自然の改善

人は自分がどのように育ってきたか、育てられてきたかというのは今の自分の価値観を形成するにおいてとても大きな影響を持っています。特に両親や祖父母の存在、または環境が与える影響は著しくその後の人生を左右するものです。

そしてそれは価値観を形成し、どのような評価を持つかということに繋がっていきます。自分の価値観が一度形成されてしまうと、その人にとっての「当たり前」のルールを持ちます。するとその価値観の中で様々なものを仕分けし、価値観以外の出来事を異質なものとして排除したり取り容れたりしていくものです。

特にその後何らかの教育を施され、皆と同じでなければならない、これはやってはならないなど様々な「ねばならない」という価値基準を刷り込まれてしまうとさらに価値観の中にその「当たり前」は定まっていくものです。それをその人にとっての「常識」と呼んでもいいかもしれません。

本来、人間は寛容さを失うとき柔軟性と多様性を失います。つまり変化を受け容れることをやめるとき、朽ち果てていくとも言えます。それは植物でいえば、新芽若葉が枯れ木になるようにその他の動物たちが赤ちゃんから年寄になるように柔らかいものが固まっていくものです。

それは価値観も同じく、年老いていけばいくほどに価値観が確立されていき次第に様々なことに固執していくものです。そして価値観が一つの考え方、ものの見方に固執してしまえば自分の方の寛容さも同時に失ってしまうものです。

例えば自然界というものは、常に自分の方の変化が必要になります。雨も風も太陽も、または災害もこちらではどうにもならないほど自然は正直です。その自然に向かってどうにかしようとしても、自然はそのままあるがままですからこちらが変化するしかありません。寒暖風雨には自ら場所を移動し、寄り添い寄せ合い、寒さをしのぐ逞しさを鍛え助け合い生き残ります。人間のように暖房があるわけではなく、暖炉があるわけではない生き物たちは相手を変えようとはせずにさらりと自分の方を変えていきます。自分の価値観ではどうにもならないほどの体験を、思い通りではない体験を素直に受け容れる柔軟性、またそれぞれの持ち味を活かして周りの生き物たちと一緒に乗り越えようとする多様性が自然界の智慧なのです。

人間も同じく生きていく上においてその場面は何度も「変化」という名目と共に訪れます。変化するということは、自然の智慧に回帰することです。本来の自分たちが大切に維持してきたその能力、言い換えれば素直な能力を存分に発揮することこそが自然の姿であり、その素直な能力があるから自然に回帰して不自然が消えていくのです。

人間も自然の一部ですから、本能が不自然を察知して変化をはじめるものです。自然か不自然というモノサシを価値観とは別に持てるようになれば自ずから異質なものを認める寛容さを磨き素直の能力を活かして価値観をブラッシュアップしていけるように思います。そのためには減点法やマイナス思考というそれまでに刷り込まれた価値観を手放し、逞しい前向きな自然の改善の姿に回帰していくといいように思います。

引き続き、子どもの生き方に学び直し子どもの周りに自然を育んでいきたいと思います。