饅頭の初心

友人の北海道のべてるの家の河村先生が、福島の薄皮饅頭を配っているとお聞きしユニークな取り組みに乗っかろうと私も今週末のイベントで冷凍をむかしの蒸し器で炭で蒸し、みんなと一緒に食べることにしています。

この福島の薄皮饅頭の柏屋は日本三大饅頭の一つです。他の二つは。大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」(岡山)そして塩瀬総本家「志ほせ饅頭」(東京)です。今回は、この福島の柏屋の薄皮饅頭にしました。

この薄皮饅頭の柏屋は、嘉永五年(1852年)に創業し「病に薬がいるように、健やかな者に心のなごみがいる」との初心を定め奥州街道郡山宿の薄皮茶屋で餡がたっぷりで皮の薄い饅頭を考案したのがはじまりだそうです。

公式サイトに歴史のことが書かれていますが、興味深く少しご紹介してみたいと思います。

『創業まもない頃、旅姿の一人の男が柏屋を訪ねてきた。旅人は上州(今の群馬県)のお菓子屋で、ある日、富山の薬売りが来て饅頭を食べたところ、 郡山の薄皮饅頭とは比べ物にならない・・・と言われたとか。そこで、薄皮饅頭の作り方を丁寧に教えて差し上げたが、1年ほどしてまたやって来た。

「まだ、うまくできません。」
「上州の。お前さんは餡を何で包むんですか?」
「教えの通り、あのようにして作った皮で包んでいるのですが・・・」
「ああ、それだからおいしい饅頭ができないんだ。まごころで包まないとお客様に喜んでいただけない。」

上州のお菓子屋は、この一言に大変感動し、何度もうなづきながら帰って行った。』(公式HPから抜粋)

最初から、何を包むのか、まんじゅうを何のためにつくるのかという理念がはっきりをしているのを感じます。上州のお菓子屋さんも技術は優れていたからこそ違いがはっきりと理解できたのかもしれません。まごころで包むということの意味を学び直した話はこの柏屋さんの原点であり初心を確認することができます。

そして3代目の話も感動します。

『戦後、日本が復興をはじめた頃の話。まわりのお菓子屋が手に入る原料や人口甘味料でお菓子作りを再開する中、柏屋は歯をくいしばり3年もの間お菓子作りを再開しなかった。
これは、「のれんに恥じるような薄皮饅頭なら作らないほうがまし」との信念からであった。 三代目の妻・香は、 「今はおなかではなく、心をいっぱいにしようね・・・」とわが子たちに言って聞かせ、良い材料が手に入るまでじっと耐え忍んだ。』

先祖に恥ずかしくないように、子孫に顔向けできないことはしないと暖簾を守った信念とそれを支える奥さんの「心をいっぱいに」というまごころに伝承の重みを感じます。

今年のNHKの朝ドラの「エール」でこの柏屋の薄皮饅頭使われまた人気が出たようです。現在の当主のインタビュー記事に、「私は常々、お菓子の役割は人と人をつなぐこと、コミュニケーションを生み出すものだと思って仕事をさせていただいています。今回のエールでは、私どもの薄皮饅頭を、まさにそういう役割で、しかもこんな大事な場面で使っていただいて感動しています。本当にうれしいです」とありました。

時代が変わっても、大事な初心はわかる人たちの間で受け継がれてそれが使われていく。私もその初心を観て、むかしからの伝統のものや伝承の大切な思いを子孫たちへ伝えていくお手伝いをしていきたいと思います。

前進を楽しむ

一つの道が卒業し、新たな道が拓くというのは芽出度いことです。芽出度いというのは、なかなかあることではありません。言い換えれば奇跡であるということです。人は生きていたら毎日いろいろな奇跡にめぐり会います。

その奇跡を奇跡と感じる感性がある人は、毎日が挑戦であり日々が大切な道の一歩です。何かを捨てることは、何かを選ぶことでもあります。未来志向というのは、過去にとらわれず、自分の心の声を信じることかもしれません。

「どんな仕事でも喜んで 引き受けてください。 やりたくない仕事も、 意に沿わない仕事も、 あなたを磨き強くする力を 秘めているからです。」稲盛和夫

「山は西からも東から でも登れる。 自分が方向を変えれば、 新しい道はいくらでも 開ける。」松下幸之助

選ばない生き方というのは、引き受けるという生き方です。それは役割をいただいたのなら、与えられた以上で精いっぱい恩返ししていくということに似ています。仕事も同じく、いわれたことをやってもそれはその人のできる範囲で小さくまとまります。

