循環の理

自然界は循環を繰り返しますが、生成するものと分解するものが調和していることで整っていくものです。また同様に、温冷や水のバランスもちょうど善い具合に整っていきます。

人間にとっては都合の悪いことでも、自然界全体にとっては調和しようとしているのだから問題がありません。つまり循環するというのは、それ自体で善悪正否もなく意味があり福であるということでしょう。

例えば、生成した分の分解が追いつかなければゴミ問題に発展してきます。もしも逆に分解が早すぎて生成が追いつかなければ食料危機などにも発展します。本来、ちょうどよい生成と分解のバランスの中にいるとき、私たちは安心してその両方の徳を享受することができるともいえます。

日本では里山の仕組みでそれを実現していた地域もあります。長い時間をかけて見事に生成と分解が調和しているのです。以前、滋賀県の高島市の里山を見学したときに水の循環で魚や微生物の循環を巧みに活かして生活を潤していたのを体験したことがあります。そこでは鯉などの食べられる魚が下流の方にいて上流のお皿を洗ったりしたときに出た残飯などを食べていました。他にも鶏をはじめ、生成するものと分解するものの特性を活かして一緒に暮らしを成り立たせているのです。

今では養殖や養鶏になっていますが、これは生成するばかりで分解の方はありません。循環を止めてしまうことで発生するゴミ問題や、地球の自然の不調和や偏りを解決するためにまた膨大なお金を使って無理に解決していきますがそれも生成の限界が来た時に崩壊するのは目に見えています。

今の時代、限界点や臨界点に達している循環できない環境を毀すためあらゆる自然災害や経済的な破綻が発生する直前に来ています。

私たちは子孫のためにどうやって末永く豊かに仕合せに生きられるかを考える知能も知性もあります。欲に負けず、環境に流されず、本来のあるべき姿をみて自分の足元、脚下の実践から易えていきたいと思います。