預言の本質

預言というものがあります。これは辞書を引くと「ある人が神や神霊の代わりとなって、神意を民衆に告げること」とあります。世の中が不安定な時は、色々な預言者が現れ様々な預言をするものです。有名な預言者には、イザヤやエレミア、エゼキエルがいます。少し前ではドイツのシュタイナー、日本にも出口王仁三郎氏がいます。

そもそもこの預言というものは、不思議な直観力を持って見通す力だといわれます。しかし冷静に考えてみると、人間が預言者として尊敬して感動するのはここ数日から数年、あるいは十数年の事実を見通すことや、同様に過去の同じような期間のことを言い当てたことによるように思います。

1万年先や100万年先の未来も過去も、今の自分には関係がないからです。そう考えてみると神様と崇められる存在というのは短い期間の予想ができる人物ということになります。ある意味、組織のリーダーというものはその経営のかじ取りをする上で中長期的な未来予測を絶妙にできる存在が人々によって選出されていくものです。

そしてこれらの予測は、如何にして行われていくのかを観察するとそれは全ての出来事への内省からの深い洞察に裏付けられていることがわかります。

なぜなら、過去の出来事というものはその本質をよく見つめればそれは未来の出来事になるということがわかります。古来からの因果応報、陰陽調和の知恵にあるようにすべては表裏一体であり万物和合しているものです。何かをすれば相応にそのことが調和しゼロになるようなことが発生するのです。

これは預言というよりは、宇宙や自然の仕組みであり避けられない法理であり真実です。最初から存在しているルールというものには、逆らえないのです。どんな預言者であっても肉体的には滅ぶようにこれらのことも避けられません。物質が循環するという法理には逆らえません。

だからこそ預言は一般的には神の霊感とか言われますが実際に私が感じるのは非常に深い内省からの洞察でありどこまで物事の陰陽を微小に偉大に観ているかというです。これを科学で突き詰めるのなら、AIなどはその情報量のインプットと分析によってある程度の人類の未来は予測できるように思います。人間が受け入れないだけで、すでにAIは人間の業を分析済みであるのです。

ただ、人間は起きてくる真実とは別にどう生きるか、どう感じるかは人によって選べるものです。それはどのような宿命が待っていたにせよ、自分がその最後の瞬間までどうあるかは自由にできるということです。

なので、こうなった時はどうするか。こうあった時はどうあるかなどはある程度はシュミレーションできるものです。どんなに大金持ちであっても地球規模の大災害からは逃げられません。この世に宿命から逃れられる人はいないのです。結局は、その逃れた行為から別の業が発生していきますからこれも法理として決められた布置からは逃げることはできないということでしょう。タイムマシーンのようなものがあったとしてもまた別の運命に翻弄されるだけです。

先ほどの出口王仁三郎氏は、「この世で起こる出来事や事件はあの世に現れている」ともいいました。この世が陽であれば、あの世は陰ということではないかと私は思います。これは三浦梅園先生も同様なことを仰っていました。

また出口氏はこうもいいます。

「1日先のことがわかれば大金持ちになれる。1ヶ月先のことがわかれば大宗教家になれる。10年先、100年先のことを見通せば、頭が変だと危険視される」

これに1万年後とか10万年後のことを言うと、普通過ぎて誰からも気づかれない人になるようにも思います。結局は、預言というものの本質はそのような感じのものです。

だからこそ、今、どうあるかに集中することで過去も未来も調えていくことができるものです。過去をよく観察し学び伝承することは、未来そのものを善くなるように循環に導く大切な今になります。

今を大切にするのは、それが子どもたちや子孫の未来に直結するからです。自分がどうなるかを心配するよりも先に、自分よりも先の世代のことを慮り自分が多少大変であっても過去から学び未来を繋ぐことの方が預言の仕合せはあるように思います。

引き続き、かんながらの道を歩み徳を磨いていきたいと思います。

恵まれている人生

思い返せば、私はずっと人に恵まれてきた人生を送ってこれたように思います。出会いやご縁を大切に生きてきた御蔭で、素晴らしい人たちの尊敬する部分、美点、魅力をたくさん体験して共感し学ぶことができました。人に興味を持ち、人の奥底にある役割や目的を丸ごと愛するように心がけてきました。

癖が強い人、こだわりがある人、あるいは繊細な人、器の大きい人、たくさんの人たちに出会っていく中で人間の魅力を感じて自分の糧にしてきました。似たところもあれば、まったく似ていないところもあったり不思議ですが関心はなくなりません。

人生の前半はずっと話すことに力を入れていましたが、後半からは聴くことに注力してきました。その御蔭で話を聴くうちに、周囲の人たちの存在がとても有難く感じるようになりました。人間はそれぞれに守るものがあり、それぞれの目的があります。時にはちぐはぐな人がいたり、またある時には思い込みで自分を見失っている人がいたりします。みんな何かに困っていたり、あるいは苦しんでいたりと、それぞれの悩みもあります。そういうことを丁寧に聴いて思いやりで接していく中で、その人のことが少し観えてきます。すると他人事ではなく自分のことのように感じて、取り組んでいくうちに気が付くと自分もあらゆることで助けられてきたように思います。

