思い邪なし

実力という言葉があります。これは必要な時に発揮される力のことです。日々に最善を盡していく中でその人がその目的を達成するために必要な力が具わっていきます。つまり必要に迫られるとき、その力は具わるということです。

では何が必要で何が不必要なのか、人は不必要なものを持てば持つほどに実力が不足していきます。自分の実力がわからなくなるからです。本当に実力があれば運が巡ってきます。そう考えると、運も実力のうちという言葉はその人が努力して得たことが運につながったということです。

では、何を努力してきたかということになります。王陽明の言葉が参考になります。そこにはこうあります。

「修行は一進一退するのが当然である。他人の非難や嘲笑、または栄誉に関わりなく私欲を取り除き、本来持っている善心に沿って生きる修行を怠らなければ、必ず実力を得るようになる。」
「日常生活や仕事においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない。仕事や日常生活においても私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない。」
「仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。」
つまり知良致こそ、実力の本体です。そしてこうもいいます。
「努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。」
速攻を求めるのは不自然であり、長い時間をかけて純粋さを発揮していくこと。つまり清め澄ませていくこと。最後にこうもいいます。
「古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。」
この「思い邪なし」jこそが、日々の鍛錬であり修養の本懐です。私も学んでも学んでも至りません。しかしそれこそが修行であると念じて、今日も一日、真摯に精進していきたいと思います。