自然を學ぶ

理念や初心を定めた後は選ばないとして丸ごと信じて歩んでいると自然に従うということの学びが深まります。日々の暮らしの全ては必然的に発生していて、自然現象への観察眼が磨かれていきます。

例えば、経変変化というものがあります。また自然淘汰というものがあります。自然は必然にそのものを変化させます。その理由は、ありとあらゆる存在は全体を繋がっているからです。

これは人を除く自然ではなく、宇宙を含め微生物に至るまですべて丸ごと繋がっている構造全体で丸ごと自然と捉えます。

何が自然で何が不自然かということ。一般的には、何もしないのが自然で人工的なのが不自然といわれます。都会と田舎の違いのような具合です。しかし実際には、自然に逆らうか逆らわないかということが多いように思います。

自然に従い逆らわないとするのなら、自然を信じて任せていくしかありません。人為は必要最低限、最小限でとどめます。しかし自然に逆らうならすべて人為的に加工していく必要があります。前者は、半分以上が自然であるのに対し後者はほぼすべて人為になります。

何でも不信になり人為になるとお金と労力がかなり必要になります。今の時代は、自然に逆らうという不自然な構造の社会が全体を包んでいますから何が自然で何が不自然かを見究める判断力や観察力も衰えてきているように思います。

つまり自然に育つといっても、どこまでが見守って、どこまでがやってあげればいいかの判断も刷り込みが邪魔をしてなかなか思うようにいきません。

私の場合は、自然農をはじめ伝統的な日本の暮らしを甦生する中でその感性を磨く場があります。思い通りにならないなかで自然から謙虚になるように、素直になるようにと教えられます。

環境が人を育てるといいますが、この時の環境は「自然であることが人を育てる」ともいうのでしょう。その時によく使われる言葉は、「そのままでいい」という自然の快復や免疫、つまり主体性や自立、生きる力を信じるという考え方のように思います。

自然体で生きるというのは、自然を學ぶということでしょう。

引き続き、子ども第一義の実践を学び続けていきたいと思います。

安心して育つ場

物事の見方というのは、人によって異なります。ある人は好いことでもまた別の人には悪いことにもなります。同じ現象で同じ状況でも見方次第で結果は全く別物になります。

故事に「人間万事塞翁が馬」というものがあります。

これは簡単に言うとこうです。

昔、塞翁という老人の馬が逃げてしまい周囲は「不幸だ」と言いました。しかしその馬は、後に良い馬を連れて帰ってきたので「幸運だ」と言われます。ところがその馬に乗った息子が落馬してケガをし、「やはり不幸だ」となりましたがそのケガのおかげで息子が戦争に行かずに済み、命が助かり「幸福だ」となった話です。

周囲が不幸だ幸福だと騒いでも、塞翁という老人は「いやこれはそうとも限らない」と物事の見方をその都度に変えて対応した知恵の故事です。

出来事の結果はその時に決まったわけではなく、その途中として受け容れさらに運命が好転していくように見守っていくという心の態度です。

そう考えてみると、人生は色々なことがあり感情も一喜一憂します。周囲も様々な評価や解釈をします。しかし、生き方に照らし見方を変えればすべてそこから學ぶことがたくさんあります。

例えば、悪いことがあった時にも、これはいつか善いことになると素直に信じ、善いことがあった時には、これは後に氣をつけないといけないかもしれないと謙虚になる。

そうなると善悪正否や評価なども忘れて、「今がちょうどいい、これでいい」と意外と氣楽に取り組んでいけるものです。

自分のものの見方がどうなっているか、カグヤでは「丸ごと一円観」ともいい、「一円対話」でそのものの見方をみんなで磨いています。この実践を続けていくと、あるがままがいい、そのままでいい、存在そのものがいいと、居心地のよい居場所ができ安心できる職場になります。

これからも子どもたちが安心して育つ場をお手伝いできるように精進していきたいと思います。

螺旋の真理 海の波動

螺旋のことを深めていると自然界のほぼすべては螺旋で構成されていることに改めて氣づきます。宇宙銀河をはじめ、人間のDNA、そして植物から鉱物まで全て螺旋で安定しています。

そもそも最も安定した姿が螺旋であり、それを揺らいでいるのが波動でもあります。

波動というものは、すべての振動のことです。別の言い方では周波数、そしてリズムともいいます。

いのちはすべてリズムを持っていて、それぞれに揺らいでいます。例えば、呼吸もですし光や音も同様です。空間の中で静寂があっても、そこで何かを鳴らせば揺らぎます。周波数を測定するには、時や揺らぎの回数などを測ります。

