徳の光

昨日から菜根譚を紹介していますが、仙人のような境遇、融通無碍にして自由自在の心境のことがいくつか記されてます。時代が変わっても、普遍的な生き方をして幸福に生きた人がいることは有難いことです。この人物が何をして生きたのかなど伝記などもあまりなく、科挙を受けたことや隠遁して暮らしたことがわかっているほどです。

しかし共感することがあまりにも多く、まさか自分の前世だったのではないかとも感じる境地です。

そもそも幸福というものは、人の道のことです。人の道は、徳のことです。古代より、人の道徳を生きた人は幸福のことを記してきました。中国ではまるで仙人のような境涯の人たちを幸福な人物と直観したのでしょう。

菜根譚は、一つの普遍的幸福を説いたものです。いくつか心に響くものを紹介します。

「すべて眼前に来るの事は、足るを知る者には仙境にして、足るを知らざる者には凡境なり。すべて世上に出ずるの因は、善く用うる者には生機にして、善く用いざる者には殺機なり。」

足るを知るものだけが仙人の境地に達する。日々の一期一会もその人次第です。

「心に物欲なければすなわちこれ秋空霽海、坐に琴書あればすなわち石室丹丘を成す」

日々の心がけでいくらでも真に豊かになれます。

「競逐人に聴せてことごとく酔うを嫌わず、恬淡己に適してひとり醒むるを誇らず、これ釈氏のいわゆる法のために纏せられず空のために纏せられず、身心ふたつながら自在なるものなり」

真に幸福のものは真に自然体であるということでしょう。

「山河大地すでに微塵に属す而るをいわんや、塵中の塵をや血肉身くかつ泡影に帰す
、而るをいわんや影外の影をや上々の智にあらざれば了々の心なし」

すべての宇宙は粒子で存在する、私たちもその一部です。すべては包まれているものとすれば智慧そのものです。

「出世の道はすなわち世を渉るなかにあり、必ずしも人を絶ちてもって世を逃れず了心の功は、すなわち心を尽くすうちにあり必ずしも欲を絶ちてもって心を灰にせず」

普遍的な生き方は、自らの心を盡すことで欲を断ったり心に囚われることではない、真の自然体であることです。真の自然体こそ人の道で、真の自己に生きることです。

この身つねに閒処に放在せば栄辱得失、たれかよくわれを差遺せんこの心つねに静中に安在せば是非利害たれかよくわれを瞞昧せん」

心が静かであれば、どのような状況であっても人の道から外れないということでしょう。

最後にこれは自然体そのものの境地です。

「人情、鴬啼を聴いてはすなわち喜び 蛙鳴を聞いてはすなわち厭い 花を見てはすなわちこれを培わんことを思い 草に遇いてはすなわちこれを去らんと欲す
ただこれ形気をもって事を用うるのみ もし性天をもってこれを視れば 何者かおのずからその天機を鳴らすにあらざん おのずからその生意を暢ぶるにあらざらん」

人は真に自然体になることが人の道であり、徳が顕現して幸福であり続けることができるように思います。そのためには、何が真に自然で、それであって自然不自然かを見極める実力が必要です。

日々の修養は誰にしろあり、この洪自誠も自分でいうように悟って悟っておらず、謙虚に学び続けて生涯を終えたのでしょう。私たちは学ぶために生まれてきたわけでもなく、役目を果たすためでもなく、出世するためでもなく、国家をまもるためでもありません。

仕合せになるために生まれてきたのです。

仕合せになるということをすべての大前提にしみんなで協力していくことこそが真の平和を産み出します。今の時代、改めて真の自然体を軸にした環境や場が必要だと感じています。

暮らしフルネスの実践を磨いて、子ども心と共に徳の光を発していきたいと思います。