しかし言われたことよりももっと大きく、もっと真摯にお返しすればそれはますます発展して学びも磨かれていきます。大切なのは、どんなことも道であるとし自分自身の人生を創造していくことだと思います。それは他人軸で評価される自分のことではなく、まったく新しい自分に出会い続けていくことに似ています。

今環境がないからや、ここまでの環境でなど満足するのではなく、もっともっとと自分から役割を取りに行く。それは志を立てているのだから、自分の視野で判断するのではなく、偉大なお仕事をいただいていると感謝し挑戦することだとも思います。

ご縁やチャンスは、そして一期一会は心の在り方や捉え方が大きな影響を与えています。一つ一つの物事をどのように受け止めているか、そこに自分との正対があります。自分と向き合うことは、道を歩んでいくことです。

引き続き、前進を楽しんでいきたいと思います。

 

夢追人

人はそれぞれに夢というものを持っています。夢は自分から求めていくことで得られるものです。そして夢は、今あるところからもっと先の未来に向けて自分から引受けていくことでもあります。

言い換えるのなら、すでにあるものを活かしてもっと自分にお役目を引き受ける、責任感とは少し異なりますが純粋な自分がやってみたいと願うこと、本心の声を聴いて自分に正直になっていくような感覚です。

私たちは、何か与えられたものの中でやらなければならないことをやるかのように教育で仕上げられてきました。本心からというよりも、本心は我慢してその中でやりたいことをやるかのようなことを美徳のように言われてきました。

しかし子どもたちを観ていたら、そうではないことはすぐにわかります。

私たちの会社は、子どもの憧れるような会社を目指していますから子どもが先生です。子どもを先生にすれば、夢を見ること、夢に生きることがどういうことかはすぐにわかります。

子どもたちはワクワクドキドキしながら未来を生きています。過去の修正ばかりをしているのではありません、常に心は夢を観ています。その夢に向かって正直に生きているのです。だからこそ子どもたちに夢に希望や未来を感じ、そしてそれを見守ることで信じる世界を実現させていきたいとも願うのです。

私たちが見守る保育を信じるのもまた、子どもたちの未来を信じているからです。

改めてコロナのことで先行きがよく観えなくなってきているからこそ、敢えて子どものような好奇心と夢で生きる時代に入ってきました。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

子どもの憧れる未来のモデルになるように、挑戦を楽しみたいと思います。

真の豊かさ

聴福庵やBAには、一輪挿しがたくさんあります。野花を摘んでは、その時々の旬を活けていますが次第に枯れてくる花を少しずつ取り分けては花器を換えていきます。はじめは大きな花瓶を使い、そして次第に小さくなって最後はもっとも可愛らしい一輪挿しに移動していきます。

この花の生涯を眺めていたらこんな風に歳を経ていきたいものだと感じるのです。真の豊かさというのは、その時々の活け方にこそ由るのではないかと私は感じます。

人生の中では、それぞれに時節というものがあります。

シンプルに言えば、節目でもありますがその節目節目には節目に相応しい舞台や環境、そして場があり、その場に移動していくことで新しい活かし方があります。そうやっていのちを大切に扱い、仕合せに生きていけばそれがそのままに真の豊かさになっていくのです。

もしこの花瓶に合わなくなったから要らないと捨てたり、まだまだいのちがあるものも役に立たないからと放棄するのは豊かさではないように感じます。現代の豊かさは、所有することであったり、大量にあることであったり、すぐに入れ替えができるほどに換えがある状態であったりすることを豊かだと思い込まされていたりもします。

しかしそれはあくまで、物質的な経済を活性化するための詭弁であり本来の真の豊かさとは異なるように思うのです。

先ほどの花で例えるのなら、活かし方の上手い人は押し花にしたり、ドライフラワーにしたり、水に花びらを浮かべたり、さらにはそれを絵に描き写してその花のいのちを永遠に味わったりする工夫を持っています。

そういういのちを最期まで慈しみ愛おしむように使える人こそ、暮らしの達人であり真の豊かな人だと私は感じます。身近には、唯一無二のいのちばかりが一緒に生を謳歌しながら共に歩んでいます。

その一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて生きていくことは天恵であり徳そのものです。

子どもたちに真の豊かさを伝承していきたいと思います。

 

学ぶ楽しさ、知る喜び

人は誰しも「知る喜び」というものを持っています。好奇心というか、新しいものに触れたり発見することはいのちが喜び輝き出します。幼い子どもたちの世界では、毎日毎時間、新たな発見に感動し驚き、学ぶ楽しさの中にいます。

