根治の道

手塚治虫にブラック・ジャックという漫画があります。天才的な技術力で治らないと見捨てられた患者を次々に奇跡的に治していきます。その代価として莫大な治療費を請求するのですが、それだけ本気かどうかを確認して心の底から直し体を直し生き方を直すような治療法が心を打ちます。

本来、医は仁術という言葉もあるように単に技術や能力があるから助けられるものではなくその人の丸ごとのことを観察し、何が根本的な問題かを見抜き、タイミングと治療法を考えてその人自身が治癒するのをどう助けるかということの中に真心と思いやりが必要になります。病気になるというのは、必ず原因がありますから根治するには荒療治が必要なこともあるように思います。

そのブラック・ジャックの中でとても印象に残っている言葉があります。

一つ目は、「医者は人のからだはなおせても・・・ゆがんだ心の底まではなおせん」という言葉です。治療はしても、根治はできない。心の底は手が出せないということです。これは本人が素直になれないのなら、どれだけ治療を施してもどうにもならないという諦観です。仏陀も「縁なき衆生は度し難し」と言いました。御縁がなければ心まではいかないものかもしれません。

そして二つ目は、「これだけは きみもキモにめいじておきたまえ 医者は 人をなおすんじゃない 人をなおす手伝いをするだけだ なおすのは…本人なんだ 本人の気力なんだぞ!」という言葉です。これはブラックジャックでも助けられなかった師匠が死の床でブラック・ジャックに語り掛ける言葉です。本人の気力と書いて「本気」ですが、本人が本気でなければどんな病も治らないということでしょう。

最後の三つ目は、ブラック・ジャックがメスの製作を頼む職人の方の遺書の一文です。「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」という言葉です。医の道は生き死にとは関係がないと言います。本来の道は、結果に対してあるのではなくその経過においてどれだけ真心を籠めたかに由ります。初心や道を忘れることがない様にという書置きを遺してこの世を去ったのです。

ブラック・ジャックには、人間の心身の病気を治癒するという大きなテーマがあります。自分と同じ苦しみを持つからこそ、同じように苦しんでいる人たちを助けたいと思うからこそ医師になったように思います。今の医者と違い、病気になれば病気だけを直して料金をもらうのではなく本質的に根源から治癒しようとすると今の時代は無免許医になってしまうのかもしれません。

昔の人たちは、医と病を分けていませんでした。

心を素直にして、体を健康にするには、自分の本心と向き合う必要があります。自分の本心を誤魔化し嘘をつき言い訳をすることから病は浸食してきますから、どれだけ素直を磨き、理想に対して日々に高めていくかは生き方と実践に顕れてきます。

子ども達のお手本とまではいかなくても、子ども達が目指す方向を間違えないように自分の間違いを早期に気づいて修正していきたいと思います。禍転じて福にしていけるように、心を素直に謙虚に御縁を尊び学び直しを続けていきたいと思います。

引っ越しの手伝い

昨日、クルーの引っ越しのお手伝いをさせていただく機会がありました。引っ越しは、自分を見つめ自分の生き方を変えるチャンスでもあります。それまでどのように生きてきたかがそれまでの暮らしを自己分析することができます。そして引っ越しを経てこれからどのように暮らしていくか、自分の生き方をまた分析することができます。

引っ越しという語源は不明な所が多いのですが、「引く」という字と「越す」という字で形成されています。これは私の勝手な解釈ですが、引くというのは執着から離れることであり、越すは向こう側へと往くという気がしています。今までの自分の我欲を離れて執着を手放し、新たな自分の生き方を見つめて生まれ変わっていくということです。

人生には節目があり、何度もその機会は訪れます。その都度、生まれ変わり素直になれるかどうかが試されるように思います。

引っ越しは他にも「家移り」という言い方もし、家を移るというのは本来の家人として在るべき姿になるということでもあります。一家という考え方で、人は所属する場所に入ることは一家の一員になるということです。

