怒りから学ぶ

人は怒りを持つことで、それが義憤になることもありますがその矛先を自分に向けると自分を責めてしまいます。自分を責めないというのは、自分に対して怒らないということです。人は怒るときに攻撃します、その攻撃が相手に出る人は暴力になりそれが自分に向くときは責めることになるのです。

この怒りは何処から来るのか、それを日本アンガーマネージメント協会代表理事の安藤俊介さんはこう言います。

『怒りの源泉は、人間が持つ「自分の身を守る感情」。動物は敵が現われたとき、すぐさま相手に飛びかかったり、逃げ出したりできるよう、臨戦態勢に入ります。その際、アドレナリンという心身の興奮状態を作るホルモンが分泌されます。これが怒りの源です。また、自分が守りたいテリトリーを脅かされたとき、同じように臨戦態勢に入ります。そのテリトリーとは、誰しも心の中にある、「こうあるべきという価値観(思い込み)」です。』

人はそれぞれに価値観が異なります、自分と価値観が異なる人に共感できずにいたらどうしても自分の価値観を守ろうとします。その時、本能的に自分を守るために怒りの状態になるということです。

確かに、腹が立ちイライラするのは相手のことがどうしても許せない時や、許せない自分に怒っていたりします。価値観を分かり合えないとき、複雑な感情が怒りとして出てくるのかもしれません。そして怒りは同時に必要なものだといいます。

「怒りはゼロにする必要はなく、むしろ必要な感情です。怒りを失った人間は危険察知や防衛本能すら失い、この世を生き抜くことが困難になります。実際、側頭葉を損傷し、怒りの感情をなくした人が、何が危険なのかわからなくなり、リハビリ中、怪我をし続けるという事例が報告されています。」

つまりは、自分を守るというのは誰にしろ必要な力です。それが正常に働くように調整する、過剰になりすぎるのは守りすぎたり責め過ぎたりとバランスを崩しているからです。自分の感情を理解していくことは、自分自身との付き合い方を学び、自分を大切にしていくプロセスになるように思います。

誰かによって一方的に価値観を押し付けられ、それに対して感情を押し殺していい子でいようとしたり、親に逆らえずに我慢してその分、自分を偽って誤魔化したりして親の気を引こうとするとかえって自分への怒りに呑まれてしまいます。そんな時大切なのは、怒りの矛先を何処に向けるかというマネージメントではないかと私は思います。義憤というものもまた、その怒りを力に換えて行います。人間は、悲しみも怒りも力に換えることができるからです。

そしてむかしの未熟な感情を引きずっていたとしてもその時を大人になって思えばその時の自分も親も生まれたて出来立ての弱くて未熟な存在だったのですからお互いに間違いを許し認めて「ごめんね」と謝れる関係、また「お互い様だね」と分かち合い思いやれる関係、いつまでも心に許せずに引っかかってしまった自己との対話の修復を、時間をかけて傾聴、共感、受容、感謝で溶かしていく必要があるように思います。

改めて私たちの取り組んでいる一円対話の価値を見直しました。引き続き、感情と向き合い自己と健やかで安らかな関係が築いていけるように日々に心に耳を傾けていきたいと思います。

乗り越えるということ

成長のことを思う時、自分の人生においてどこがもっとも成長したかと振り返るときそれは困難に立ち向かい困難を乗り越えた時のように思います。その困難は失敗の連続であったり、高い壁で八方ふさがりになったり、怪我や病気で苦しんだり、心身共に挫折したり、自分自身と向き合い「乗り越える」ことが求められた時のように思います。

この「乗り越える」とは何かといことです。

少し深めてみると、この乗り越えるのは順風満帆の時に使う言葉ではありません。逆境や困難の時に用いられます。人間は誰にしろ因果応報の原理が働きますから、今起きていることは過去の何かに起因しているものです。つまり変化は突然やった来たことではなく、必ずいつの日か起こりうる出来事がその時に発生したということになります。

その時、自分にとってはそれがとても受け容れ難い変化であり、その変化に順応しようと努力するとき、人はその意味を理解し努力をして乗り越えていくことができます。

この時の努力は、物事を福に転じたり、楽観的に今に集中したり、感謝にまで心を高めていくことをいいます。つまりは「心の持ち方を変えることができた」ということが乗り越えたということになるのです。

有難うという言葉も、難が有ると書いています。自分にとって困難な状況の時こそ、感謝で乗り越える、ありがとうで乗り切るという智慧が言葉に宿っています。

感謝の反対は当たり前といって、何でも当たり前になっていくとき困難に潰されていきます。ないものねだりではなく、如何にある方をみるか。そして足るを知り、頂いているものに感謝できるかが人を大きく成長させていくのかもしれません。