周波数は波動がカタチになったものです。波動のカタチは螺旋です。

法螺貝などは波動がカタチになったものです。では何がカタチになったものか、それは「海」であうろことは間違いありません。

海は波動が揺らいでいる存在です。その海の中では様々な生命の活動が巡り循環します。その一つのいのちの全体として法螺貝がいます。法螺貝の貝殻は海から形成されます。海水を使って貝殻ができるのです。

その貝殻は、螺旋構造を持っています。海の中で最も安定する姿に変化するのです。そしてその変化の形状はその海の波動と一致しています。

海の波動はお水の波動です。

そのお水の波動を持っているからこそ法螺貝はお水との相性がよく、お水を揺らすことができます。そのお水は空気中の微細な水分にまで影響を及ぼしますし、当然、人体の中にある水分にも影響を与えます。

法螺貝の海の波動は、いのちを伸ばし健康を維持するのにとても役立ちます。

私たちの生来具わっている感性や感覚の本質は何か、それは周波数や波動を感じて螺旋で吸収することだと私は直感しています。音も光も水も、螺旋は吸収して安定させます。つまり螺旋に入ればすべて取り込まれるのです。もっと別の言い方をすれば、螺旋によって調うのです。

私たちは偉大な螺旋という真理の中でいのちを纏めます。

引き続き、螺旋の真理を探究していきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

釜炒り茶の甦生

英彦山の守静坊には、古い茶の木がいくつかあります。ほとんど長い期間、手入れをしていなかったのか野生が強くなりヤマチャのようになっています。むかしは、英彦山の山中でつくられたお茶は特産でもあったといいます。山伏たちの生計を支えた大切な暮らしの一つであり薬でもありました。その名残がいくつか宿坊のお庭には残っています。

今年は、その古い茶の木から新芽を摘みむかしながらの釜炒り茶をつくってきました。この釜炒り茶の歴史は古く、室町時代くらいから九州に伝来してきたお茶づくりの技法です。特に九州の山間部でこの釜炒り茶は発展してきました。

現代は、ほとんど蒸し茶になっていますが釜炒り茶は19世紀前半には蒸し製と勢力を二分するほどであったといいます。上田秋成『清風瑣言』(1794)には、茶には蒸し製・焙じ製・鍋炒り・日干しがあるという趣旨の記述があり、釜炒り茶は蒸し製に次ぐ位置づけだったといわれます。江戸期の日本茶は、今のように「日本茶=蒸し製煎茶」ではなく地域ごとに蒸す・炒る・湯通しする・日干しするなど多様な製法が並立していました。

ではなぜ今、日本茶=蒸し製茶になったかというと明治時代の政策がまた関与してきます。大体、明治の頃に日本文化の原型はだいぶ破壊されていきます。英彦山の文化もまた明治に衰退しています。

お茶の方は、明治から茶の輸出をはじめました。すると不正茶・粗悪茶を問題にします。特に日干しで仕上げる「釜炒り日干し茶」が粗悪茶として取り締まり対象にし「釜炒り茶」全体の評価下がったといいます。明治前期には釜炒り茶の生産量が3万トン近くあり、全国各地で作られていたにもかかわらず、1893年には静岡県茶業組合連合会議所が釜炒り茶を禁止し、1894年から農林省統計でも調査対象茶種から外れたとされます。

味で蒸し茶に負けたからなくなったのではなく、輸出向けに再現性が高い蒸し技法が優先されたということです。現代も似ていますが、標準化して大量生産にあう便利な製法が増えて本来の素材を活かしたり、職人技といった地域や人の徳性の違いなどは無視し費用対効果を追求した結果ともいえるでしょう。

釜炒り茶は、やってみるとすぐにわかりますが香り・火入れ・手の感覚・地域差がでます。標準化には向いていない技法ということです。

しかし私は炭を使った調理をはじめ、火を丁寧に扱うことが得意ですから私にはぴったりの技法です。

蕎麦打ちにも共通しますが、身体感覚をよく使います。まず茶の葉を摘むところから、茶の木の個性を感じて葉っぱの肌触りや厚み、強みなどを感じます。その後は、薪になる木を選び火を熾します。鉄の釜やフライパンなどに感じる熱の雰囲気を指先でなぞりながら、適量の茶葉を入れて殺青といって新鮮なうちに発酵を止めます。

その後は、丁寧にゴザの上や掌で手もみしていきます。さらにもう一度、釜で炒り適度な状態になるまで手作業で乾燥させていきます。あとは、余分な水分をじっくり取り除き完成です。