その家人として恥じることのない自分でいるのは、誰がみていようが見ていまいが恥ずかしくないような生き方や暮らしを実践していくことのように思います。

よく一家のことを「一門」という言い方をし、同じ師を持つ人たちを同門といい、その家のものであることを一族ともいい、一門であることに誇りを持つのです。一門であるからこそ「一門の名折れ」という言い方もあり、その生き方こそが一家の生き方だと自戒する意味でも使われます。

家が移るというのは、単なる部屋が変わるだけではなく本来は家が変わるわけですからその覚悟をもって引っ越すのが古来の引っ越しの意味だったのではないかと思います。

どんな家に生まれてくるかは選べませんが、どんな一門に入るかは縁があれば自分で選べます。師に恥じないような生き方や、同志や仲間に恥ずかしくない自分であることが誇りにもなります。

引っ越しの手伝いをしながら、新たな暮らしをはじめる仲間に応援のエールを贈りたい気持ちです。新たな生活では実践こそが恩返しだとし、一期一会の挑戦を愉しんでいけるといいなと思います。

環境が変わるというのは自分の心の環境が変わるということですから、環境が変わる前に自分が変わっているということに気づくことが環境の本質であろうと思います。今回の引っ越しのお手伝いを通して私も学び直してみたいと思います。

心の安住~寿命延~

この世のすべては一年の季節の廻りと共に齢を経ていきます。年輪のように、毎年一つずつ老いていくとも言えます。その時間が、合計で数百年生きるものもあれば数十日で死んでしまうものがあります。自然の中では、その宇宙の流れ、地球の四季の廻りに対してそれぞれにいのちのサイクルがあります。

以前、新潟の方言で「寿命延」を紹介しましたが天命に従いこころ安らかにそのいのちの道に沿って無為自然、融通無碍に生きると天寿が伸びるという意味でしょうか。いのちにはそれぞれに天命があり寿命がありますから、天寿を全うしてそのいのちが尽きるまで私たちは生きていることができます。

生き物には、それぞれに生きている時間軸というものがあります。ゆっくりと流れる時間に生きるもの、そして早いスピードで流れる時間に生きるものがあります。それを「一生」と言います。

人生であれば、その人の一生は同じく生まれてから死ぬまでにいのちをつなぎ、そのいのちをつなぐ中での物語を味わい、同時に魂の求める声に従って天命を歩んでいきます。そして一つのいのちを終えて一生です。

虫たちも同じく、生まれてから死ぬまでに自分のいのちを他のいのちにつなぐために生きています。その生きている中では、親があり子があり、あるいは伴侶あり友あり兄弟ありと仲間とめぐりあいその一生の物語を飾ります。

それぞれに一生懸命にいのちを遣りきるなかで、私たちはどのようにその一生を味わうかはその中にある心次第です。しかし同時にそのいのちは多くの愛に包まれています。短い一生を終えたとしてもそこには一生の四季があります。そして永い一生を終えたものにも四季があります。

いのちには四季が備わっていると感じる心は、天寿を全うしたと感じる心です。

自分のいのちがどこまで続くのか、分かりませんが人生の四季は常に今の感じる心の中にあります。春夏秋冬を経ていくというのは、一生を経ていくということです。一生を経ていくというのは、過ぎ去っていく時間を愛おしむことです。

自分が大切な天寿を全うしているように、まわりのいのちもまた同時に天寿を全うしています。御互いに天寿を全うしているのだからこそ、御互いに慈しみ合い、大切な天寿を延ばすように暮らしていきたいと感じます。

一生を共にするものたちが、自分と一緒にいることで仕合わせになるような生き方を選ぶことで御互いの心が安らかになっていく、そこに寿命が延びる歓びを感じられるのかもしれません。心の安住というのは、心が深く満たされるときに感じ、それは自分が天寿を与えられそれを使い切ることが出来ているときに感じられるのかもしれません。

