全心全禮~真心の生き方~

人は自分のことを無意識に飾っているものです。周りからよく見られたい、また見せたいと思っています。それ自体には問題がないのですが、他人の目気にして自分が見せたいものを見られたいとあまりにも思っていると人と人との本物のつながりや結びつきが希薄になってしまうかもしれません。

「素顔」という言葉があります。これを辞書でひくと、「1 化粧をしていない、地のままの顔。2 飾らない ありのままの姿。」とあります。人は御互いが素顔になることで、本当のその人を知ることが出来ます。素顔になるというのは、その人に胸襟を開いているのだから信頼する人に対して自分の顔に鉄の仮面をつけないという意味です。

人は装飾し合っている姿でかかわる人間関係と、本音本心で語り合いたい仲間がいます。仲間や同志というものはいつもはだかの付き合いをしたいものです。これは別に真っ裸にからだを見せ合うことではなく本音を見せ合うことです。はだかの付き合いをするというのは、隠し事もせずお互いに全心全禮でいるということです。つまりは自分の心に衣をきせないということです。

人は友のことを、莫逆の友 ・  無二の友人 ・ 盟大の友人 ・ 刎頸の友 ・ 大の仲良しなどという言い方をします。特に志を同じくし生きている人は同志といい同時に人生を共に歩む戦友でもあります。そういう友に対して、素顔でいることはだかの付き合いをしようと声がけしてくれるというのは「語り合おう」という声がけでもあります。人は出会いによって人生が変わります。どんな人と出会い、どんな仲間を持ち、どんな自分を持てるかは自分の素顔と心をさらけ出せる人を持つということです。

人は本当の自分を好きになってくれる人に心を委ねて安心します。自分自身を自らが偽り飾りそして隠すと寂しい人間関係が出来上がってしまいます。人生というものは、道もありますが朋もあります。同朋を持つというのは、一期一会の志を豊かに飾ってくれる青春を持つことかもしれません。

最後に刎頸の友という言葉があります。

これはその友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの、親しい交わりの友のことです。春秋時代、趙の将軍廉頗は、功績により自分より上位になった名臣藺相如を恨んだ。しかし相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた。それを聞いて廉頗は自分の考えを恥じ、深く反省し、相如へわびに出かけて刎頸の交わりを結んだという故事によります。廉頗と藺相如がかたい友情を結ぶまでには紆余曲折があり、素晴らしい友というのは一朝一夕で決して得られないということです。自分自身が首をはねられても守りたいような友に出会える御縁に結ばれることは何よりも魂の仕合せかもしれません。

人とどんな付き合いを自分がしているかは、自分がどんな生き方をしていきたいかにつながっています。人生は、どんな人が周りにいるかでその質もかわりそして歓びも仕合せも変わります。

無二の人生だからこそ、人間を信じ、志を優先し、本音本心が出せる無二の自分を誇りに思いたいと思います。子ども達の心はいつも素顔のままの清らかで美しい表情をして心を周りに開いています。私たちの本業が子ども心を守る志事だからこそ、自分自身が清く明るく直き心で全心全禮の実践を積み重ねていきたいと思います。