砂鉄の鉄瓶で満月の英彦山の湧水を汲んで、備長炭で火を入れてその茶葉のお茶を清浄な宿坊の調った場でいただきます。

これがむかしの伝統のヤマチャであり、釜炒り茶の甦生です。

何でも便利さや大量生産ばかりを優先したこの150年、もう一度、日本文化とは何か、日本人がどのような感性を大切にしてきたかを暮らしの中で子どもたちに伝承していきたいと思います。

丸ごと一円観

一般的に修行というと、回峰行や滝行など含めた心身を鍛えるものを想像することが多いように思います。しかしよく振り返ってみると、修行は日々の暮らしの中に存在しているものです。つまり人生そのものが修行とも言えます。

修行の定義は色々とありますが、成長こそが修行ともいえるのではないかと私は思います。

人生歩んでいると、色々な事件があります。私は割と多い方らしく、周囲から驚かれます。日々に何かしらの事件があって、周囲はまたかと驚かれます。全部事件のように受け取っているからかもしれませんが、一つ一つを学びの行として受け止めればすべてが事件にもなるように思います。

人生は縁起によって微細なところまで完全に結ばれています。

日々の出会いや出来事は、必然であり起こるべくして起きたことです。偶然の事故に観えますが、実際は必然の事件です。向こうからやってくる出来事を、一つ一つ丁寧に正対して受け容れていく。

それは感情を含めて大変なことばかりですし、あるがままの自己を学び、そこからまた自然体に成長させていくための大切な道程ともいえます。直観というものは、出会う前にも知り、出会った後も知り、最中にも知ります。しかし本当に分かるのはいつなのかは誰にもわかりません。それはある時、ハッと目覚めるものか、あるいは探求する先に覚醒するものか、はたまた来世のようなときに巡り会い発見するものか。分かるというのは奥深い真理です。

しかし成長し続けているということは、まさに修行の最中であることを自覚でき学びがあることで自己がまた別の変化を継続していることを実感するものです。

ある意味で、修行の本質は受け入れがたいものを受け容れる実践の継続なのかもしれません。

よいものわるいもない、丸ごと一円観。

この道を味わいつくしていきたいと思います。

あるがまま、かんながらの道

人は自己を責めるとき、自己の関係が歪むものです。人間は脳で自分というものを認識します。外から見られる自分、こうでありたい自分、あらゆる自分が自分という存在を象り認識するものです。しかし自己には、本来の自分というものもあります。これはあるがままの自分でもあり、何ものでもない事実としての自分です。

例えば、紅葉の木はライオンではありません。蟻は鯉ではなく、石は虫でもありません。そんなことは客観的に観ればすぐにわかります。しかし、人間は何にでもなれると認識することができるからか主観的に自分を別の何かと思うものです。

これは幼少期からの環境や教育に左右されることが多いように思います。人間は人間という存在で世界を刷り込みます。実際には、自然というようにあらゆるいのちが循環謳歌して活かし食べあいながら暮らしている場が地球です。その地球の中には、あらゆる生き物たちがいます。

そしてその生き物は生来もって生まれたものがあります。猫は猫になるように姿形もできています。人間と同じように鼻も口も毛もありますが、猫は猫なので得意不得意があるのです。

自分というものはどのようになっているのか、それは先祖の徳の集積でできています。同じ人であっても、辿ってきた先祖の生き方や特徴や業が異なりますからそれを色濃く受けていますから人はみんな別人です。似てるように見えても、同じ存在は一つもありません。これは指紋がすべて異なるように、また葉脈が異なるようになるのと同じです。

それぞれにそれぞれ固有の特徴があります。他の人にできても、自分にできないことがあります。逆を言えば、自分にしかできないこともあり今の自分だからこそできることがあるのです。

他人と比較したり、完璧を求めたり、承認欲求などに自己を奪われてしまうと不平不満ばかりで不幸になるものです。

よくよく自己を見つめ直して自己を認めることで、事実や現実を直視することが「あるがまま」で生きるということかもしれません。

あるがままの自己を愛するというのは、あるがままの他者を愛するということでもあります。これでいい、これがいい、ちょうどいい、相応しいと生きることは、今の全てを肯定する生き方です。自己肯定感などとよく教育界では叫ばれますが、実際にはみんながあるがままを認め合える社會にできるよう、環境や教育を変えていけばいいだけです。

