謙信の実践

人間が本当の意味での自信がないと過信してしまうものです。自分の力でやったと思いたいこともあり、自分の強さを肯定してきたからこそ過信になります。本来の信は、過信でもなく不信でもなく謙信です。

この謙信のままでいられるかというのは、本当に日々の精進しかありません。

私もつい過信したり不信になったりと行き来を繰り返します。自分の力の使い方がまだ自分だけに偏ったり、大いなる恩恵や天の味方に支えられていることを忘れ慢心してしまいます。我がありますから、どうしても目先の結果に一喜一憂してしまいますが本来は目的に対してどれだけ無心になっているかというものもあります。

試されることばかりで、自分との正対が続く日々です。

本来、人は一生修行です。

修行していることが悟りであり、悟りが修行。そして徳を積むことが陰徳であり、陰徳は謙信を生きることで磨かれます。

現代の世の中は、消費する方に傾いて流れています。みんなで消費し消耗することばかりです。このような時代、本来の徳を見出してその徳に報いていこうとはしなくなっていくものです。

しかし、真の幸福はこの無尽蔵に存在する天の徳や御蔭様の働きの中に生きるときに深く味わい感じられるものです。

自分自身を貫いていくことに弱気になって、本当のやさしさという強さに気づかないで生きるのはとても残念なことです。弱さを信じて力に換え、孤独を楽しみ味方につけて、一期一会の今のままであることはまさに未来の希望になることであり謙信を実践していくことです。

英彦山の甦生に関わりながら私自身が試され、学ばせていたらくことばかりです。日々の実践を疎かにせず心を正し続けていきたいと思います。

甦生の意味

私が取り組んでいる甦生は、様々なことを結び直すことです。途切れそうなもの、途切れかけているものを結び、それを子孫や未来へと確かに繋いでいくものです。

例えば、伝統文化の甦生は何を甦生としているか。それは伝統が途切れないように様々な工夫で今の時代に甦らせていきます。新しい発見をし、その知恵が今の時代でも愛され続けるように改善や修繕をしていきます。あるいは、新しい価値を見出してその価値を人々が理解できるようにしています。

それがもし形のないもの、例えば信仰だとしたら同じように甦生させていきます。今までは、当たり前に信仰されていたものが失われてしまいそうになればそれを結び直すために今の時代ならこうやったらいいという提案をします。

よく周囲から発明家やアーティストなどといわれたりしますが、私はただの甦生家です。

丁寧に甦生を続けていくことで、人々が捨ててしまったような荒れた荒野や土地を耕してそれをまだまだ無尽蔵に生きる場所にととのえていくのが本命です。私からみたら、なぜこんなにいいものを捨てるのか。手入れをせずに手放していくのか、理解に苦しみます。

便利な都会で新しい知識や知見は人々の好奇心を揺さぶりますし、楽しいでしょう。しかしそれはすぐに使えなくなるから、すぐに新しいものを生み出しています。そこに本物の知恵はありません。本物の知恵は普遍的であり、ほぼ永遠に活用できるものです。

それは古いものを新しく磨き上げるときに誕生するのです。

私が思う、最先端のテクノロジーとは、もっとも古いものともっとも新しいものを掛け合わせることで磨かれます。この思想を学ぶためにこの「場」があり、私はそこで生き方を実践する道場長ということになります。

周囲には遠大で理解されませんが、甦生を続けていればその価値に気づいた子どもたちが後を受け継いでくれると信じています。

生きている間、少しでも次世代の舞台づくりができるように真心を籠めて精進していきたいと思います。

小さな努力、小さな成功、偉大な志

一つ一つをカタチにしていく中で小さく試すというものがあります。いきなり大きなものをやろうとしても本当にそれができるのかがわかりません。それにもしものことを考えたら足が止まってしまうものです。