困難は人間を進歩向上するための砥石なのです。

一度しかない人生で、自分自身を向上させていくことは人格を磨き夢を実現するための唯一の手段です。歩みながら感謝、謙虚、そして素直と心の持ち方をどんな時でもその状態が維持できるように日々に精進していくしかありません。

子どもたちが憧れるような進歩向上を歩んでいきたいと思います。

 

成長主義~成長のバトンをつなぐ~

この世のすべての生き物はこの世に生まれてきた以上、すべて「成長」していきます。どんなものでも成長しないものはなく、様々な体験や経験を通して発達していくのです。

人間であれば赤ちゃんの頃から成長して大人になっていきます。しかしこれは不思議な話で、体が大きくなって歳を経て大人と周りから言われるようになっても私たちは成長し続けます。つまりは大人になることが成長ではなく私たちはずっと死ぬまで成長し続け、さらには命のバトンを繋ぎながら永遠に成長していくのです。

そう考えると、今の自分も成長の途中であり親祖から今まで多くの先祖たちがずっと成長し続けて今の自分にバトンをつないでいます。その成長のバトンを受け取って私たちは今、様々な成長の御縁をいただきさらなる成長に挑んでいるのです。

自分のことだけを心配したり自分の代のことだけを考えすぎると、自分が何のために生まれてきたのかを見失ってしまうことがあります。人類の成長、そして世界の成長、子どもたち未来の成長のためにと自己を超越すれば成功よりも成長が必要であることが分かります。

一時的な成功を手にしたとしても、それが成長とは限りません。現代は成果主義が蔓延し真面目で責任感が強く優しすぎる人は、すぐに自分を責め過ぎてしまいます。しかし自分を責めても意味がなく、それよりも自分が成長していることに気づき、その失敗の体験から学習しさらなる成長のための挑戦をしていくしかありません。つまりそういう時こそ成長中であり成長の伸びしろが増えていくときだからです。

人生の最期に「いい人生だった」と完結できる人は、本当に多くのいろいろな方々が自分の成長を見守り自分というものを育ててくださったという感謝と共に自分はこの世で何よりも成長できたと実感し、その成長をもって次の世代に夢を託していける仕合せに出会っています。それが「成長主義」です。

この逆に人生を見失い自分を責めるという心理は、その成長の過程を否定するものです。抑圧社会の原因になっている権力者の人間支配による成果主義や結果主義が人を歪んだ個人主義の価値観に追い込んでいきます。

本来は失敗して辛く苦しい時こそ、人は人間として大きく成長していきます。つまりは失敗し困難が訪れるとき、そして苦しい時こそ自分の「伸びしろ」があることに人は気づけるのです。責めるのではなく、伸びしろがあると自分を奮い立たせてまた挑戦をし成長の糧にする。まさに人間が人生を歩むというのは、いかなるときでも「成長を続ける」という選択なのでしょう。これが学問の価値です。

現代では、すぐに簡単便利に楽を選んですぐに結果が出ることばかりが価値があるかのような考え方があります。努力をせず苦労をせず無理をせずに効果的に手に入る仕組みばかりが重宝されます、しかしその方法は果たして成長を選んだかということです。敢えて成長を選ぶということは、より苦労の多い方に舵を切るということです。成長をした人は、人間として修養され一つの立派な人格、人徳を得ます。すべての命には善悪勝敗正否はなく、唯一の「成長」があるだけなのでしょう。

最後に出光興産の出光佐三の言葉です。

『一つの目的を達成するのに非常に楽な道と非常に苦しい道とがあるとする。苦しい道をとっても、楽な道をとっても目的は達せられるが、どちらを選ぶかといえば我われは敢えて難路を選ぶ』

成長を選ぶことこそ、成長のバトンを受け継いだ私たちの使命です。子ども第一義の理念に恥じないように、常に成長を選んで挑戦を続けていきたいと思います。

 

永遠の修養

人間は誰にしろその一生を多くの人たちに支えられて生きています。この当たり前のことを忘れて傲慢になるとき謙虚に気づかせてくれることがたくさん発生します。まさにその時、自分が見守られ支えられていることに気づき直すチャンスだったりします。

例えば、能力が高く何でも自分がやっているような気になったとしてもそれは本来誰かのためにと力を与えてもらったものであり、もともとは自分のものだったわけではありません。自分が能力が高いのは、それだけ頑張って努力してきたらですがそれは言い換えれば努力させてもらった相手があったり、頑張ることができただけの大義があったりと、それを助けてくださった人たちがいたり、知識を与えてくださる先人があったりと、全部自分だけでやったのではなくその目的や理由、周囲の支えによって得た経験や知識だったはずです。