本来、人間は新しいことを学ぶことで成長し、その学ぶ楽しみがあるから人生をイキイキと謳歌し輝かせていくことができるように思うのです。

それがある時から、知る喜びがなくなってきて好奇心が減退してきます。それは残念なことに現代の教育に問題があるのはすぐにわかります。

例えば、人間はお腹が空いたらご飯が食べたくなります。その時にご飯が出れば、喜んで食べると思います。さらに、あらゆる素材を手作りで育てて自分で料理すればその喜びは一入です。しかし、お腹も空かず食べたくもないのにただ大量に食べさせられたら人間は何も食べたくなくなっていきます。むしろ、どんなに美味しい料理を与えても何も興味もわかずしかも無理にでも栄養をとれと食べさせらるのだからもっと食べることに喜びを感じなくなるのです。

知識も同様に、大量の知識を一方的に詰め込まれ毎日膨大な情報量の中で生活をしていていると知ることがそんなに喜びではなくなっていくように思います。それを繰り返していると、学ぶことも次第に楽しくなくなっていくように思うのです。

当たり前のことですが、知る喜びは学ぶ喜びです。

私は毎日、このブログでもそうですが学びたいことが尽きず、知りたいことばかりで好奇心が尽きません。やりたいこともたくさんあり、経験したいことも山ほどあります。しかし時間が膨大にあるわけではないので、その中でも本心や初心を大切にして日々を大切に使っています。それは私の暮らしの中に、日々の発見や学びがあり、その学ぶ喜びや知る喜びがあるからです。

好奇心の原点は日々の暮らしの中にこそあり、その暮らし方を改革することでより一層、喜びを日々を歩んでいくことができるように思います。

真実を知る仕合せ、美しさを味わう仕合せ、そして全体快適や居心地の善い場がある仕合せ、これらは学ぶこと、知ることをより一層、楽しくさせます。

子どもたちは、現在、本当に学ぶ仕合せや知る仕合せを知っているのでしょうか?そして学校や先生は、何を教えることがもっとも学生たちにとって大切なのかを自分たちがやっているのでしょうか?

学び知ることの仕合せや豊かさは、人間のいのちが輝くための大切な道の一つです。場の道場の具体的な徳目として、何を目的に場を醸成するのか、改めてその原点から見直してみたいと思います。

 

場とIT

インターネットの歴史を振り返すと、まだ100年も経っていないことがわかります。現在わかる起源は1960年代に米国国防総省が核による攻撃にも耐えうるコンピュータネットワークを必要とし、パケット交換ネットワークであるARPANET(アーパネット)の開発に着手したことが切っ掛けです。そこから1969年には接続実験が開始され、最初の広域パケット交換ネットワークであるARPANETが誕生します。その特徴は「分散型ネットワーク」「パケット通信」であり、これがインターネットの起源だそうです。

現在、私はブロックチェーンに関わっていますがベースになっている技術は今も変わりません。まだ60年くらいの歴史しかないこのITの技術は、まだまだ黎明期でありここから革新的に変化を続けていきます。

そういう意味では、まだまだ現在のIT企業は最先端といってもすぐに変わってしまう技術と向き合い何かの切っ掛けで構造が完全に変化する微妙な位置で研究開発を続けています。

このIT技術を産んでいる人が人間である限り、人間が考えられることしか発明することはありません。人間は人間を超える発明ができないのは、よほどの偶然が重ならない限り過去の経験や発想からしかものづくりをすることがないからです。

そして同時にその人間には、大きな可能性があることに気づきます。一つは、仏教を含め、神と呼ばれる世界観を持っているということです。つまりは神と呼ばれるチカラ(神通力)を人間はものづくりで実現しようとすることです。

例えば、仏教でいうところの神通力は瞑想によって悟りを得られると同時に獲得するといわれる6つのチカラがあるといいます。

1つ目は、神足通=自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。2つ目は、天耳通= 世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。3つ目は、他心通= 他人の心の中をすべて読み取る力。4つ目は、宿命通= 自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。5つ目は、天眼通=一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。漏尽通=煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

結局、人間が人間に真に近づくのは神のチカラを得ることですから人間はこれらの神通力をITのテクノロジーで産み出そうとしています。そしてそれを産み出そうとするからこそ、そこに関わるITのエンジニアたちは瞑想をし修行をする必要があるのです。

私が取り組む「場の道場」では、これらのことを実現するために心の修行や魂の錬磨ができるように「暮らしフルネス」を実現しています。世界の本当の最先端は、これらの懐かしい未来の調和の場によって顕現するのです。

