生き方を磨く

人生というのは、自分に最も相応しいことが今発生しているとも言えます。なぜなら、それが現実であり今、感じられることの全てだからです。では相応しくないというものはどういうことかといえば、今を感じなくなることです。

今というのものは、今の連続で今があります。今此処というのは、禅でもよく語られますが本来は生きているのはこの今です。この今の瞬間瞬間がどう生きているかで生き方というものが磨かれていきます。つまり、思想でもなく哲学でもなく実践というもの。それが生き方を磨いていくことです。

そして生き方を磨いているとまず最初に向き合うものは、今をどう感じているかということです。今の感じ方そのものが生き方そのものになっているからです。

例えば、今仕合せと感じる生き方、あるいは今有難いと感じる生き方、それは瞬間瞬間の実践です。周りがどう評価しようが、世間からどう思われようが、自分自身が今この瞬間をどう感じるかは自分が主体的に選べる自由があります。

この自分の自由は、感じ方の自由です。

周囲からみてどんなに幸福ですべてを持っているような人であっても、本人がそう感じていなければ残念なことです。あるいは、その逆であったとして本人が何よりもその喜びを感じて仕合せであればそれが真の豊かさや幸福と繋がっています。

私たちは感じ方というものを学び直すことで人生を変えていくことができます。

感じ方を磨くには、生き方から磨き直す必要があります。それはどのように実践するのか、そこには場があり暮らしがあるのは間違いありません。先人たちの生き方を学べば学ぶほどにその生き方に徳を感じます。

子孫たちがこの先も、あらゆる環境や教育によって自分軸を見失いそうになったとしてもいつまでも場を譲り、徳を伝承していきたいと思います。

自分の生き方軸

自分軸という言葉があります。世の中や常識に縛られず、自分の人生の目的や使命に真摯に生き切っているという生き方のことです。何かを我慢したり、諦めたりするのではなく、あるがままの全てを自分の初心を忘れずに実践するという感じでしょうか。

実際には、人は周囲を気にして周囲に合わせる生き物ですから知らず知らずに周囲の影響を受けるものです。幼い頃から教育によって、平均値の中にいることが最もいいことだと刷り込まれ、周囲の目や評価を気にするような比較競争の環境に置かれると気が付いたら自分のままであることや、自分の魂が自由に開放して生きることも忘れてしまうものです。

本当は、誰しもがこの世に産まれてきたのだから自然界の生き物のようにあるがままを謳歌することができるものです。特に心というものには制限がありませんから、心は自由になるものです。

この心の自由は、何を選択するかにかかっているように思います。自分が決めたこと、あるいは決めることを、一瞬一瞬、今ここに連続して行っていく主体性のことです。

生き方というのは、自分で決められるものです。たとえ、ご縁が向こうから来てもそのご縁を活かすかどうかは自分自身です。それは日々の微細な変化に対して決心を連続することです。

何かの初心や目的、生き方を決めたら人はあらゆる変化に気づくようになります。自分がどうあるかをその都度に選択するのです。それが自由を創造します。そして覚悟を決めて心を定めるときに開放される実感があります。

自分を閉じ込めて動けなくするのも自分自身です。自分自身が生き方を決めて、その生き方に忠実に生き切るならそこに真の自由や開放が発生します。そう考えてみると、自分軸というものは自分の生き方軸ということです。生き方を羅針盤にして道を歩んでいくところに真の人生があるということでしょう。

自分らしくというのもまた、自分の生き方らしくということでしょう。

子どもたちに少しでも生き方のお手本が遺せるように真摯に自分に挑んでいきたいと思います。

よみがえりの智慧

「よみがえる」という言葉があります。この「よみ」これは大和言葉です。「よみ」と呼ぶのは、黄泉や夜見、陰府や闇なども漢字を当てられます。他にも月読みともあります。

甦るというのは、黄泉のクニから帰ってくるという日本神話の話もあります。これは「よもつかみ」という黄泉にいるとされる神がいて、現世へと帰りたいイザナミがそのことを黄泉神に相談した話です。またその後はイザナミは「黄泉津大神(よもつおおかみ)」となります。