傲慢になればその能力は自分が自分だけで努力で身に着けた自分のものだと思い込み、周囲に不満を持ったりするものです。悪くなると、自分だけが頑張って周りは何もしなかったと文句を言ったりもします。しかしよく考えてみればすぐにわかることですが、自分が期待されたことを頑張ったように周りに同じだけ期待しても周囲は自分の思い通りになることはありません。期待に応えたのは主観ですが、実際はみんなが支えてくださったのが本当の事実だからです。人間は誰も自分をみんなが支えてくださったからできたことで自分も同様に時として誰かやみんなを支えているのです。真実として人間は、一人では生きていけないことに気づくことがまずその人生立脚の原点なのでありそれを一生をかけて修行しているともいえるのです。

人が傲慢になる時、敢えて様々な事件が発生してきます。たとえば病気であったり、事故であったり、失敗であったりと大きな挫折を味わうのです。その時、自分がなぜと最初は思うのですが時間の経過とともに自分は果たして感謝があったかと、自分は傲慢になっていなかったかと謙虚さに気づき直すのです。大きな傲慢が大きな謙虚に気づくチャンスであり、大きな失敗が大きな感謝に気づくチャンスになるのです。

そうやって人生は何度も何度も順風満帆のようなときに足をふり払われては躓きころんで、そしてこけてはまた起き上がりの繰り返し。傲慢になって転んでまた謙虚になるようにと七転び八起きしながら前進してその人間としての人格を磨いていくのです。

人格がある人でなけれ決して天与の才能は活かせませんし、それは例えれば膨大が富があったとしてもそれに相応しい人物の格がなければそれを使いこなせないのと同じなのです。器に相応しい格があってはじめて持ち味は活かされます。だからこそ人間は徳を積む必要があるのです。本物のリーダーはみんな、それを自覚するからこそ学問の王道に沿って自己錬磨を怠らずに日々に実践と精進を続けるのです。

人間の器が未熟なうちはいくら能力だけあったとしても必ず何か怪我や病気、その他で躓きます。それを憎み恨むのは視野が狭いだけで、実際はあなたを心底思いやる真心の存在たち、先祖や神様、周囲の大人たちや親友や恩師かもしれませんが感謝に気づかせようとみんな支えてくれているのです。そういう存在を感じる心が成熟するほどに「感謝を忘れてはならない、謙虚さを学ばなければならない」というメッセージを感じる感性が豊かになります。

人間はみんな傲慢によって謙虚を磨き直し、挫折によって感謝を研ぎ直す、そして人間は転んだことによって素直さを洗い直すのです。

だからこそこの傲慢や失敗、弱さを敵視し否定するのではなく丸ごと受け容れるために病気や怪我などの出来事を味わいます。これらを自覚して感謝するから人はその分だけ強く優しくなります。弱さを知らない強さは傲慢を育てその分だけ自信を奪います。自信は常に信じ合うところにあります。みんなが自分を信じてくださったように自分もみんなを信じることこそ自信であり、自己を超越するとき信の本体にも出会うのです。信の本体とは何か、それが御縁なのです。自分に与えられたものが如何に多くの人たちの御縁によって与えてくださったものか、今の自分の実力は果たして自分が勝手に身に着けたものか。またそれをひとり向き合い、自問自答して自学自悟するのです。

畢竟、人間は生まれてきた以上は「永遠に修養」あるのみ。

深く自己を反省し見つめ直しながら、頂いた御恩や御縁を私物化せずそれをもっと自分を通して偉大にして皆様の御蔭様に与え直せるように日々にお互い様、御蔭様を味わいながら幸せに生きていきたいと思います。

きれいに明るく磨く人

先日、イギリスで19世紀から20世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、政治家、教育家のジョージ・バーナード・ショーの言葉に出会う機会がありました。

本質的でユーモアにあふれ、真実をありのままその通りに上手く表現できる文章の数々に磨かれた一点の曇りのない鏡のような心を感じました。いくつかの言葉を紹介します。

「いつも自分をきれいに明るく磨いておくように。あなたは自分という窓を通して世界を見るのだから」

自分の心を通して目は物事を観ます。美しい心を持つ人は美しい景色が、疑心暗鬼の目を持つ人の心には疑心暗鬼の世界が、本来の心は赤ちゃんのように純粋無垢、そこに様々な知識が発生し心が曇ります。その心の曇りを取り払うこと、それは自分の心と内省して日々に純粋な心を保ち続けるために心の垢を洗い清めながら拭いて初心を磨いていくということでしょう。

