祈りは実践

奈良県桜井市初瀬には長谷寺には朝の勤行として祈りの回廊というものがあります。1000年以上毎朝欠かさずに勤行をし十一面観音像に祈りを奉げておられますが、この日々の祈りということの偉大な価値を感じます。

この日々の祈りというものは、日々の修行とも言えます。一日を一生として、やったりやらなかったりするものではありません。この勤行も前の日にし忘れたからと、二日分を取り返すことなどはできませんしする必要もありません。後から足していくものではなく、その日に磨くものですから引いていくものです。日々に磨かなければ引くことはできません。

この祈りというのは、日々に欠かさずに行うものです。それは心がいつも初心に帰り、初心のままに祈り続けることが本当の価値であるからです。祈りの力というものは、言い換えれば信じる力のことで信仰心とも言えます。

このブログもそうですが、やったりやらなかったりしたことはありません。毎朝必ず、同じように祈るように書いていくことが本当の意味です。誰かに読んでもらったり、ただ欠かさずに続けることのためにやっているわけではありません。

日々に自分の心に問い、自分の心から願うことを祈り続けるための一つの実践をして書いています。

何のためにやるのかということを理解するには、その人がなんのために実践するのかを悟る必要があります。悟るためには、その人がやっているように日々に愚直に続けながら深めていく必要があります。

特に祈りや信仰心などの大慈大悲の真心は、一朝一夕ではなく文字通り命懸けの死ぬまで続けていく精進のことです。いろいろな人がいますが、果たしてどれだけ祈りとして実践を位置付けているのか。ここに天地の開きが出てくるように思います。

この長谷寺の朝の勤行の祈りのまた、信仰心という祈りの力によって人々の苦しみを取り払いたいという真心の実践でもあるように思います。

引き続き、子ども第一義が単なるお題目にならないように真摯に祈りを続けていきたいと思います。