自分の一生に具わっている四季のめぐりを味わいながら、後に続くものたちのために一歩一歩大切に歩んでいきたいと思います。

本来の善意

人には善意というものがあります。いいことをしたい、喜ばせたいというものがあります。しかしその善意が自分の一方的な押し付けであればそれがエゴになることがあります。自分が善かれと思ったことが相手からすると迷惑になることがあります。これを善意の行き違いといい、これを有難迷惑という言い方もします。

それはきっと相手はこうだろうと思い込んだり、自分の価値観で同情したりすることでその善意は本来の姿を歪めてしまいます。本来、相手が望んでいることは何かと、相手に寄り添い傾聴していき求めているものが何かをしって自分のできることで御役に立つことができるならそれは相手にとっての善行になります。しかし、自分が勝手に思い込んでやったことはひょっとすると相手にとっては迷惑であることもあります。本当に頼みたいことはやってくれず、頼んでもいないことばかりをやっては感謝を求めたり、押し付けたりするのはまさに善意の行き違いとも言えます。

これは自分の同情から来るものですが、同情というものは共依存するものです。同情を求める相手に対して、同情する人がいる。もともと同情を乞う心理というのは自我に執らわれている心理とも言えます。同情とは本来、同じ思いになることですから相手が自分だと思って共感することです。しかし実際に勘違いしている同情は、自我が自他を比較し憐れんでみているだけで決して共感しているわけではないのです。

この善意が行き違うということは、本来の善意ではないということです。

なので本来の善意を実践するには、相手の話を相手の立場になって心寄り添い傾聴して共感し、受容することです。それをすることで、相手は同情の有難さを感じ、情け深さによって自分を取り戻し自らの自己憐憫を手放していくように思います。

特に経営者や上の立場の人は、この同情を勘違いして失敗するように思います。自分の方が立場が上であるという事実と、下の人が自分が下なのだという関係が発生するとき、この歪んだ同情の共依存が発生するのかもしれません。

それを断つには、聴福の実践しかないように私は思います。本来は、有難迷惑や善意の行き違いなどはなく、心が澄んでいるのなら、有難いことは迷惑ではないし善意は行き違うことはない。

自分の心を澄ませてみて、自反慎独し全てが有難い御縁であると心から感謝をして御恩に対してすみませんという真心を感じることができるならお互い様の御蔭様に気づいて、善意の行き違いになることも有難迷惑になることもないように思います。

心を澄ませるのは情を整えることでもあります。心を澄ませて情を整えるという順番を間違わないことが本来の善意を盡す方法ではないかと私は思います。情動だけで物事を進めるというのは心が澄まされていないから御蔭様が消失してしまいます。

人間は情が厚いからこその間違いもありますが、それは情を薄くするのではなく情を磨いていくことで澄まされていくと思います。日々は人生道場ですから、言葉、心、行動の一つ一つを丁寧に真心の実践を積み重ねていきたいと思います。

初心を忘れないこと

昨日、「忘」という字についてのことを書きました。人が人生の目的を忘れてしまえば木偶の坊のようになってしまうと江戸しぐさの中でも紹介されていました。この木偶の坊とはあまり今の時代は使われませんが何かといえば、「木偶」は木彫りの人形、または操り人形のことを指し人に操られるだけで、自分では何もできないことから、ぼうっと立っているだけの役立たずの人をたとえていう言葉です。

初心を忘れて自分で考えなくなっている状態は、心が亡くしているという意味です。

ではなぜ初心をなくすかということです。

人は人生の目的というものを誰しも本来は持っています。遠くを慮れば今どうあるべきかということを思い出せるものです。諺に「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。言い換えれば、近くのことを憂うばかりだから遠慮がなくなってくるとも言えます。

あまりにも不安を抱え、心配事ばかりに終始していたら本来何のためにやっているかなど考えなくなっていくものです。人は何かを判断するとき、損得で判断することがあります。自分にメリットがあるかどうかで考えていることがあります。しかし実際は、自分のメリットは誰かのデメリットになりますからいつも自分勝手に判断していたらその陰で辛い思いをしている人や迷惑をかけている人がいたりします。