だからこそ彼はこう言います。

「間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である」

知ってしまい歪んだ知識を得れば、それが今度は自分の心を蝕んでいきます。今のような簡単便利に知識が先行して頭でっかちなれば心の手入れを少しでも怠れば心が迷子になったり心が澱んでいきます。心の状態が悪くなれば、それが感情や肉体、精神に影響を与え始めるのです。知識を深め続けるというのは、学問を実践を通して経験しそれを内省し深め、それを今の現実に活かし続けて高めていくことです。知らないことの方がまだましというのは、それは心の話を言っているからだろうと私は思います。それは彼の生き方にも顕れています。

「私は若かりしころ、10のことを試しても9つがうまくいかないことがわかった。そこで10倍努力した」

「学者とは、貴重な時間を勉強でつぶしてしまう怠け者のこと」

「できる者は実行する。できない者が教える」

「もし人になにかを教えようとすれば、彼は何も学ばないだろう」

「人間が賢いかどうかは、その経験のいかんによるものではない。
その経験をいかに活かすかによるのである」

学ぶということがどういうことか、実践するということがどういうことか、それを平易で分かりやすく例えています。日々に体験したことから気づいたことを改善しそれをまた実行する。当たり前のことですが、学問の本当の意味が洞察されています。

そして私が最も影響を受けた好きな言葉です。

「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」

何かの問題を決して環境のせいにはしない。なければ自分が探すか自分で創ればいいという。その通りです。

「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない」

変人でなければ進歩はありえない、常識に合わせていても世界は変わらないといいます。

「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである」

自分探しなど意味がない、自分をどう創るか、自分を創り上げてこそが人生であるといいます。

「富を産まずに富を消費してはならないように、幸福を創り出さずに幸福を消費してはならない」

自分が幸福を創り出しているか、ただ幸福に浸っているか。ここに未来がかかっています。いのちは確実に消費していきます、消費するということはそれは未来へ投資しているとも言えます。消費して消えていくだけ、現在ある資源を食いつぶして贅沢をしてただ自分のことだけを満たして死んでいくのか。それとも子孫たちのために、新しい生き方を示し未来への投資のために今の時代に何を創造しどれだけのものを譲り遺して改善していけるかそれは時代を生きるものたちの決断次第です。

最後に心に沁みた言葉です。

「為すべきことは熱を与えることではなく、光を与えることなのだ」

光を与えられる人になるように、自分をきれいに明るく磨いてこの世のために精進していきたいと思います。

本心~信念の実践~

社會の抑圧が強い場所や環境では人はその人に与えられた役を演じるようになります。自分らしくいることよりも、如何にその立場の人であろうとするのです。立場を守れば自分を守れると信じているから本心を隠して立場を優先する生き方を選びます。

この抑圧とは、行動や自由を抑え込まれることをいい自分の言いたいことも我慢し、やりたいこともできず、牢屋の中に入れられるような感覚を言います。みんなと同じでないといけないと個性を抑え込まれ、そうやって支配者が望んだ姿になれば優等生だ優秀だと評価されていれば役を演じることがいいこととなり、その役を演じているうちに本当の自分が一体どのようなものだったのかも思い出すことができなくなるのです。

本心を隠してというよりも、本心が何かすらもうわからなくなったりします。自分が本当はどうしたいのか、それは自分の信念に従うということです。自分の信じることはこうだから、自分は信念ままに生きるとできるのならその人は役を演じるのをやめることができます。

しかし信念を諦めてでも役を演じていたら、抑圧された自分がずっと我慢をしなければならずいつの日か無理がたたりいつの日か役を演じ切ることができなくなるのかもしれません。そうやって頑張ってみんなで役を演じ続けていたら、みんな本心が出せなくなりみんな自分を信じることができなくなります。つまり抑圧から自信がなくなってしまうのです。それが現代の抑圧社會の温床になっているのです。

自信とは、常に自分の信じる道に従って行動していく中で醸成されます。他人の評価ではなく、自分の信じたことをやり切る中で自分自身の本心と向き合い、本音を隠さなくてよくなります。本音と建て前を使い分け、いつまでも本心を隠して役を演じるていては自分自身が信じられなくなります。本来は当たり前のことができなくなる環境の中では、人は簡単に本心をさらけ出すことができません。役を演じるルールは絶対的であり、みんな本心を隠しあっていますから何を信じていいのかもわからなくなるのです。自分が演じみんなも演じるからみんな本心が分からなくなり孤独になっていくのです。誰も信用できず孤独になり精神が疲れていくのは演じるのが疲れた証拠なのです。