この「黄泉」は、中国からの漢語があてられた理由は古代中国の「黄泉(こうせん)」という言葉でこれは死者が向かう地下の世界(地下の泉)という意味で使われていました。須弥が黄泉になったともいわれます。

他には、こよみ(暦)もよみを使いますがこれは日読み(かよみ)から転じているともいわれます。毎日を数えるときの大和言葉です。

甦るというのは、暗闇から光が当たるという意味にも近いように思います。

他には、夜の世界から朝の世界に変わることをいうのかもしれません。いくら物理的に明るくても暗い世の中というものもあります。心の明るさを取り戻すこともまた甦るというのでしょう。

そういう意味では、私たちは日々を甦り続けているともいえます。どのように甦るかは生き方が決めます。甦生に取り組むとき、私はその甦生のなかに徳の循環を感じます。

子孫のためにも、よみがえりの知恵を伝承していきたいと思います。

水と火の徳

水と火というものは、私たちの生活には欠かせないものです。その水と火にどれくらい感謝できているかというと当たり前になってしまって忘れてしまうものです。毎日、神棚にお水をあげご先祖様にお線香で供養していましたがそれも大切な存在を忘れないための日々の実践にもなります

私たちの脳や神経は、便利な機能があり同じことを自動で繰り返すことができるようになっています。本来は、いのちがあったり五感六感をフル稼働して使わないといけないものも道具にしたり仕組み化することで自動化していくものです。

しかしその自動化するうちに、本来のもっている徳性や力を引き出せなくなっていたりします。そのものの持つ力を引き出す方法として、水や火というものはシンプルながらもとても偉大な存在であると私は思います。

これが土であれば、土にも徳性があります。土はあらゆるものを浄化し、そして産み育てます。ひとたび、発酵してその作物や場と調和すれば生命を育む循環の徳が顕現します。いい土は、まさに私たちの生命を深く底から助けてくれます。

火や水もまた同様に、徳性や力を持っています。むかしの遠い先人たちは、それを子孫へと見せてくれました。火は単に燃やすだけではないもの、水もまた同様に流すだけではないもの。浄化の方法も、調和の方法も、どのような徳があるのかもご祈祷や御祭りなどによって伝承してくれていました。

私たちは感覚を研ぎ澄ますことがなくても、便利に水も火も土も使います。しかしその力はほんのわずかなものであり、そして徳もそんなに活かすものでもありません。

最先端のテクノロジーばかりを追い求めているうちに、真の最先端の智慧の技術を捨てていきました。一見、進歩発展してように思えてもその実はあべこべで逆行して後退荒廃しているという現象も起きています。

地球や宇宙、水や火のように自然から与えられている存在がどれだけ偉大かを忘れるのはとても残念なことです。それは宗教でもなく、科学でもなく、徳であることを思い出すことからが甦生のはじまりだと感じます。

子孫へ水や火の徳を伝承していきたいと思います。

和に学ぶ

人間というものは、それぞれに正義があります。しかしこの正義とは、お互いに自分が正しいと決めて悪を倒すときに使われます。つまりどちらかが悪であると決めて、正義こそ自分であると正当化するときに用いられます。

何が正義なのかと、どちらが悪なのかというのはこれはその時々の人の価値観に由るもので変化していきます。

戦争などでは、悪という言葉がよく使われます。戦争を正当化するために悪を用いるのです。よく観察していると、どちらも悍ましい殺し合いをして正義をぶつけ合い殺戮を繰り返します。その状態を観ては、何が正義なのか、何が悪なのかと思うことが多いように思います。

本来、思いやりや真心、そして善い徳行などはこの正義とは関係がありません。いくら正義があって自分を正当化しても、そこに思いやりや真心や善い実践などがなければどれもが悪とさほど変わらない土俵にあるものです。本来の正義はこれら思いやりや真心や徳などが大前提にあって、それを元にきまりを設けてお互いを大切にしていこうとする仕組みのことです。