だからこそ判断基準は、みんなが倖せになるかどうかであったり、周りがよろこんでくださるかどうか といった全体にとって自分が善い存在になろうと判断することで迷惑をかけていることを自覚し感謝を忘れないようにしているものです。

またそうやって決めたことや、自分がどう生きるのかを定めた初心や理念を決めた心のままに維持していくために実践があります。自分が決めたことを自分が忘れたらこれはもう救いようがありません。自分が決めたことだからそれを忘れないようにするのは自分にしかできません。

自分で決めたことを自分が忘れると心が泣いてしまいます。人はそんな時、心を亡くしたことを思い出して涙します。その涙を忘れないようにいつまでも心に決めたままでいることが実践でもあります。実践をするとき、頭では考えられなくても心は安心します。心が安心するのは実践を続けてくれているからです。実践を続けるということは、心が決めたままの自分を自分が維持し続けているということです。

忘れるというのは、単に暗記力が低いということを言うものもありますがあれは頭で終始行われるもののことです。本来の「忘れない」というのは、暗記ではなく心が決めた人生の目的や初心、理念を忘れることがないという意味です。

いくら忘れないでくださいねといったとしても、その人が実践を怠ればすぐに忘れてしまいます。一緒に心を寄り添っていくことの大切さは、「私は忘れていませんよ」といったその人が思い出せるように見守ることです。

自分を低く見て、理想を低くするというのは自分で初心を忘れてしまっているといっても過言ではありません。その人の理想を聴けば誰しも崇高な理念を持っています。その崇高な理念を周りからバカにされようがやり遂げることこそが理念を持つということだと思います。

理念を持ったなら忘れないために実践することだと思います。

吉田松陰に「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」があります。

自分の夢を忘れたり、自分の夢を卑下したり、自分の夢を亡くしていたらせっかくの一度きりの自分の人生を深く味わっていくことができません。一度きりの人生だからこそ、味わい深く悩んで愉しんでいくのが初心の有難さです。

初心を忘れないということは、全ての根本です。

引き続き、実践を増やし高めて継続していきたいと思います。

志実践

人間というものは、全てに「忘れる」という事実があります。この忘れるという状態がどういうことか、それは字に現れています。「忘」の字は、心を亡くすと書きます。「忙しい」という字と同じで、心を亡くしてしまっているということです。

この心が死んでいるという状態が、「忘れる」であり「忙しい」ということです。

昔から修身を実践する人は、如何に日々に自分が初心を忘れないでいられるか、忙しくしないでいられるかということを工夫してきました。どんな状況のときでも、心が死んでいるのでは意味がないとし、必死に自分の心を亡くさないで暮らしてきました。

江戸しぐさの中に、その工夫の一つがあります。

「江戸時代では、「心こそが人間として最も大事な宝ととらえ、忙しさは「心」を「亡」くすこと、心をなくしたら人間ではないただのでくの坊になってしまうと考えました。忙しいときは、「いま書き入れ時で」「ご多用なところをようこそ」など言い換えたようです。」(「暮らしうるおう江戸のしぐさ」朝日新聞社)

常に自分が忙しいと言わないように別の言葉で言い換えていたようです。

これは日常の中でのコミュニケーションの工夫ですが、能の大家、世阿弥の風姿花伝のように「初心忘れるべからず」というように、「初心を死なせてはならぬ」という言い方で自戒をし、常に自分の心を確かめる習慣を持つことを家訓にして芸道を遺すということもありました。

人は事があるたびに「忘れ」「忙しい」と心が死んでしまうのは、それだけ心は目的に生きているからです。何のために生まれてきたのかという理由を知っているからこそ、それだけしか観えていないのです。だからこそ日常の目先のことは頭が処理をしていきますが、そのうちに手段が目的にすげ換わったりしてまた忘れ忙しくなってしまうという悪循環です。