みんなが自信をもった安信社會を築くためには一人ひとりが日々に初心に帰り自分は何を信じて生きていくのか、そして信じたことに誠実に生きていこうと、勇気を出して自分の信じるものを優先していくことかもしれません。それは誰かに敵対することではなく、感情をぶつけることでもなく、自分は一体何を信じて生きていくかと自分の人生で実現したい自分自身の「心の本」(初心)と対話していくということです。

心は何をしたいのか、そして心は何を信じたいのかと、心を探していくのです。心の中にある自分の心の本は常に声を発しています。その声に耳を傾けてあげる、その声に共感し受容していく。子どもが泣きながら聴いてほしいと喋っている声に、寄り添い耳を傾けて聴いてあげるように心を抱きしめながら受け容れてあげることが心との対話なのです。

役を演じ続けて心を置き去りにしていかないように、そして演じているうちに心が迷子になり自分を見失うことがないように、日々に自分の心と対話をしながら信念の実践を一つ一つ積み重ねていけば心の不安もまた消えていくように思います。

日々の実践とは、心の対話であり自分の信念を磨く砥石です。

引き続き、弱い自分を認め受け容れながら弱さの中にある真の強さとやさしさに出会えるように諦めずに丹精を籠めて歩んでいきたいと思います。

 

 

 

人類の成熟~多様性~

人類は多様性を発揮しながらここまで進化進歩してきたとも言えます。簡単に言えば、多種多様な人種が地域地域で発生しそれぞれに文化を醸成し発展と繁栄をして現代に至っているとも言えます。

この多様性というものは変化に富み「生物の多様性を保つ」ということで、英語ではdiversity(ダイバーシティ)と呼ばれています。変化=多様化であり、多様化するときのみ人は変化するということです。

しかしこの多様化できなくなる理由は、異質なものを認めなくなることではじまります。つまりは画一化、同化でありみんな一つのものにしてしまおうとすると変化が消えます。これを標準化という言い方もします。みんな同じ顔、同じ服、同じ個性にすれば確かに管理しやすいかもしれませんが多様性は消失するのです。

この多様化の維持においてもっとも大切なのは何か、それは「尊重」することです。尊重される集団や組織の中では、異質なものがそれぞれに不安を感じることがありません。言い換えるのなら、それぞれが自分らしくいられるということ。自分らしくいることで不安を感じない、つまりは個性を尊重し合っていて個性を誰も潰さない関係があるということです。

世の中は、個性が出ている人をみるとすぐに変人扱いをし時には犯罪者や精神異常者のように偏見で見ようとします。本来、みんなそれぞれに異なる性質をもって生まれてきたものが教育や環境によって画一化されていてそれが当たり前になり常識として認識するとそこから外れた人たちはみんな変人となるのでしょう。

しかし、みんなと同じだから安心しているという安心感は尊重された安心ではなくみんなから弾かれない、周囲から疎外されない、攻撃されないときの安心であり、自分のままでいいといった自己安心感ではないのです。

人類は多様性を維持することで変化し、成熟した文化と文明を築いてきました。現代は技術も革新しており、人間の成熟もまたそれ相応に進んでいく必要がある時代ともいえます。しかし自然な流れに逆らい、無理に画一化して多様化を止めて個性が蔑ろにされるのなら人々の不安は他人への攻撃になり差別の元になりかねません。

「尊重し合う」社會の実現は、それぞれがそれぞれの異質を認め合う中からはじまります。そのような社會や環境を用意していく人こそ、人類において真の教育者であり真の政治家ではないかとも私は思います。

引き続き、見守り合う環境を学びつつ個々を尊重する仕組みを発明していきたいと思います。

 

藤森平司代表 古希祝及び出版記念スピーチ

古希祝及び出版記念スピーチ(2018年11月12日 藤森代表スピーチのリライトより)

私は目指しているところは出している本があるが、私たちは地球上に存在する人類の全ては中央アフリカから出たホモサピエンスです。

いろいろな人族が誕生したが、結果的にすべて滅びて、私たちホモサピエンスだけが生き残っています。特に最近の研究では、ネアンデルタール人は頭もいいし、道具も使うし運動能力も優れています。しかし、滅びてしまった。なぜ優れているネアンデルタール人が滅びて、ホモサピエンスが生き延びたかというと、私たちは、ネアンデルタール人より智慧がないので集団を構成したからです。その集団が大きかった。集団が多いと知恵を出し合える。道具を使ったのは、最初はネアンデルタール人だが、その石器はほとんど進化していない。ホモサピエンスは進化して、飛び道具も作っている。皆で協力する力があったから、ホモサピエンスが南アフリカから地球上に旅に出る。