世界がこの先、大きく変わるのは、人類がこの神の領域に踏み込むときです。そして神のテクノロジーを知るとき、人間ははじめて謙虚に自分たちが何が整っていないか、その世界がどのような平和で幸福な世の中であるのかに悟り、真実の豊かさ、善きご縁の繋がり、そして美しい暮らしを調和させていくことができるように思います。

科学が発展し心の世界に追い付けば追い付くほどに、心の世界も同時に発展していきます。それまでの間、私達人類は様々な困難や試練に出会いますが、必ず私たちは、対立概念ではなくそれを超えた真の調和の世界で生きて偉大ないのちを成長させていくのです。

子どもたちが、そのいのちを活かし、真の豊かさを生きられるように懐かしい未来の場を磨いていきたいと思います。

法螺の道

昨日は京都の南禅寺の行場で、素晴らしい法螺師の方とのご縁がありました。その方が立てる法螺貝はまさに行場の神聖で清浄な空気そのものであり、凛として優しく包み込むような音に深く心が癒されました。

何も分かっていない私に対して、とても丁寧にそして真心でお稽古をしてくださり初心者の心得を伝承していただきました。

法螺貝は、楽器ではなく法具であるというお話や、それぞれの流派の歴史、そして何のために法螺をやるのかという意味などをご指導いただきました。法螺師の生き方や生き様、流派や宗教に囚われず原始原点の信仰の姿を垣間見ることもできました。

もともとこれらは音楽ではないから音符があったわけではありません。明治以降、音符にしてそれぞれの流派の法螺の音色を紙面におとしていますが本来は口伝や伝承によって師から弟子へと引き継がれてきたものです。

それは単にテクニックだけではなく、原点や初心を伝承してきたのです。短い時間ではありましたが、ご指導いただく一期一会の一コマの中にとても凝縮された温かい見守りを感じて魂が揺さぶられました。

私は甦生を磨いていくものですから、法螺貝によって自分を磨き、その法螺貝と一緒に徳を磨いていきます。先達の法螺師から、「あなたが選んだ法螺貝だから、それがあなたの低音である」といわれ、誰とも比べることのない私の音を、この法螺貝と共に見つけていきたいと感じました。

自然物の法具は、いつも私を磨いてくれます。想えば貝は、私の人生にとってとても偉大で大切なパートナーの一つです。

人間が自然と共に、自然と一体になっている姿から本来の人間とは何か、人間の持つ役割とは何かを改めて思い出します。山伏や法螺師の姿は、大地そのものです。大地のように力強いチカラで、子どもたちのいのちを揺さぶり元氣を甦生させていくかのように私もこれから法螺の道を究めていきたいと思います。

ありがとうございました。

音の道

昨日は、有難いことに鞍馬山で法螺貝を立てるご縁をいただきました。まだはじめて間もないのですが、エバレットブラウンさんの御蔭で「音」について深く学ばせていただいています。

この音には感情というものがあり、その感情を見つめて感情を整えていく。まさに音の深い魅力と不思議な効能などを実体験を通して学んでいます。

思い返せば、音については興味がありましたがなぜか楽器をもって何かをするということまではあまり至りませんでした。中学校、高校の時、バンドを組んでいたのでその際にシンセサイザーにのめり込んだことがありました。

あの時は、電子音でしたがバンドのメンバーの楽しい思いや挑戦したり努力している音色が嬉しく、思い出の青春の一コマになっています。

今回は、また別の青春の一コマであり、音というものの持つ神秘的なチカラや山伏や修験道というものの本質や伝承なども学ぶ機会になり、このタイミングとこの年齢で音楽に再び出会う機会になりました。

何年か前にインディアンフルートの音色に興味を持ち、いつかインディアンフルートをやろうと思っていましたがなかなかご縁がなく、なぜか先に法螺貝になってしまいました。しかし、どこが音の道の入り口であるかと全体を改めて見直すときまさに今此処が音というものの本質に入る時であることに気づきます。

私はもともと選ばない生き方をしていて、来たご縁は素直に受け容れます。それはその方が豊かであり面白く、ご縁に生きることができるからです。昨日は、ある山伏の生き方を聴く機会があり、その方はどんなことでも「受けたもう」と引受けて生きておられるそうです。今を生きるというのは、今の中に自分のすべてを没頭させていくことです。そしてその境地こそまさに心から楽しいことに一体となっています。これは生まれてまもない子どもたちの童心であり、自然界のいのちそのものです。