そうならないように工夫をしていくことで、この課題とは対峙していくしかりません。心が常に着いてくる実践を増やしていくことが、感謝でありおもてなしであり、御蔭様であり、もったいないであり、見守ることです。

人間は油断するとすぐに「忘れ」ます。忙しいは気を付けられても、忘れるは気を付けない人が多いように思います。忘れないために日々にどれだけ苦心して精進するかが、一生涯を通してみた時にどれだけ価値があることかが分かります。

一生涯というと、徳川家康の有名な遺訓を思い出します。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

そしてもう一つ、とても感銘を受けたものがありましたので紹介します。

「われ志を得ざるとき 忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき 大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち 油断大敵この四字を守れり。」

志を守ることが忙しさと忘れることに処する克己の工夫かもしれません。我を増長させ、油断し、分を弁えず、驕り高ぶり慢心するのは志が試されているとも言えます。試練や逆境の中で人は志を育て、志を果たす時、その人の人生の目的が叶います。

心に志の刃を突き刺すことを「忍」と書きます。

忘れないで忙しくしないためには忍耐力が必要なのかもしれません。子ども達のお手本になるように、日々に自戒して志実践を高めていきたいと思います。

全体最適~自然の理に適う生き方~

人は自分中心の視野と自然中心の視野では、全体の見え方が異なるものです。自分の視野でみて自分にとってメリットがあっても、それは全体から見たらデメリットであることがほとんどです。

例えば、自然農などは手作業で一つ一つ地味に取り組んでいく農法ですが現在の慣行農法と比べればとても時間も労力もかかっているように見えます。しかしよくみると、慣行農法は機械や道具で一気に簡単便利にスピーディに農作業は終わりますがその機械や道具、ガソリンやその他の運搬、エネルギーを考えると全体ではとても多大な労力と時間がかかっています。

自分にとっては機械や道具で簡単に済むことは、果たして全体にとっては善いとは限りません。先ほどの例では、その簡単便利にスピーディにできるもののために膨大なお金を使い、大変なゴミ屑を生み出し、環境にダメージを与えてしまうような状況を与えてしまいます。自然は浄化しますが、浄化の速度を超えてしまえば農地や環境にだけではなく人体にまで害が発生し病気になることで余計に時間と労力を使います。

自分にだけメリットがあると行動することができるのは、それをささえる周りがあるからだと言えます。どれだけ自分が行動するときに、「これは周りにどんな影響を与えるだろうか」と、全体をトータルに考えて行動することで視野は広がるものです。

これをメンターは「全体最適」を目指すと言います。

この全体最適とは、自分にとっては都合がわるいことであったにせよそれが全体を幸せにするのなら全体を優先できるということです。しかし実際は、全体が幸せになった後で自分が幸せになれば丸ごと幸せでみんなにも善くて自分も善い状況になったとも言えます。

すぐに人間は、「自分さえよければ」と考えますがこれが全体最適を破壊し部分最適にしてしまう原因になってしまいます。

運が善い人というのは、自然の理に叶っていますから常に全体最適に合わせて自分を活かしていきます。つまりは全体によって善い実践や行動ができているということです。自分が愉しく仕合わせにみんなが明るくなるように、また先延ばしなどせず、すぐに反省し行動する。教訓を活かし、周りのお手本になり、素直に謙虚に学び直しを続けつつ他人から沢山のことを頼まれる人になる。こういう人はいつも全体最適で生きているのが分かります。この逆を考えれば、部分最適がどうなるかは自明の理です。

そして運の善さというものも、自然の理ですから全体最適である人であればあるほど運は高まりその運に由って物事は自然の見守りと御力添えにより仕上がっていきます。これが運も実力のうちということです。

この自然農の田畑も同じく、全体最適で観ることができなければこの農法の真の善さを自覚することはありません。農薬を使わないから健康だとか、いのちと向き合え心が穏やかになるからだとか、もちろん理由はいくつもあります。