グレートジャーニーという偉大な旅です。その旅で、まず行ったのがヨーロッパです。ここに住んでしまおうというのがヨーロッパの人たちです。もっといいところがあるだろうと、冒険心・好奇心がある人たちがアジアに渡ってきます。その後、オセアニアに行き、日本に辿り着くのは容易ではなかった。アジアから日本に行くのは2つしかない。上から来ると寒い、極寒の地を越えてこないといけない。下だと海を渡ってこないといけない。何度も渡ろうとするが、こりずにするのは好奇心が強い。そこでやっと辿り着いたのが日本人。何で辿り着いたかというと、好奇心が強かったのと協力する力が強かった。

特にチームワークがよくて、日本に辿り着いて、そう考えると、私は世界中の中で最も協力して、チームワークが強いのは日本人だと思う。ネアンデルタール人の遺伝子が少し混ざって、一番の多いのは日本人だろうと言われている。日本人はそういう意味で私は、もっとも優れていると思っています。ある意味では、幼さが優れている証拠です。

これをネオトミーというが、大人のように成熟しているわけではない。昨日、上海で講演をしていたが、こういうことを話した。赤ちゃんは何も知らないし、何もできない。次第にできるようになります。これより、もっと出来るのは大人。大人は色々な事が出来ます。赤ちゃんから大人になることが成熟だとします。大人よりもっとできるものはITです。ロボットが最も成熟した人なのか。この流れだと、成熟した人になってしまいます。これを逆で見ると、赤ちゃんは何もできない、何も知らないからやってもらわないといけない。その誰かは、出来る人にやってもらわないと生きていけない。そのために、赤ちゃんは出来る人を使いこなす能力を持っています。これが最近の研究で分かっています。

泣き声も、早くやってもらいたい時は、人類にとっての危機は呼吸困難で、そのような泣き声をする。そうすると、大人は早くしなきゃと焦るそう。現場で分かると思うが、酷く泣くときは苦しそうな泣き方をする。実は偽装泣きと言われている。これは意図していないが、何とか赤ちゃんは生き延びようと大人を使いこなそうとする。次第に出来るようになるに、従ってその能力がなくなってきます。今後、そうするとITの社会になります。それを私たちは使いこなさいといけない。そうしないと、ロボットに使われてしまいます。その使いこなし方を私は理論を作りたい。赤ちゃんが大人を使いこなすことから学んで、私たちはこれからの時代にロボットを使いこなす方法を見つけないといけない。

一時、『哲学する赤ちゃん』の本がベストセラーとなり、有名になりました。あの作者がTVで講演をしていて観ていたら、最後に「もう少し、大人は赤ちゃんから学びましょう。ネオトミーという幼さを学びましょう」と提案をしていた。私は、そういう意味で赤ちゃんは有能だと思っています。一時期、何もできない白紙に大人が知識を与えるものだと考えられていたが、これは子どもにとっての作戦だったと考えたときに、そういう意味から赤ちゃんに一番近いのが日本人。

今までの保育カリキュラムは、早く成熟していたヨーロッパのカリキュラムが世界中で使われている。アメリカも実は日本から渡った人たちは、ヨーロッパ人たちにとって代わられてしまった。日本から行った先住民の人たちはあまりいないので、アメリカもヨーロッパに近い。アメリカやヨーロッパの保育カリキュラムをずっと学んできたが、ネオトミーという赤ちゃんらしさや、好奇心の強さ。有能な赤ちゃんの精神を受け継いでいる日本人から、カリキュラムを提案するべきだと思っている。協力するという人間本来の力を人類は忘れてきているように思います。

私がシンガポールや中国で講演するテーマは、人類はもう一度、人類が協力して助け合うことを発信していきましょう、提案していきましょうと言っている。今は、自分の国だけいいという風潮になりつつある。そうすると人類は滅びてしまう。私たちは本来助け合って、生きていく生き物なので、今こそアジアから出すべきだと思っています。それから、ヨーロッパから出されているカリキュラムの多くは白紙論です。赤ちゃんは白紙だと思われている時代のカリキュラムなので指導する。誘導することが保育に出てきてしまっている。それが20年前に否定され、赤ちゃんは有能で、自ら学ぶ強力な学習者だと分かっています。それを引き出して、遺伝子として赤ちゃんから残してあげる。一時期、お母さんがいいと言って、二者関係で語られてしまっている。今日お配りする本にも書いているが、人類は、お母さんは9ケ月になると赤ちゃんを膝からおろして離乳をします。おろされた赤ちゃんは、共同保育をされていきます。これが人類の進化の中ではっきりしています。これをいつまでも抱っこして、お母さんの元にいるのは、霊長類の中で人類以外で、チンパンジーは4歳まで抱っこしますし、オラウータンは7歳まで抱っこします。人類は9ケ月でおろして、社会を学んでいく生き物が、私たち人類です。保育所、乳児保育というものが、これまでお母さんがベストの時代で、親信仰が強い中で、それが出来ない人が預かるのが乳児保育でした。それを進めていくと、私は人類は危ないと思います。乳児からの関わり、子ども同士が大事。集団にいることが、人類にとって大事なことだと訴えないと、乳児保育は母親に元に戻ってしまいます。