あるがままである世界は、いのちが活き活きと充たされ合う自然の道です。

引き続き、かんながらの道を歩むからこそ何度も繰り返し成長を確かめるための必要な節目があることに感謝して丁寧に道を拓いていきたいと思います。

螺旋の神秘

龍螺の法螺貝をまた三神ほどつくりましたが、螺旋の神秘には驚くことばかりです。法螺貝の螺旋には個性もあり、それぞれに螺旋の模様も形状も異なります。エネルギーをどのように蓄え、そのエネルギーをどのように発揮するかもまた螺旋が決めます。

私たちの身体の構造も螺旋でできているといいます。筋肉も血液も螺旋を描いで巡ります。そもそも循環というものは、螺旋そのものです。外と内、陰と陽、此の世の全てはその螺旋をどう巡るかで分かれます。

私たちの身体の外側にも螺旋はあります。例えば、頭の旋毛(つむじ)などは誰の身体にもあります。

この「つむじ」の語源は、糸を紡ぐ道具「錘(つむ)」または動詞「紡ぐ(つむぐ)」に由来です。頭頂部の毛が渦を巻いて生えている様子が、糸車が回転しながら糸をよって紡いでいく動きに似ていることから「つむじ」と呼ばれるようになったそうです。

つむじ風もまたここから来ています。他にも竜巻、渦巻き、此の世の自然現象のあらゆるところに螺旋はあります。

この螺旋は、エネルギー、そしていのちの本体が顕現する大切な現象です。

引き続き、法螺貝を通して螺旋の神秘を学び直していきたいと思います。

嘘のはじまり

嘘という言葉があります。これは古語の嘯くという説、大和言葉の誤説と誣説という真実ではないという説、虚という説などあります。

どれにしても、空しいもの、または事実ではないことを指します。

嘘を観察してみると面白いことがわかります。どこから嘘がはじまったのかということです。本質や事実を大切にしている人は嘘がなくなっていきます。それは嘘ではないことを見つめ続けるからです。

つまり本質的に生きることや、誠実に生きるためには、事実や現実を直視する力を磨いているということになるのです。

その逆に、事実を湾曲したり、現実逃避をしたり、自分の都合のよいことばかりに解釈する生き方をしていると嘘ばかりの人生になっていきます。本質的ではないことを本質だと思い込み、何かがあれば揚げ足取りをしたり否定したりすることばかりになります。

嘘という原因を掘り下げてみると、嘘のはじまりは最初は小さな真実ではないことを誰かに話しているときにはじまります。もっと言えば、思い込みを誰かに話し、その思い込みを誰かが信じ、それが第3者を通して自分の耳に入ることで事実だと思いこむ。

嘘にならないようにしている人は、よくよく内省をし本当は何か、事実はどうかと冷静に客観的に正対していきます。それに思い込みがないかどうか、周囲の声を素直に傾聴していきます。

世界はそれぞれ自分の思い込みで出来上がっています。ある人は真実が観え、ある人はそれがわからなくなります。そしてその差を決めるのは嘘をつかずに正直にいるかどうかという覚悟と、日々の内省です。

ブログや日記の有難さは、本質を見つめる時間を持てる習慣です。

引き続き、真実は何かをよく観て行動していきたいと思います。

風のように

英彦山では新緑の風が心地よく、水のせせらぎと光が溢れています。植物たちもみんな一斉に新芽が芽吹いて黄緑色の葉っぱがゆらゆらと元氣です。

この時季の風は、いのちを元氣にしていきます。

そもそも風とは何かということです。

一般的には温度の違いで風が起きるといわれます。しかし実際に古代の人たちは風をどう感じていたでしょうか?目に見えない存在であり、確かな生命エネルギーを運んでくる存在。国境も天地も超えて、風は地球全体を移動しています。

私はこの時季の風を感じるのが好きで、よく島風が吹く頃に島に生きました。海を渡ってくる風が身体を通ると全身の元氣が充ちてきます。皮膚も活性化し、心を清々しくなります。

風は何処から来て何処に行くのか、地球の呼吸のリズムで春夏秋冬あらゆる季節の風を吹かせます。それは全地域に重なります。例えば、砂漠であれば砂漠の風。大海であれば大海の風、凍てつく南極や北極にも風は吹きます。さらに言えば、太陽からの太陽風、そして満月の時には月に向かって風が吹きます。星々はすべて風は吹いています。

この風という存在、お水の一つの変化ではないかと私は感じます。

風水というものは、氣の流れです。氣がどのように循環して縁起の結びを辿っていくのか。風に任せていく人生、まさに風そのものが風来坊です。

風来坊のようにお導きに従って歩んでいく人生もまた風のように。

風に見倣い、風を感じ、風のままに歩んでいきます。