そういう時は、まず小さくはじめるというのがコツだと私は思います。それが一つの知恵です。

以前、北海道で植松勉さんと一緒に紙でつくったロケットを飛ばす体験をしたことがあります。あの時も、小さいながらも実物を縮小したものを触った感覚でそれが大きくなったのが宇宙にいくものになります。石風呂をつくったときも、波動石の温度や質感が本当に思った通りになるのかが不安で何回も小さく試しました。小さいものでできたら、それを大きくしていく。これがもっとも成功への近道であったように私は思います。

私はもともとはむかしから慎重で石橋を叩いて渡るタイプです。臆病なのかもしれません。没頭すると、忘れてしまうので余計に試してからと思うようになったのかもしれません。

よく考えてみると、不可能を可能にするのはこの小さくはじめていくことかもしれません。最初から大きいことにすると、可能なことも不可能になってしまいます。周りがどんな風に思おうとも、志があれば小さなことを積み重ねていく努力は続けていくことができます。

本当に偉大なことをやり遂げたいと思うのなら、小さな成功を積み重ねていくことを大事にしていくことだと私は思います。私の取り組みも、今はまだなかなか理解されずにご迷惑をおかけしていますが1000年後の子どもたちのためにも着実に小さな試行錯誤と小さな努力を続けています。

この私が準備していく舞台がいつの日か、子どもたちの未来に結ばれていくように真心を籠めて取り組んでいきたいと思います。

希望を育てる

人は、どうしようもないと思うと諦めるものですがそれが本当に大切なことであれば諦めることで思考が停止してしまうものです。諦めるのにもいくつかあり、人事を盡して天命を待つのような諦めと、あとは周りがそう言っているのだからと諦めるものでは意味が異なります。

例えば、コロナによって私たちはマスクをつけて今の人と集まらないということを制限されていますがこれがこの先もずっと続くわけではありません。マスクをつけ続けることで発生している様々な問題や、人が場に集まらないことで発生する社会の問題や人間関係や心身の問題なども出てきます。

それをなんでも仕方がないと最初から決めつけて諦めてしまっていたらそのうちすべての思考が次第に停止していくものです。歴史を振り返ると人類は、どんな時も困難に向き合う中で主体的に自分の内側にある創意工夫や知恵を働かせて禍を転じて福とすることで今まで以上によりよいものを誕生させてきました。

私が取り組んでいる、様々な甦生もまた同じことです。

古い伝統的なものを捨てていく問題、伝統文化が消失していく問題、子どもに智慧が伝承されなくなっていく問題、それをすべて資本主義だからや時代の流れだから仕方がないと諦めてしまっているのは思考停止になっているに過ぎません。子どもたちの未来のことを思えば、それを最初から諦めるのではなくかえってすべて福にしていこうとする自らの知恵で今まで以上のものに仕立て上げて甦生していくのです。

人はそのものをどう見るかは、その人の美意識や心境、そして思考が決めるものです。ある人が不可能と思えることでも、他のある人ではそれは可能かもしれません。大事なのは、諦めないことなのです。

ある種、その諦めない中には明るさがあります。つまり楽しみや遊び、そしてもっと面白くしようと思う前向きさがあります。マジメジメジメとした悲壮感やマイナス思考ではなく、気楽さや喜び、そして感謝があったりするのです。

私が思う思考停止しない状態というのは、常に明るく前向きで物事を楽観的にとらえ、今まで以上に面白くして楽しもうという境地を持っている状態ということになります。心が常に動いているのです。

マスコミの影響などを受けて情報を他人任せにしているうちにコロナでなんとなくみんな周囲も思考停止しています。ずっと同じようなことが2年も続けば、みんな諦める人が増えてそれは暗くもなるでしょう。しかし、夜明け前のように様々な光の兆しが出ていますからそれを楽しみ膨らませていく中に希望があります。

未来の子どもたちのためにも、希望を育て導いていきたいと思います。

心を磨く

昨日、ご縁あった方々と一緒に滝行を行いました。この滝行は、古来からある修行法の一つで心身を禊清め、鍛え磨く効果があるといわれています。この時期の、とても冷たい水を受けることで心を強くし気持ちを一新する効果もあるといわれています。