育休制度を延長しようとしているが、最近保育所で乳児保育がキャンセルされてきています。0.1歳の空きが出はじめています。落ちることを望み始めています。入りたいと言ってたのが、今は望んで落ちる事を望み始めています。落ちると育休が伸びるからですが、2歳まで家で育てているのは危ないと私は思います。保育界がもう一度、集団の大切さを訴えないと私たちは危ないと思います。

私たちの仕事というより、人類が危ないと思っています。そういう意味の提案をしています。「見守る保育」と言う言い方は色々な捉え方があるので勇気がいるが、私は「藤森メソッド」に変えたのは誤解を受けるので、そうではなくて、赤ちゃんから集団、子ども同士の関わりが大切。しかし、今の保育園のように働くためにあるだけでなく、10何時間も預けるのはおかしい。私は、育休を3歳まで伸ばすのではなくて、育児時間を3歳まで伸ばすべきだと思っている。3歳になるまでは4〜6時間くらいがちょうどいいと思っている。だからといって、家でいるという事はないと思います。

私たち現場が子ども集団の大切さを訴えないと研究者は出来ない。乳児と子ども同士の関わりの研究は不可能です。よくチンパンジーで研究するが、チンパンジーは4歳まで抱っこされる生き物なので、それで研究しても無理。それから、集団で生きる生き物なので、今ブログで書いているのが、絶滅種のインコがいる。これは集団で生活しているが、絶滅種なので、人間が捕獲して育てています。でも人間が育てています。自然に返すと全員死んでしまいます。集団で生きる生き物を個別で育てても、生きられません。人類は、集団で生きる生き物なので、個別で育てて、二者関係で育てるなら、世の中では生きていけないと思います。私たちが関わっている乳児保育が重要な事です。

発想を変えないと守れません。お母さんがいいとか、お母さんの関わりとか、丁寧に二者関係でやっている理論では、お母さんに返せばいいでしょとなる。私は、どうも危ないと思っています。ぜひ、現場を持っている皆さんが、子ども集団の研究を研究者の人に出して、研究してもらうようにしないと、机上の学問を押し付けてもダメだと思っています。これが世界の全体的な流れです。

OECDもそういう風に乳児の関わりを提案しています。私たちは人類の平和のため、協力し助け合う遺伝子を呼び戻したい。

皆さんと一緒になって、こういうことを深めて、実践をしていきたいと思っています。今日、集まって下さった皆さん、こういう事で親交が深められて、本来こんなに人が集まるのは、私の葬式くらいしかない。

葬式で集まっても、皆さんはいいが私がいない。私がいるうちに集まってもらいたい。本が集大成と言っていたが、私はまだまだ書き足りなくて、校正の締切の日まで差し替えて欲しいと言っていた。特に愛着の部分を差し替えたいと言っていた。今も本を出した後、次に書きたくてしょうがない。

今度は喜寿を目指して、何年後になるか。以上になります。今日はありがとうございました。

 

感謝の節目

昨日、恩師の古希祝いと「保育の起源」出版記念会が東京で開催されました。全国各地から250名を超える人たちが駆けつけてくださり大盛況のうちに終了しました。これだけ多くの方々から尊敬され、慕われる先生を観ていると有難い気持ちと共に改めて尊敬の念が込みあげてきました。

私は人生の半分を恩師と共に歩み、まだ人も少ないときから恩師の信じるものを信じて歩んできました。なかなか理解されなかったり、賛同者も少ない中でも恩師の信じる言葉と信じた理想を信じて切り拓いてきたように思います。

人は何を信じるか、そして信じたことをどれだけやり切るかで人生の未来が変わってきます。昨日、あの場に集まった人たちと恩師の話をみんなで真剣に聴き入る光景を眺めながら同時にこれまで歩んできた私自身の20年の振り返りも行うことができました。子ども主体の保育を実践する徳のある方々の思いや熱意にこの今も支えられていることを感じ、ここまでの道のりへの感謝を改めて実感したからです。

恩師から人類についての話がありました。

人は一人では生きてはいけない、必ず集団の中で育児をする。そのことで人類は生き延びてこれたという智慧の話です。保育の大切さを改めて語られました。私も持続可能な社会や人類の平和、永遠の繁栄を願うからこそ恩師の言葉を信じてここまでやってきました。