いのちは常に無我や無心と共にあり、そこに自分のいのちの中心軸があることに気づきます。音は、まさに調律、調和をこの世にもたらす一つのいのちの姿ともいえるのです。

いつか私のいのちの音により、子どもたちの心が癒され浄化し調律をできる日がくるまで引き続き日々の呼吸をととのえ音の道を精進していきたいと思います。

暮らしフルネスの本

現代は、脳が中心で動いている世の中です。脳以外の部分、例えば五感などの感じる部分が減退しています。都市化された社会で、なんでも便利になってしまえば頭で考えて計算していくことが価値があるように価値観が変化していきます。

思い通りになることが是で、そうではないことが非になるのです。なんでも未来を計算し、計算することがなんでも先になってしまうと感じる力をまたつかわなくなります。これがいのちが弱っていく理由なのです。

私がいのちの甦生を手掛けるのの最初の一つ目が、感じる力を高めることです。暮らしは五感を整え、清浄な場があらゆる五感を研ぎ澄まさせていきます。

例えば、未来というものは誰にもわかりません。予測はついても、それは予測通りにしているだけであって1時間後にどうなるのかは誰にもわかりません。ひょっとしたら事故にあったり、何か大事な出来事が勃発することもあるでしょう。何に出会い、何が変わるかなども誰にもわかりません。

つまり未来は計算通りになっていないのです。自分が計算をしているだけで、未来という別個の空間と時間が存在していてそこはどうにもならない全体の出来事の影響を受けているのです。だからこそ、計算ばかりしていても意味がないということです。計算疲れというか、現代人は、脳をフル稼働するばかりでいのちを使っていません。そんなことをしていたら不安や不信が募るばかりでいのちがすり減っていきます。

いのちは使わなければすり減ります。物質文明の価値観だと、使うと減ると思い込んでいますがいのちは物質ではありませんから使えば使うほど磨かれて光っていくのです。私の言葉にすれば、いのちが甦り続けて永遠に生き続けていくのです。

これが生まれてきた仕合せであり、この世で修行をする目的でもあるのです。自分の生き方を磨いていくことは、いのちを使うこと、それは言い換えればもっと直観や五感を大切にして感じるままに心の声を信じて行動していくことです。それは計算ではなく、感じるものを優先して生きるということです。

そのためには五感を常に研ぎ澄ます必要があります。自然の中に入り他のいのちに倣い、いのちを磨く道具と共にさらにそのいのちを調和させていく。その中にこそ、いのちがイキイキと喜び、充実する時間を持てるように思います。私が現代になぜ暮らしフルネスが必要だと思う理由はここなのです。

現在、私の尊敬する方々が本を編集していただいています。この地球上で最高のパートナーたちであり、整理編集は余人に代え難い見事な人たちがやってくれています。

私の人生初の書籍は、内容がどうこうというよりも誰と一緒にやっているか、まさに一期一会、今ここ、この瞬間の奇跡が何よりもいのちの仕合せです。

同じ理想を持つ人たちと一緒に本に取り組めることに心から感謝しています。

 

徳を積む

昨日、徳積財団の活動について話し合いを行いました。徳というものは、必ずこの世に存在しているものですがその徳を大切にするということを意識することは減ってきているように思います。

そしてその徳を積むとはどういうことか、そして何のために積むのか。私は魂を磨くことで徳が磨かれることに意味があると信じていますが過去の先人たちもみんなその徳についての言葉を遺しています。

松下幸之助さんは、「人間で一番尊いものが徳である」ともいいます。その話の中ではこう解釈しています。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

これはなぜ教えることも習うこともできないか、それは無我無心の境地であるからだと思います。徳はただ磨く境地ですからただ磨くというのはただ動くということです。それは実践するといっていいかもしれません。実践する人は、そこに磨こうとする意志があります。そこに徳が集まってくるのです。

老子はこういいます。

徳のある人は自分の徳を意識しない
それは得が身についているからだ
徳のない人は徳を意識するため、
なかなか身につかない

だから、
最上の徳は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な徳は有為であり、
わざとらしいところがある。

最上の仁は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な仁は有為であり、
わざとらしいところがある。

つまり、無為自然であることこそ最上の徳であるということ。真心はそのまま徳になるのです。

子どもたちはその真心をどうやって学ぶのか、それは知識や知恵とはまた違います。それはその人の真心の行動によって学ぶのです。真心は必ず伝わり、真心は必ず天に通じます。

これを吉田松陰は「至誠」といいました。

先人に恥じないように、真心を盡して徳を磨いていきたいと思います。