君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

  1. コメント

    「計違いて志いよいよ堅し。天の我を試むる、我また何をか憂へん」と松陰先生は言われました。思い通りにいかないとき、望むペースで事が運ばないとき、そういう時こそ「志」が試されます。その「志」が本物かどうか、万事の源となるものかどうかを試されるのです。「志」の前には、一切の「言い訳」は通じません。「君の志は何ですか?!」という松陰先生の声を、いつも心に響かせておきたいと思います。

  2. コメント

    誰に対しても「君の志は何ですか?」とドラマの中で質問していましたが、あれは今思うとそうやって松陰先生自身が振り返っていたのだと感じます。自分自身が振り返る言葉とは何だろうかと考えて浮かぶのが「慎独」です。ですが、何のために独りを慎むのか、その何のためかを自分の中だけに留めず、誰にでも質問し、誰からも学び、誰をも同志していったのがあの人だったのだと感じます。
    物理的な距離も超えて導かれているご縁を味わい、出会いから学ばせていただいていることに感謝したいと思います。ありがとうございます。

  3. コメント

    いわゆる自己紹介というものに以前からずっと違和感を感じていました。趣味などもいいですが、本当はその人が何を大切にして生きているのか、どうありたいと願っているのかを分かち合うことの方が自己紹介の本質ではないかと思っていました。昨日もある方とお会いして理念や志についてお話を頂きましたが、それは同時に自分への励ましの御言葉なのだと受け取りました。握り合いたいものは何か?霞まぬよう磨いていきたいと思います。

  4. コメント

    目刺しは、イワシの目を貫いて束ねたもの、志は人々の心を貫いて束ねたものと聞いたことがあります。自分の志は、人々の心を貫くか、個人的なものではなく、公なものだろうか。振り返りながら、磨き、我を取り払って行きたいと思います。

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