その恩師に昨日は「貝の首飾り」をお贈りしました。これは、古代の人類が貝を絆のお守りにしたことからです。かつて貝は財宝であり宝そのものでした。そして貝は中のいのちを守る存在でした。最初に赤ちゃんが生まれると、その部族や家族が「あなたを支え見守ります」という証に貝を持参して子どもに贈りました。その貝を結んで首飾りにしてその子を守りました。外敵もその首飾りの貝の量を観て、それだけ多くの人が見守っている人を簡単には襲うことはできませんでした。貝は仲間の信頼と見守りの証となって、様々な困難からその人の一生を「信じ見守り合う」ことで守ったのです。人類の自立は、貝を渡すその時に定まったのです。

貝の首飾りは人類が何百年も何千年も集団を形成し、厳しい自然の中で助け合い暮らし生きてきた智慧の証だったのです。

そしてその貝には、私の魂の同志である福田康孝さんに6000年前の貝を磨いて「GIVINGTREE」と彫り込んでもらい、左右に「縁」と「恩」の貝でつないでもらいました。これは「ご縁とご恩に結ばれる中に真の’見守る’は存在している」という意味です。そして首飾りを彩る多様な種類の貝をつないで「個性を尊重し合って絆を結んだ」という意味も籠めています。

透明に光る貝は、透明な心で磨かれ美しい光を放っていました。その貝に会場に来た皆様に「ネガイ」を籠めて触れていただき「私は仲間です、私はあなたを支え見守ります」という真心を入れていただきその貝を恩師に贈りました。

貝の一生は宿主がなくなって貝殻になっても新しい宿主を探し求め、その形なくなるまでいのちを守り続ける存在です。海の砂浜で出会う貝は、みんなそうやって宿主を探して漂います。神社の宿り木や依り代のように、守るそのものを遷して守るのです。皆さんの「ネガイ」が込められた貝が、これからも恩師を支え見守ってくれることを願い一緒にお贈りしました。

これから恩師も新しいステージに向けて、また新たな挑戦がはじまります。

これまでの支えや見守りがさらに恩師の信じる力に転換され、これから人類に向けて保育を伝道できるように祈り私も真心を込めていのちを懸けて尽力していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

自学自習の学問~初心~

人は忙しすぎると心が迷子になるものです。一体、自分がどこを歩んでいるのか、何のために歩んでいるのかを思い出せなくなります。ゆっくりと丁寧に自分の足元を踏み締めながら遠い目的地に向かって日々に歩んでいくのなら心は迷子になりませんが、忙しくなりすぎて不安や焦りが出てくると急にスピードが上がってしまうこともあります。

これはスピードが上がったから忙しくなったのか、それとも忙しいからスピードが上がるのかわかりませんが心が迷子になってしまわないように工夫するしかありません。

目の前のことに追われていくと、目の前のことをこなすだけで精一杯になるのは誰もが同じです。その時々に心が何を感じたか、自分が何を思ったか、外側の変化と合わせて内面の変化もまた一緒に味わうことで心身は成長していきます。

心が迷子にならないためには、初心を忘れないようにしていく必要があります。この初心というものは、どんなに修練を積んだ人物であっても忘れてしまうのです。かつて世阿弥が初心忘れるべからずの中で、自らの若き時の芸の未熟さを忘れてはならないとも言っています。人は次第に無意識に傲慢になりますから、つい若いときの屈辱や恥ずかしい気持ち、そこから一念発起したときの決心を忘れないことをいいます。なんでも慣れてくると次第にマンネリ化してきて新鮮な気持ちが失われていきます。自分の中で組み立てられたやり方でやっているうちに様々なことが分かった気になってしまいます。

分かった気にならないためには謙虚さが必要で、そのためには初心を忘れない工夫が必要です。つまりは学問のように常に深め続けて自ら磨き続けて高め続ける実践がいるのです。

それを日々にコツコツとブラッシュアップしていくことが初心を忘れていないともいえます。この初の心というのは、赤ちゃんの心のとも読み変えられます。どんなことからも丸ごと吸収していく好奇心の塊、その心です。年々、歳を経てくると赤ちゃんの頃の新鮮な気持ちが失われてしまいます。新鮮な気持ちを失わないで生きていく人は、赤ちゃんのままの心で居続けるということです。

心が迷子になるというのは、無理に大人になってしまって赤ちゃんの自分の心を置き去りにしたということでしょう。日々に振り返り、自分の心と対話していくことは自分はどうしたいのかと自問自答していく自学自習の楽問です。

子どもたちのためにも、子ども心を守るため、真心を大切にしながら日々に感謝で歩んでいきたいと思います。