように思います。仕事ができる人になるというのは、単に作業が早く完璧にやることではなく思いやりや真心が自他一体になっているほどの親切で行えるということなのでしょう。

そして私たちは社會の御蔭様で存在できていますから、自分が何で社會に認められているか、そして社會の何のお役に立てているのかを実感できることが本当の自分に出会い続けるということになるように思います。

自分探しばかりすることが若い人の間で流行っているのはもしかすると周りのお役に立つように生きることの意義を見失っているからかもしれません。自分の存在価値に出会えることはとても仕合せですから仕事ができるというのは本当に有難いことなのです。

畢竟、仕事とは自分の仕合せに出会う事です。

その仕合せを単なる作業にしてしまうことが何よりも貧しく寂しいことのように思います。自分が困っていることは誰かも困っているし、相手が困っていることはきっと自分も困るのです。お互い困っているのならばお互いで助け合おうというのが人間だと思います。

人間の道は親切と相互扶助ですが、大事なことを大事なままに取り組んでいきたいと思います。素晴らしい仲間たちと一緒に仕事ができる仕合せに感謝しています。

報徳~真心返し~

万象具徳という言葉があります。すべてのものには徳があるということです。この徳とは何か、それを取り柄と呼んだ人もいればその人の天才と呼んだ人もいます。つまりは必ず何かの役に立つものを持っているということです。

世間では、役に立つとか立たないとか誰かのモノサシで判断されます。人間はみんな自分都合ですから自分にとって役立つかどうかで必要か不必要かを勝手に分別するのです。しかし捨てる神あれば拾う神ありではないですが時・場所・状況に応じてその役割というのは多様に変化していくのです。ある人に必要でもある人には不必要、しかし全体丸ごとで観ればそれはすべて必要不可欠ということです。

そしてそれを徳と呼びます。

二宮尊徳は、その徳に報いることを「報徳」と言いましたがこれはまず大前提にすべてのものには徳が備わっているということがあってはじめて行われるものです。

『論語』憲問篇36にこうあります。

「或(あ)る人曰く、徳を以(もっ)て怨みに報いば如何(いかん)と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨(うら)みに報い、徳を以て徳に報いんと。」

意訳すれば、(ある人が言う、徳をもって怨みを返すというのはどういうことでしょうかと、孔子は言う、何をもって徳に報いるとするか。それは怨みに対しては素直な真心でお返しし、徳に対してはさらに徳でお返しすればいいのです)と。

これは一言でいえば「酷いことをされてもやさしくしてあげなさい」ということです。つまりは徳に報いるということです。

人は自分が酷いことをされても他人にやさしくできるかといえば、人間はすぐに仕返ししてやろう復讐してやろうという気持ちを持ちますからこれが難しいことはすぐにわかります。しかし孔子も二宮尊徳もそれでは徳ではないといっているようなものです。

如何に自分が頂いたものを善いものへ転換して世の中に御恩返しをしていくか。結局は徳を実践していくとはこれに尽きるように思います。どんな徳を自分が天から与えられているかは天に由ります、しかしその徳をどう活かしていくかが大事であってその徳そのものが大事なわけではありません。そしてその徳は自分次第で如何様にもしていくことができるのです。

日々に生活していく中で、自分の徳をどう皆さんのお役に立てていくか、そして皆さんの徳をどう活かしていくかはその人の生き方が決めるものです。自分の徳を高めていくことと周りの徳を高めていくのは、周りの徳を認めていくことからだと私は思います。

善い方へと転じていく、一円融合してすべての徳を活かしていこうとする、その真心返しにかんながらの道の目的も存在します。いついかなる時も報徳の大切さを肝に命じて実践していきたいと思います。

 

禮と愛

昨日は、新しい仲間といっしょに百姓コーディネーターの就任式と研修会を行いました。子どもたちに譲っていきたい遺徳を昔の百姓という生き方を学び直しつつ研鑽と実践を積んでいきたいと思います。

自然農で収穫した野菜たちと、不耕起の玄米を酢飯にして手巻き寿司をみんなで握って食べましたが何よりいっしょに働く人たちがともに食卓を囲み団欒しながら語り合えることは本当に仕合せな時間だと思います。

人間は、自分にとって都合がいいことを便利といい、都合が悪く手間暇かかるのを不便だといいます。農業だけではなく日常の仕事にいたるまで、気が付けば一人でバラバラに仕事をした方が効率が良いということで便利さばかりを追求して忙しさで心を忙殺する人が増えてきたように思います。健康を害し、精神を病み、殺伐とした無機質な暮らしをする人も増えてきました。

本来、私たちの先祖たちは働く豊かさを持っていました。それは一見、手間暇がかかるものですし、それに精を出すことばかりでした。不便とも思えるものやメンドクサイと思われるものを大事に、時間をかけてみんなでいっしょに取り組んでいました。

人間というものは、自分の思い通りにしたいというのは我欲がありますから誰しも思うことなのでしょうがその欲で満たせる喜びというのはほんの短い期間だけのように思います。たとえ思い通りにならなくても、心が満たされるような歓びというものは永遠に心に刻まれ忘れることもない豊かさがあるのです。

決して自分の都合では得られないものの豊かさというのは、何よりも心が安らぎ満たされるものです。人の愛も同じく、思いやりや真心もすべて人と人の間にあるものですからそういうものを優先していこう、尊重していこうとする心の強ささえあればだれでも持つことができるのです。

みんなでいっしょに取り組むことができるというのは、いっしょに暮らしている仲間がいるということです。その仲間といっしょに笑って泣いて、そしてまた出会い、別れて新たな道を愉しんでいくことが人生の道楽なのかもしれません。

かつての先祖たちは、自然を中心に丹精を籠めて生きることを私たちに残してくださいました。その残してくれた一遍をきちんと受け止めて、そして拾い、それを譲ることが今を生きる私たちの本当の使命かもしれません。

今の世代で、先祖の遺徳や遺恵を遣い切ってしまわないように自分たちの生き方を見つめ真摯に生き方と働き方を一致させていきたいと思います。新しい出会いに感謝します。