しかし最も大事なのは、自分の生き方や実践がどれだけ全体に善い影響を与えるかということを自覚することが何よりなのです。生き方が変わるというのは、それだけで全体最適に影響を与えます。なぜなら徳の実践も同じく、自然の理に適うことを行い続ければ自然の循環や浄化のサイクルにスパンとはまります。

実際に人間か自然かではないですが、人間都合はやはり部分最適であり自然都合にすることは全体最適です。無理に自分の思いどおりにならないからと、怒り焦りジタバタするよりも自然の流れに従い応じて任せつつ、その中で最善を盡して精進を続ける方が全体最適になっているものです。

そして常に全体を観ることができるというのは「余裕がある」ということです。

余裕とは、自分の生き方が決めます。

そして余裕を持つために理念や初心があるのであり、自分が目的と手段を自分さえよければという我欲で好き勝手に入れ替えたりしないように理念や初心を意識する実践が自分の我を抑え全体最適を優先する己自運転になっていきます。

常に子ども達のために何がもっとも全体最適かを見極めつつ、自然の理に適った実践を増やしていきたいと思います。

自然の和

自然農の畑に出ると猪があちらこちらと土を掘り返していました。柵を設けていたのですが、植物が巻き込み柵を押し倒してそこから侵入したようです。猪とも5年の付き合いですから、大事な場所だけは掘り起こさず手入れをしていない場所を中心に掘り起こしていました。

不思議ですが自然農の畑にあるものたちに敵意は一切感じず、最初に周りの農家さんから聞いていた鳥害も虫害も獣害も多い場所だと言われていたはずがほとんどその害を感じず、むしろ食べるものは足りているだろうか、こちらが遣り過ぎてはないだろうかと心配するばかりで一緒に暮らしている仲間という感じがしています。

生きているのは私たち人間だけではなく、すべての生き物たちは食べ物を食べなければ生きてはいけません。人間は自分たちのことばかりを心配しますが、山に食べ物がなくなってきて下山してきている動物たちの状況を少し慮る気持ちをもってあげたいと感じます。

山の食べ物がなくなってきたのは、動物たちの生息地域が人間により減らされているからです。それに酸性雨が降ることで、土壌が悪化し森の状態も貧しくなってきています。酸性雨が降れば、化学反応を起こし土中のアルミニウムが溶け出します。すると根が弱り樹勢も衰えるという悪循環です。

動物たちが山奥の自分たちの生息領域を超えて出てくるのはそれなりに理由があるからであり、その意味から自分たちの不自然な暮らしを見つめ直す機会にしていけばいいのでしょうが世界的に森林は伐採されこのままでは地球のほとんどが人間だけで埋め尽くされていくのでしょう。

地上には人間以外の生き物たちが棲んでいますから、本来の豊かな生活を取り戻していくことができればきっとそういう生き物たちと穏やかに暮らせる時代がまたくると思います。

そして今は人間が最強のようになっていますが、植物たちはとてもすごいチカラを持っています。今回の柵も植物たちが覆いかぶさり重さで押し倒しました。少しずつのチカラ、広がるチカラ、伸びるチカラ、繁るチカラ、引き出すチカラ、呼び起こすチカラ、縮むチカラ、他にもありますがそのチカラは膨大で無限です。

この生命力溢れる植物たちに私たちは敵うことはありません。

結局は、抑え込んで我が物顔で好き勝手なことをしたとしても永くは続かず必ず共生して折り合いをつける日が訪れます。そうなることを分かっているのなら、生き方と働き方を考え自然に沿った暮らしをしつつ、人間社會も豊かにしていく道を探っていった方がいいように思います。

聖徳太子が目指した政治のように、「和をもって貴しとなす」という穏かに一緒に暮らしていく世の中は普遍的な自然の摂理を語っているように思います。

自然に近づけば近づくほどに、自然の持つ共生の醍醐味を感じます。

今回のことからも、学び直し、尊敬の心を大切に「自然の和」を実践していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