本来、日本では大切な儀式のときや人生の節目にはこの禊や潔斎を行いました。その一つに滝に打たれて心を研ぎ澄ますというものがあったように思います。

現代では、楽で便利な環境下ですから厳しく不便な環境は慣れていない人が増えています。滝に打たれると聞いただけで震え上がる人も多く、滝行は人気があるとはいえません。

しかし時代が変わっても、大事な局面で自立して覚悟を決める何かがあるときこそ自分の弱い心を向きあい、乗り越え、強い決意をもって何かをやり遂げる心をつけることもでてきます。

世の中で、逃げようとする心を断ちたいと思う人は大変多いと思います。かの二宮尊徳も、成田山新勝寺で断食や厳しい修行を通して心を鍛え直し、もう一度復興の心を呼び覚まし、そこから最後までやり遂げていきました。

もちろん極端な修行がいいというわけではなく、今の人たちがどのようにしたらその覚悟を持て心身を鍛えられるかを時代時代に考える必要があると私は思います。あまりにも極端な修行や苦行では、自分自身と向き合うことはかえって難しくなると感じるからです。

今の時代は、苦から楽ではなく、楽を真楽にする方が導くのには効果があるのではないかと私は思っています。真の喜びを知ることは、真の喜びの苦を学ぶことです。楽は苦の種ですが、苦も真楽の種です。

この苦楽を共にする暮らしを通して、私たちは真楽にたどり着くのではないかというのが私の提唱する暮らしフルネスでもあります。

実践を通して、気づいたことをみんなで分け合い、子どもたちが仕合せに暮らし続けるような社会に近づけていきたいと思います。

一期一会のご縁、ありがとうございました。

 

薬草の面白さ

薬草のことを深めていると、むかしの人たちの観察力の偉大さを感じます。そのものの何が毒で何が薬になるのか、これは特性を見極めないとできないものです。そしてこれを思う時、全ての存在には、その両面を併せ持つという素質のことを洞察していたことに気づきます。

例えば、毒だけの存在はないし薬になるだけの存在はほぼありません。個性も同じく、偏りがあるからそれを活かせば薬になるし、場合によっては毒にもなります。上手に個性を活かせば、社会の中で非常に有意義な使用もできれば、間違えれば残念なことにもなります。

そのものをどう活かすか、そのためにその素材がどうなっているのかを見極めて使うのです。ある時は、毒をもって毒を制すようなこともやってのけるのです。

薬草の知恵は、そのものの素材素質の活用の中にあるように私は思います。

もちろん、分量、加工法、また使い方、投与の仕方、きめ細かく丁寧に使用します。これは、人間活用もまた同様でそのものをどのように活用するのかは、全体を観ながら使う薬草と同様です。

食材で面白いのが、発酵の技術です。発酵させることで、毒を無害化させたり、菌と共生させることで非常に長い間、人間に有益なものにもなっていきます。つまり、同じ菌であっても人間との相性もありその菌の特性を上手に組み合わせるのです。

お酒が薬になるのもまた、その組み合わせの知恵を活用したのでしょう。

この薬草の知恵を深めていると、観察眼が深められ、同時に活用方法によってアイデアも広がります。温故知新の面白さというのは、この懐かしい人たちの心や感覚に触れるときです。

子どもたちにも、先人の叡智が伝承できるように色々と場を遺していきたいと思います。

只管打座の暮らし

先日、ある禅僧の方と一緒に瞑想をするご縁がありました。この瞑想というものは一般的には、足を組むなどして座り目を閉じて心を落ち着ける行為のことを言われます。広辞苑(第六版)には「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」と書かれます。

私はこの瞑想の自分なりの解釈は、整えることを言うと思っています。常に暮らしの中で整えながら生活をしていくということ。私の暮らしフルネスは、この暮らしを整えることをベースにしています。

