鐵から学ぶ

私たちは明治期に諸外国の技術に追いつくために、それまで永らく先祖たちが磨いてきたそれまでの技術を一旦捨てました。例えば、製鉄法でいえばたたら製鉄という砂鉄を炭で熔かして純鉄といった玉鋼を作る技術から、西洋のコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた炭素との合金である銑鉄を作る技術になりました。

それまで少量ですが質の高かった技術よりも、質が下がっても大量に便利につくれる効率の良い技術の方を優先したとも言えます。産業革命はそこから発生し、大量生産をした戦争の武器を含め、様々な鉄製の道具が作られました。

世の中の道具を見渡してみると、車も船も飛行機も、それに身近な建物から生活道具に至るまで鉄は利用されています。

地球の3割は鐵でできていると言います。マグマの鉄がなければ磁場を作り出すことはできませんし、磁場がなければ地球は紫外線や太陽風を避けられず生命は存在できません。さらに生育の観点から見れば、血液が赤いのは赤血球が赤いからであり、その中のヘモグロビンなど鉄イオンがなければ酸素を肺から身体の隅々にまで送ることが出来ません。他にも植物をはじめすべての動物には、体内に酸素を供給する鉄分の補給が欠かせません。つまり光合成、呼吸、窒素固定、DNA合成、等々、地球上のあらゆる生命体はこの鐵がなければ生きていくことできないほどかけがえのない存在なのです。

地球は鐵の塊であり、その周りを水で覆っているだけとも言えます。水の惑星とも見えますが本質は鐵の塊が星の姿であるのです。その星の根本が隕鉄で生成されて、私たちは星の熱にいのちが暖められ地上でいきることができています。

話を戻せばその鐵の生成において、単に効率を優先して大量に生産すればどうなるか。鐵を生成する本物の技術が消失するということは、本来の鉄の質が低下していくということです。

例えば、日本刀でいえば慶長年間以前に製作された刀を古刀とんでいますがこの年代を境として日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があったそうです。慶長年間以降の日本刀を新刀と呼びますが不思議なことに鉄の精錬技術が未熟であったはずの古刀期の日本刀の方が刀鍛冶同士の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多いといいます。戦争により大量生産がはじまることで優れたものが消失してきたとも言えます。これは明治以降と同じ状況です。常に質は戦争によって下がっていきます。

大量に生産するということは、質を求めていくこととは異なります。ここでの質とは本質の質のことです。つまりは「それは何であるか」が失われていくことです。本来の鐵が次第に鉄ではなくなって別のものになっていく、それでは自然から得た智慧をも失っていくとも言えます。

先人や先祖たちは、そのものの性質を見極め、そのものの性質に合わせたものづくりを大切にしてきました。もっとも理に適った方法で、もっとも理に沿ったものを作ったとも言えます。それは自然循環に逆らわず、地球が喜び、生き物たちが活かされる技術でした。人間都合でだけの技術は、質が低いものとして扱わず大切にしてきたからそのものの伝統技術が今に光っています。

鐵は今、まさに過渡期にきていますがこれは人もまた過渡期になっていることを意味します。如何に明治時期に失った技術を温故知新して今の時代に譲り遺していくか、これは生き方を含め真摯に向き合う必要がある様に私は思います。

鐵を深め、鐵から学び直していますがそこに観えてきたのはいのちを活かすという自然の智慧を鐵が持っているということです。歴史の中で変えてはならないものが何で、変えていくものが何か、本質を維持するために今の世代の責任者として今できることを子どもたちのために遣り切っていきたいと思います。