偏見よりも感覚を信じる

人がその人を観るのにその人を観ずに立場や肩書を見ようとする人がいます。例えば、どこの大学出身だとかどの企業に勤めているとかもしくはどんな役職でとかでその人のことを確認したりするものです。

しかしその人そのものを観るよりもその人の肩書を見た方がその人のことが分かるというのはほとんどないと思います。特に一生を伴にする人を選ぶのにその人の肩書だけで決めるということはしないように思います。実際にその人のことを知りたい場合はその人の人柄に触れ、どんな人物なのかを見極めることが人付き合いには必要のように思います。

もちろん人によっては肩書きなどに頼らず、その人の人望や人柄をよく観察し人を見極めるのが得意な人もいます。沢山の人たちと付き合っていく中で、信頼できる人や信用できる人、そういうものを直感するチカラが長けている人もいます。周りが凄いと思っているからすごい人と思ったり、世の中が評価するからきっと評価通りの人だと思ったり、そのうち自分の価値観が出来上がり偏見が入ってくるように思います。結局、誰かが決めた評価基準に従って判断することが慣れてしまえばそれを鵜呑みにして自分で判断するチカラがなくなっていきます。

人物を自分の目で観て、自分の耳で聴いて、自分の感覚で確かめるというような五感を使って行う判断よりも、誰かの評価に従った方が安全で安心だと思いこんだりします。そして自分で判断しないことをいいことに、誰かのせいにしたり言い訳をしているうちに余計にまた立場や肩書重視の偏見に陥っていくようにも思うのです。

実際にもしも肩書きや立場、職業などがなくなったとき自分が一体どうなっているのかと考え直してみてみるといいように思います。職業がその人ではなく、その人がその人なはずですから人は職業に集まるのではなく人望に集まっているのです。だからどの時代でも人望のある人はたとえ肩書きがなくなってもその人は他人に求められますし、志と実行力がある人はどんな場所にいても他人から探し出されるものです。

人が本来、人を観るのに大切なのはその人の人格ではないかと私は思います。

人格を磨き高めている人や、道の実践者、道の体現者は肩書きがなくてもその人が放つ場の雰囲気やその人の様相をみると一目でただならぬ感じがするものです。肩書きや立場などがない動物や昆虫の野生の世界は、相手が強いか弱いか、どういう存在かを直感しているはずです。生き残りをかけた自然界の中で伴に生き残るために誰と一緒にいるかの判断を間違うと大変なことになるからです。生き物たちはその感覚を伸ばし、生き残るための大切なセンスを養い続けているように思います。

誰に着いていくのか、誰と一緒にやるのか、この誰とは生き残りに深く関与します。それを大きな企業だからとか、公務員だからとか、肩書きを見てこの人は安定しているからとかそんな基準で選んでいてはセンスが磨かれないようにも思います。偏見こそがセンスを鈍らせ、センスは偏見によって失われていきます。

自分の目で観て自分の耳で聴き、自分の手で触る。

こういう五感を磨いていくことが、偏見を取り払う大切な体験なのかもしれません。子ども達が偏見によって差別し、差別によって苦しんでいる人たちがたくさんいます。個性すらも障害と呼ばれる時代、世間にある偏見に惑わずに自分のことを信じられるようになるためにも、自分の五感を使うということの感覚を磨いていくことを実践していきたいと思います。