かの道元禅師は、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を遺しています。これはそのまま「ただ ひたすらに坐る」という意味です。その解釈としては下記のように説明されているといいます。

「瞑想を行い、そこから様々な功徳を得ている人は数知れない。あまりにも単純な方法だからといって、その可能性を疑ってはならない。今、自分が存在している場所で真実を見つけることができないというなら、一体どこに真実があるというのか。人生は短く、何人も次の瞬間が何をもたらすかを知ることはできない。心を養いなさい。その機会はいくらでも訪れる。やがて、すばらしい知恵を発見することになるだろう。そうすれば、今度はその知恵をほかの人びとと十分に分かちあい、彼らに幸福と平和を与えることができる。」

そもそも考えてみると、悟りとは何か、修行とは何かということを思います。悟りがあるから修行するのであり、修行するから悟ります。つまりこの悟り=修行は一体のものであり分けられるものではありません。悟ったから修行を終わるのではなく、修行したから悟るのではありません。常に、修行しながら悟り続けていく姿こそが真の道であるということです。

すると座禅というものもそこから考えるとわかります。ただ、座ればいいというものではありません。自分のいる場所で、修行し悟り続ける。この座るという字は、据わるともいわれます。居場所を保つことです。そして坐るというのは動作の漢字であり、座るというのは場に座すということです。

英彦山にも座主がいるように、このその場を創る人は座っているのです。私の場合は、「場の道場」(BA)の座主であるともいえます。どんな状況や環境であっても、自分の生き方や信念に座り続ける。まさに、道元禅師という方はそのような方だったのだろうと想いを馳せました。

私も、このような現代社会の中で人類の本当の生き方、そしてあり方などと正対しているとこの座禅は何よりも必要であることに気づきます。子どもたちが安心して自分の天命を生きられるように私も只管打座の暮らしを実践していきたいと思います。

 

山のこと

英彦山に関わりはじめたことで山のことを深める機会が増えています。今の時代は、山は一つのスポーツのようになっていますが古代から日本では山は信仰の原点であったことは間違いありません。

山に入るということは、信仰に触れることでもあり、登頂するというのは拝山するということであり神域に入り修験を積むということでもありました。俗世から離れた、深山の聖地で自己を鍛錬し、自然と調和する力を顕現させていく。それを神人合一、山人一体として山伏や修験者たちが悟り、それを里で暮らす人たちに恩恵を与えていました。

もともと仏教でも、本山や山門、出家などという言葉もありますがこれは山に入るという意味で俗世から距離を置いて暮らしの中で聖人に近づいていこうとするものだと思います。

山という言葉の語源は、不動の意味で止まるという意味のヤムから来ているということを聞いたことがあります。じっとして動かずそのうえで、全てを守るという存在でもあります。不動明王が祀られていることも親和性があるように思います。

よく考えてみると、私たちの水をはじめいのちを育むものはすべて山から降りてきます。山があって生命が保たれるのだから、その生命を産み出す山を尊敬して崇拝するのは当たり前でもあります。

信仰のはじまりは山からというのは、それはいのちを産み出しているということがあるのかもしれません。山には、母樹がありその木によってまた森が広がります。そして里での生活を潤していきます。もしも山に水も木もなければ、里は潤わず荒野のようになります。

私たちが山を大切に守るのは、それが私たちの暮らしを永続的に守ることを先祖は知っていたのでしょう。

子どもたちに山の甦生を通して、自分たちが知らず知らずにいただいている存在に畏敬の念や信仰の真心が伝承されていくように丁寧に甦生していきたいと思います。

神話のはじまり

むかしから神話というものがあります。はじまりの神話というのは残っているところも多く、それを口伝で伝承してきたから私たちはその話を知っています。文字がなかった時代、記録しようもなくそれはずっとみんなで口伝えしてきました。