しかしその大前提が失われると、きまりを悪用する人たちが増えて正義も悪も同質のものに変化していくものです。正義の名のもとに、どれだけ悲惨なことを行ってきたかは歴史をみればすぐにわかります。裁く心というのは、憎悪を増やし敵をつくります。敵がいないところに正義はないともいえます。

そういわれてみると、勧善懲悪という言葉がありますがあれは本来は善か悪かではなく、思いやりを大切にして裁く気持ちを懲らしめようという意味ではないかと思います。裁くことや裁かれることには、どちらかが正しくてどちらかが悪いという思想です。これは結局、裁くことで得られる罪や罰の意識をどちらかが片方が与えることで成り立ちます。

そしてその意識から開放されたいとまた新たな争いを続けていきます。これが戦争の歴史です。自分をみんなが正当化すれば、争いは永遠になくならないということです。そして自分がしたことを常に正当化するために、裁き合い、罪と罰を与え続けるというのは真に解決にはならないと思います。

本来、思いやりをお互いに持つことができれば裁かれなくても済んだものです。正当化することや正義を振りかざすのはいつも自分の思想の起点が誰かや何かと争っているからでしょう。争いは、自分というものを正当化しようとする現れでありそこは和がありません。和というのは、常に自己を深く省みて生き方として真心や思いやりを優先しようとする実践のように私は思います。

子どもたちには、和を以って尊しとなすといった先人や先祖の智慧を伝承していきたいと思います。

呼吸の徳

呼吸や息というのは不思議なものです。動物をはじめ私たちは、酸素を吸って二酸化炭素を出しています。これは科学的なものです。しかし実際には科学的ではないものも存在していることがわかります。

呼吸法を学ぶと、呼吸には単に酸素を吸い込んで出しているだけではなくそこには心身を統一したり、自律神経を調整したり、波動を落ち着かせたり、意識を変えたりと不思議な力があることがわかります。

昨日は、篠笛やフルートの奏者と、石笛や法螺貝などを交えて色々と知恵を共有したり試行錯誤の練習をしていましたが意識によって音が変化することをたくさん確認しました。

この音は、呼吸によって行われますがどのような意識で音を出すかによってその音の状態が完全に変容します。例えば、時代的に懐かしい原風景を心に抱き音を出せばその時代の音が訪れます。また或いは、自分の生命エネルギーを強く発揮して音を放てばその音が周囲を元氣にしていきます。

私たちの呼吸というものは、周囲と結ばれ全体に大きな影響を与えています。その一つの要素が音に顕れるということです。

そして呼吸というのは、よく観察すると人ではないものでもすべて呼吸をしていることがわかります。それは樹木であったり、土であったり、あるいは石にしても地球にしても呼吸しています。この呼吸は、長い時間をかけて呼吸するものもあれば小刻みに呼吸するものもあります。あるいは寒い中での呼吸や、熱いものの中での呼吸、あるいは低い重たい呼吸もあれば羽のように軽い呼吸もしています。

これらの呼吸は、心の状態をはじめあらゆる感覚と結ばれ振動しています。呼吸というものの価値は、まだまだ未発見の部分が多く、これはまだまだ新たな発明も出てくるでしょう。

古来からの呼吸の知恵と徳を、子孫へと伝承していきたいと思います。

ルーツの道

昨日は、隼人族の末裔の方々が来庵され古代について歴史を学び直しました。私たちの歴史は、勝者の歴史というように過去にあった事実をそれぞれの勝者が塗り替えていくものです。

今、こうなっていると信じているものもつい最近の勝者に都合がよいように塗り替えられています。最近というと、戦争に負けたときでしょうか。これと同じようなことが古代にも何度も起きています。その都度、隠れたり消されたり、あるいは別の物にしたりと変わったものが神というものや、みんなが共通して心の拠り所にした存在だったりします。