サムライスピリット

小野田寛郎という人がいます。この方は太平洋戦争終結後も含めてフィリピンのルバング島で約30年間戦い抜きその後帰国した方です。他にも横井庄一さんといってグアムで約28年間ジャングルの中で生活した残留兵の方がいます。

この方々は、戦争が終わったことが知らされずその後、その場に留まり任務を貫徹されていた方々です。すごい精神力と体力、そして覚悟で生き抜いてこられた方だと思います。

その方々の遺した言葉や、その人生の自立した歩み方をみると私たちが今忘れてしまっている大切なことを思い出されます。

戦時中は、常に死が隣り合わせにありました。死を意識しない人などおらず、常に死を考えてはどう生きるかを考え抜いて生きておられた方々ばかりだったといいます。今は、平和ボケしてしまいむしろ死を思うことなどはほどんとありません。そんな状態の人たちがもしも小野田さんや横井さんのような状況下に置かれたら何十年も生きていくということはできないと思います。

日本人の精神に「覚悟」というものがありました。世界ではサムライスピリットとか言われ「侍魂」のことをいうと思います。この侍魂の定義はどうなっているかというと「高潔で誇り高く、何者にも屈しない強い意志と、穢れることのない心とを併せ持つ、極めて純粋な想いを根源とした、自己犠牲的精神」であると言います。

シンプルに言えば「高潔で正直、真心の義徳人」というのでしょうか。私はお二人の残留兵であった小野田さんと横井さんにその心を感じました。

戦争云々の話ではなく、兵隊がどうかでの話でもなく、どのような生き方をなさった方々かをみるとき、日本人の精神を持っている人とはこういう人なのだろうと感じるのです。

そのお二人の言葉には色々と印象に残るものがあります。

「死というものを考えたうえで、毎日毎日を自分らしく力いっぱい生きていくということで、自分が思っている以上の大きな力が出るものです。そうすれば、自分でも納得できる生涯が送れるのではないでしょうか」(小野田寛郎)

「人間ジャングルと申しましたのは、戦後、人間の心が変わってしまったと感じるからでございます。、、私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。、、勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。、、食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。、、、子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません。」(横井庄一)

「遊んでいるように見える小鳥だって、天敵から逃げたり戦ったり、食べるために必死で餌を探して営々と努力しながら生きてきているのです。人間も同じことだと思います。のほほんとしてはいれられないと思うのです。」(小野田寛郎)

「不要なものは食うな 着るな 使うな。物質的にはケチケチ作戦を実行しながら、なにかひとつ精神的になにもかも忘れて打ち込める趣味を持つことです。」(横井庄一)

「生きることは夢や希望や目的を持つこと。それらは教えられたり強制されたりしても、湧くものではない。自分で創り出すしかない。甘えてはいけません。」(小野田寛郎)

直接お会いすることはできませんでしたが、その「日本人らしい」とは何かをお二人の姿から深く考えさせられました。今、中国と米国が緊張状態に入り、いつ戦争がおきてもおかしくないような緊迫した世相になってきました。小野田さんもインタビューの中で、戦争はある日突然起きると仰っていました。それまでの生活が一変すると仰っていました。

国際社会の情報戦の中で、本当のことが国民には見えなくなっていますが世界は今大きな岐路に立っています。人間は太古の昔から何度も何度も同じ過ちをおかしてしまうものです。

だからこそどう生きるかというのは、それぞれに与えられた命題でもあります。私たち一人一人が変革できるのは、どれだけ「日本人らしく」なっていかのようにも思います。一つのお手本があれば、世界はそのお手本を通じて学び直していきます。

グローバリゼーションの中で、自立する心を失ってしまっては言い訳ばかりを上塗りするような生き方をしてしまうものです。そうならないように、お二人の示した姿から日本人とは何かを今一度見つめ直したいと思います。

歪んだ勤勉、歪んだ努力、歪んだ高潔ではなく、正直で真心、高邁な精神と高潔な志に生きた侍魂を持っていた先人たちをお手本に精進を続けていきたいと思います。