そう考えてみると、いつまでもはじまりの理由を忘れないようにと先人たちが子孫へと知恵を譲ってきたのでしょう。この知恵の正体は、一つのご縁のことだと感じます。

今の私たちがあるのは、あるご縁がずっと結ばれて繁栄してきたからにほかなりません。最初の一人からはじまり、二人になり、それが四人になりとそうやっているうちにかなりの人の数と合わせて相当な数の人生が誕生しました。その一つ一つには、物語があり、その物語は実は原始からずっと繋がっています。

なんで今、自分がこんなことをしているのか。それを思い返すとき、はじまりからのご縁でこうなっていることに気づきます。

例えば、息を吐けば次に吸います。それは吐くというご縁によって吸うが誕生します。何かを開けば何かを閉じるご縁に結ばれます。このように私たちは常に動静を繰り返しながらご縁を織りなしていきます。

神話は、そのはじまりの糸がどのように結ばれたのかを知るものです。それをひも解いていく時に必要になるのです。

人間の歴史を観察してみると、その時々で原点回帰が必要になるときがきます。そんな時、今の複雑に繁栄したご縁をひも解き、もう一度、そのはじまりからやり直すという温故知新が必要になります。

まるで反物の糸を解いてもう一度、織りなすようにこれを繰り返しその時代時代に本質や普遍性が失われないようにやり直すのです。やり直すときの出発点こそ、神話ということになります。

為政者たちによって色々と都合よく書き換えられてきましたが、神話には一つの真理と普遍性があります。それをひも解くためにも、私は英彦山宿坊の甦生に取り組んでいます。

どのような真実が出てこようとも、謙虚に畏怖の念を忘れずに真心を籠めて取り組んでいきたいと思います。

場で遊ぶ

私は、場の思想や場の道場をしていますがそこには5次元という空間を体験できるようにしています。現在は、メタバースなど仮想空間とリアルと合わせた造語も出ていますがもともと空想と現実は常に一体になっていますからそれを目に見える形に科学技術で実現したということでしょう。

この先は、量子論などが取り入れられそのうち4次元という空間も科学技術で可視化できるようになるのかもしれません。

もともと私たちは感性や感覚として次元や空間というものを直感できるものです。例えば、ある場所にいくとなんだか心が安らいだり、もしくは畏怖を感じたりするものがあります。

これはその場所に、目には見えない様々な次元が集中していることを直感しているともいえます。私が使う「場」は、単なるプレイスではなくあらゆる次元の集積場ということになります。

あまりこういうことを言葉にすると誤解があるかもしれませんが、これからの時代は「場」こそもっとも世界が関心を持つものになると思います。

そもそも私たちはご縁の世界に生きているともいえます。今の自分があるのもこの世界があるのも、長い歴史の中で、常にあらゆる繋がりを創造し意識は融合されていきます。その場に、人だけではなくあらゆる物や意識も集まっていきます。まるでブラックホールのように、一度、高密度で存在をはじめた場には、何かを引き寄せるような吸引力が働きます。私たちの生命は、遠心力と同時に求心力も働きます。つまり、陰陽、拡大と縮小、相反するものを同時に循環させ一つのいのちとして調和させていきます。

これをもっとも小さくすると分子レベルでそれを行い、もっとも大きくすると無限の宇宙のレベルでそれを行います。こうなってくると仏陀の世界観になります。そう考えてみると科学は仏陀が感得していた境地をある程度修行もせずに誰でもそれが利用できる状況にしていこうとする試みに似ています。

しかしそれでもどうしても境地には到達できません。真理をなぞることができたとしても、真理そのものにはなりません。真理に近づいていく過程で真理に学ぶことはできます。真理を遊ぶ人は、道理を遊ぶ人でもあります。自然や宇宙を観察するのが好きな人は、そのうち遊んでいるうちに偶然にあらゆるものを発見したのかもしれません。

場の道場では、これからさらに場を磨き上げていきます。場を科学するアプローチは、まだまだたくさん発想できます。ワクワクしながら五次元を試行錯誤し、子どもたちと共に場を科学して遊びこんでいきたいと思います。