しかし、根強く口伝や伝承によってその歴史を現代まで守り抜いている人々もいます。それは例えば、血脈として残していたり、あるいは意識として繋いでいたり、場に宿したりと様々です。

よく一族郎党皆殺しというものも、歴史から完全に抹殺しようとするからです。しかし、どんなに抹殺したとしても不思議なことですが次第にどこからかその歴史は明るみになり誰かに継承されていくものです。

これはなぜかと考えてみると、存在したものは失われることがないということを意味しているようにも思います。例えば、記憶というものがあります。記憶は忘れていくものです。それに記憶はなくなっていくと思っているものです。しかし、よくよく観察すると記憶というのはその場に遺ります。空間や宇宙の一部として記憶され続けます。水などはその最たるものです。音もまた同様です。鳴った音は消えると思われていますが、その音は別の物と同化して生き続けます。これは意識も同じです。意識を持てば、その意識は別の意識と結ばれずっと存在します。

人のご縁なども同じで、終わったり切れたりしているようでもそのうちまた時が熟しては巡り会うようにできています。過去の人たちや、同じ意識の人たちが集まり結ばれていくのです。

先祖の神話なども同様に、いくら改ざんして意味不明にしたとしても子孫が生きているのだから本当のことは魂でも覚えていますし、身体もそれを伝えてきます。そうやってみんなで力を合わせていつまでも記憶の続きを紡いでいるのでしょう。

ルーツとは、根源ともいえます。そういうものを大切にしていく生き方が道をさらに豊かにしていくものだと思います。お金だけではなく、今だけではなく、子孫のために生きようとする志はまさに記憶を生きることのようです。

これからも真摯にお互いの道を精進していきたいと思います。

人の修行

この数日間、曹洞宗の禅僧と共に禅の作法で食事をとりました。食べる前には、五観の偈を唱えます。この「偈」はサンスクリット語でいう偈文のことで仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べるものをいいます。五観というは、下記のことをいいます。(曹洞宗SOTOZENーNETより)

ひとつにはこう多少たしょうはかり 来処らいしょはか

ふたつにはおのれ徳行とくぎょうの 全欠をぜんけっ(と)はかっておう

つにはしんふせとがはなるることは 貪等とんとうしゅうとす

つにはまさ良薬りょうやくこととするは 形枯ぎょうこりょうぜんがためなり

いつつには成道じょうどうためゆえに 今此いまこじき

食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう

この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう

むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう

欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう

皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう

食べる前に、この五観の偈を唱えると身が引き締まる思いがします。そして食べはじめてからも、静かに瞑想のような気持ちで最後までいただきます。またお椀を片付ける前にも、お茶を注ぎお椀一つ一つを調えながら一つ残らずに綺麗に食べ終えます。

食べることを修行にしているという点で、私たちが何を大切にしてきたのかを思い出すことができます。食べるという行為は貪る行為にもなりますが、生きるために必要な行為でもあります。食べることが分かるというのは、自分たちが生きることが分かるということかもしれません。

そういう意味で、禅僧と共に暮らしを味わうと日々の動作の中にすべて修行の初心があり、それを日々に忘れない工夫で満ちていることがわかります。食事も作るときも修行、片付けも修行、消化している時も修行、その食べ物を活かすのも修行、あらゆる日常の全てがまさに修行そのものという生き方を示します。

これは日常、これは修行と使い分けることではなくまさに今、この暮らしそのものがすべて修行という意識で生きていくことは私の言い方ではいつも初心を忘れることがない生き方をするということでもあります。

私の実践する暮らしフルネスもまた同じく、暮らしそのものが修行という意味で同じです。そして修行の定義は、徳を積むことです。徳を積むとは、自分の喜びが全体の喜びになり、みんなの喜びもまた自分の喜びになるという自他一体の境地でいることです。

