徳の本体

「徳」という言葉があります。今の時代は損得の得ばかりが優先されているようにも思いますが、この「徳」は人間が本来備わっている天性の種でありそれをどう育てていくかで今や未来が変わっていくものです。改めてこの「徳」とは何かを少し書いてみようと思います。

松下幸之助氏は、「人間として一番尊いものは徳である」といいます。

本田宗一郎氏は、「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか」といいます。

吉田松陰においては「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない」といいます。

論語や老子、修身など学問をするものたちにとってこの「徳」は中心に置かれ、その徳を歩むことこそが人間の道であるともいいます。

しかしその徳はどのようなものか文章で書けということになるとはっきりしません。松下幸之助さんもこのように語ります。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

この徳は、頭や知識で理解するものではなく心境によって学ぶものです。ただ良いことをしたら徳かといえばそうではなく、徳は目には観えないものだからこそ心で悟るしかありません。

例えば、太陽の徳とは何か。日々に私たちを照らし続けていのちに大切な光を与えてくださっています、これを徳とも言えます。他にも太陽は私たちが目には観えない偉大な効果や効能があり、万物を活かします。言い換えるのなら太陽の徳は、陽徳ともいい、明らかにはっきりと徳が観えますが同時に目には観えない陰徳もあります。この陰陽の徳とは、万物の徳のことを指します。

これだけ徳というものは、生きていく上で欠かせない恩恵のことです。太陽を擬人化するのならそこには自己中心的な生き方はなく、万物を活かし続けていく生き方があります。そこは無為自然であり、我欲のない澄んだ真心の姿があるのみです。

老子はその徳にも最上の徳があるといい、それをこう表現します。

「徳のある人は自分の徳を意識しない、それは徳が身についているからだ。徳のない人は徳を意識するため、なかなか身につかない。だから、最上の徳は無為であり、わざとらしいところがない。低級な徳は有為であり、わざとらしいところがある。」

老子はこう続きます。

「ところが最上の礼をわきまえている人ほど、相手がその礼に応えないと、 腕まくりしてでも、自分の礼に合わせようとする。なぜだろう。つまり、こうじゃないか。 無為自然の「道」が失われて、その後に“徳”が説かれ、“徳”が失われたあとに“仁”が説かれ、“仁”が失われたあとに“正義”が説かれ、“正義”が失われたあとに“礼儀”が説かれたのだ。だから、礼儀が説かれだしてからは無為自然の徳など、どこかにいってしまったのさ。なぜなら、礼儀というのは、人間のまごころが薄くなったからできたものであり、世の乱れのはじまりなのだ。仁義を形にする礼がはびこるのは、 見せかけだけのもので、「道」の本質を表したものじゃないんだよ。そんなものは「道」のあだ花であり、人間を愚劣にする始まりなんだ。なぜなら、立派な人間というのは、まごころの厚いほうにいて、 薄いほうにはいないものだよ。だから、もう一度、 形ばかりの礼とか知を捨てて、もとの「道」に戻るしかないのさ。」(老子)と。

ここまでくると徳の本体がはっきりとしてきます。

この「徳」とは、人間でいえば真心のことであり、思いやりのことであり、至誠のことを言うのです。この真心や至誠は決して単なる知識や学識を語るだけで実現するものではなく、真心の行動と実践によって実現するものです。

太陽の徳も月の徳も、水の徳も火の徳も、あらゆるすべての宇宙や自然には真心が存在します。その真心を発揮していくことこそが徳であり、私たちは真心で生きることではじめて本来の徳を積むことができます。

徳を積むことを頭で計算でできるはずはなく、徳を譲ることは我欲など入ればできるはずありません。ただただ一心に真心を澄ませ、思いやりのままに行動し実践することで徳は積まれていくものなのです。誰かのためにや、大切な人たちに自分の保身を入れず誠心誠意尽力していくことで顕現してくるものなのです。この徳を極めはじめて次第に万物自他一体善の境地を体得することができるように思います。

だからこそ徳を悟るには、この真心の実践の場数を積み重ね自分自身が仁徳を身に着けていくしかありません。この道には決して終わりがなく、今も生死を超えて永遠に存在し続けるているのです。

学問は本当は何のためにあるのか、それはこの徳を積み、心を磨き、魂を澄ませ無為自然に徳そのものに近づくためにある唯一の道なのです。人間が人間であるために、自然の中の一部として偉大なる与えられたいのちを活かすために古から今に至るまで本物の学問は須く「道」を説くのです。

引き続き子どもたちのためにも、徳を積む大切さ、徳の経営を実践していきたいと思います。