久しく永い時間のモノサシ~棲み分けの智慧~

畑に出て来年の高菜のお世話をしていると、周りには夏草から秋草に入れ替わってきています。一年の同じ場所を分け合って他の草草は生きています。これを棲み分けとも言いますが、生き物たちの絶妙な棲み分けには感動します。これは場所に限らず、明るい時間と暗い時間、夏と冬、地下と地上、冷と熱、様々なところに移動しては棲み分けます。

地球は一つしかありませんから、一つの場所を同じ種がずっと占有していてはそこで争いが起こります。これは自然界のものが、共生を優先していることを物語ります。共生とは譲り合いのことで、進んで争わないということです。常に自然界では和を優先して生き物たちは久しく生きながらえてきました。

競争していないはずはないといいますが、実際は長い目でみて競争はせず共生しているのです。目先のことだけをみれば、競争して勝ち残ったものだけが生き残るとも捉えられますがそんな修羅のみの世界で生き物たちは暮らしているわけではありません。末永く久しく生き残るために、敢えて厳しい環境に身をおいて生き延びようとしたけで進んで争いたいと思って生きている生き物はありません。

その証拠に、生き物たちは多くをとり過ぎることはありません。その時、必要な分だけを分けてもらうのです。自然が循環して、自分の行いが長い年月でどのようになるのかを自覚するからこその棲み分けです。

つまり棲み分けとは、常に久しく永い時間のモノサシがあるからこそできることです。人間は、久しく永い時間のモノサシを捨ててきているのかもしれません。自分の代のことや自分の心配ばかりをし、目先の競争や保身に一喜一憂してはそのために資源も何もかも浪費するという考え方は果たして久しく永い時間のモノサシにはどう映るでしょうか。

生き残るというのは、決して厳しいだけではなく自然の豊かな恩恵の中で幸せに暮らす時間を与えていただいたという捉え方もできるはずです。いのちがこの世に存在するというのは、それだけ自然の愛や真心を受け続けることができるということです、まさにここが自然の楽園であり極楽浄土です。

その豊かさや仕合わせを感じられないということは不幸なことかもしれません。本来のモノサシを取り戻し、子ども達に悠久の時を譲っていきたいと感じるばかりです。日々に本業を通して伝承していきたいと思います。