そうであるために、常に日々を磨いて日々を味わい、日々を一期一会に調えていくという具合です。生き方を同じくする仲間や同志との暮らしは心地よく、味わい深いものです。

子どもたちや子孫に、自然に先人たちの尊い生き方が伝承できるように場を調えていきたいと思います。

真心の交流

3日前からイランの方々が来庵され文化交流を深めています。生き方や信仰を磨いている方で、すでに一か月ほど永平寺をはじめ他の寺院に入り修行や体験をし帰国前に私のところに来られました。

禅の修行をしてこられたこともあり、食事や坐禅の作法もととのっており日本的な精神や文化を真摯に学んでおられます。日本人も来庵されることが多いのですが、海外の方は先入観がないから特に深く純粋に感性を発揮して学ばれます。

知識がないというのは、それだけ体験の純度も高くなり限られた時間ですが共に過ごすことで私も学び直すことが増えています。これは、お互いの文化の違いや体験してきたこと、環境、価値観などが複雑に作用しあうからです。

ある方は、イランイラク戦争のときに13歳でアメリカに1人で移住しました。戦争にいき亡くなるよりはと両親も本人も苦渋の決断をして渡航されました。英語もできずほとんど知り合いもおらず、渡航後も資金が尽きて公園の木の下で寝て、ゴミ箱をあさりながら食を繋ぎ、必死に生きていたといいます。

その後は、親切な先生からの紹介でアメリカでの農場を営む夫婦の養子になり、正確には養父母になってもらい大学を出て弁護士になり独立し今では移民などを支援したり、大学の臨時講師をつとめておられるそうです。若い時に大変苦労されておられ、とても謙虚で観えない世界にも感謝や信仰を持っておられます。

この観えない世界に感謝できるという人は、苦労している人が多いような気がします。何物かわからないものに助けていただいていることを忘れてはいないということ、自分というものがこの世で生きている意味を深く感じているということ。人は苦労するほどに、目に見えないものに対する感謝があるように思います。

また日本の精神性にも感激されておられ、その理由の一つは古いものや懐かしいもの、ご先祖様を大切にしているところ、また根源というものを大切にしているからといわれます。

この根源というのは、火や水をはじめ自然というものや徳や循環というもののことです。形だけのものではなく、真に中身や実践が暮らしの中にあることなどもここにきてとても感動されておられました。昨夜は、イランのハーフェズ詩集を使った書物占いをしていただきました。具体的には、ハーフェズ詩集を手に取り、適当なところでページを繰る手を止めて、そのページに書かれている対句から隠された意味を読み取るものです。このハーフェズ詩集は、東西の文化に影響を与えたものでゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受けて「西東詩集」を綴ったといわれます。

どの詩も深く、まさに文化交流としてみんなの心を捉えました。一期一会にご縁というのは、有難いもので日本の子どもたち、子孫へと伝承していける知恵になります。

出会いを大切にして、お互いの真心を交流していきたいと思います。

偉大な人

私たちは、もともと根源というものを持っています。これは原始ともいえます。この根源や原始の感覚というのは、知識をまた前の自分ともいえます。

知識を持つとそこが起点となり、根源や原始の感覚を忘れていくものです。これは経験や体験が増えていくにつれて仕方のないことともいえます。

しかしふとしたことから、例えば死にかけるような体験、あるいは生まれ変わるような体験を通して目覚めて、それまでの知識を削り取っていくような学びの削除に向かっていく方々がおられます。

つまり根源や原始に近づいていくような生き方です。すると、現代の価値観からはかなり遠ざかってしまつことがあります。

そうなると奇人変人とも言われ、狂っているとも言われたりするものです。

しかし、それは人々に知識があり、その知識を通しているからこそ、そう見えるというものがあります。知識がある人は知識がない人を狂ったように感じるからです。

これは子どもや老人だと、仕方ないと受け入れてもまともな成人であればなかなか許されないことです。しかし、そうではないこともあるのですからよくよく考えないといけません。

人類は偉大な人たちによってたくさん助けていただきました。偉大な人が育つ環境をととのえていくことが子孫のためにも必要です。

これからの時代の学び方を伝承していきたいと思います。