人間の不思議な関係は、「助け合い」をすることができるということです。助け合うことで、人生はとても恵み深いものになります。どうしても自分に余裕がなかったり自分が大変なときほど、自分でいっぱいになってしまうものです。

しかし恵まれてきたこと、今も恵まれていることに気づくことで周囲の有難さに気づいていくこともできるように思います。

この恵みというものの正体は、与えあう素晴らしさを実感できているということでしょう。むかしから奪い合えば足りず、与えあえば足りるという言葉もあります。与えるのが好きな人はそれだけ恵まれていることに感謝している人なのかもしれません。

豊かさもまた、その恵みを実感できる暮らしの中にあるものです。生き続き、感謝や徳を磨きながら日々の暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

場の例大祭

来月の2024年2月4日(日)の11時より、飯塚の場の道場(BA)にて例大祭を行います。この例大祭とは、一年に一度しかないこの場の大切な「ハレの日」です。前日が節分で一年間の鬼や穢れを豆まきによって邪気払いをしつつ福に転じて、立春という新しい季節のはじまりに予祝をして新たな芽吹きをみんなで祈り感謝して笑う。

私たちは縁起という、ご縁と御蔭様によって暮らしが豊かになり仕合せになりますが例大祭はそれを確認するだけでなく新たに甦生させるという懐かしい未来の一日になります。

徳積財団の設立から御蔭様で5年目に入りました。この5年間、本当に内容の濃い徳積活動をさせていただきました。ブロックチェーン神社としてスタートしてから飯塚モデルといったような真に新しい経済をどう創るかという課題を解決するために徳積帳を開発し昨年は三浦梅園先生の教えに触れて徳が循環する経世済民に取り組みはじめました。現在、日本は心が冷たい人が増えたといわれみんな自分のことばかりを考えているとも言われます。しかし全体がそうなっているのではなく、志のある方や私の周囲の方々はみんな心温かい人たちばかりです。

一年に一度のこの大切な節目に、皆様と一緒に場に集い最も澄んだ一日を過ごしたいと思います。

今回の例大祭は、ご祈祷はいつものように妙見神社の有光禰宜さんにお願いし法螺貝奉納は私。石笛奉納を宮前奈々子さん。そして奉納舞は米田さきさん。昨年ご一緒一体に舞っていただいた待望のご子息も誕生し、大変縁起も善く有難い舞になります。そして光の鍵盤ピアニストの今井てつさんに奉納演奏にて浄化します。音の響き、舞の響き、すべてに辰年に相応しい龍の振波動を感じていただけると思います。

また直来(お食事)は、立春に相応しいお雑煮やお餅、福のつくものをご用意しています。そしてお昼から会場を調え「暮らしの立春音楽祭」を歌唱力が研ぎ澄まされているシンガーソングライターの丸目雅さん、また双子の倍音を奏でる野見山祐輔・晃輔が行います。

暮らしフルネスな一日を、皆さんと一緒に味わい盡して新年を祈祷しお祝いしたいと思います。日曜日の開催なので、久しぶりにお会いできる方もおられると思いますが心から場での再会を楽しみにしています。

運とは何か

運に選ばれる生き方というものがあります。幸運というものは、偶然のようにみえて実際は必然であることを思います。これはご縁を感じるものと似ていて、そこには偶然はありません。柳生家の家訓に、縁を活かすがありますがこれも運を善くすると似ている共通点が多いように思います。

運のことを深めていると、桜井章一さんという人のことを知りました。まだ著書を拝読してはいないのですが、この方は東京都世田谷区下北沢生まれの経営者、雀士、著作家で雀荘の経営、麻雀に関わる自伝・自己啓発の分野の書籍の出版に携わっている方だといいます。運に関する言葉も色々と書き残しておられ、ここに運に選ばれる生き方を感じることができます。勝負の世界ほど、運を味方につけるかどうかが大切なことはありません。その言葉で共感したものをいくつかご紹介したいと思います。

「勝つ」ことではなく「負けない」ことにホンモノの強さはある。

勝負の世界とは勝つことではなく、負けないようにすること。これは将棋の、「攻めるは守るなり」に似ている言葉です。

また勝負で迷うことにおいてこういいます。

麻雀に長考はない。それは考えているのではなく、迷っているだけだ。

そして迷いはどこから来るのか、

不安や迷いの原因は、「感激」「感動」「感謝」が足りないことだ。

考えているのではなく、感じているときに迷いはないというのでしょう。

そしてこうもいいます、

 人間、立ち戻る場所がないと迷いが増えて弱くなる。その反対に立ち戻る場所があると強くなる。

立ち戻る場所、これは初心や理念とも言えます。自分が何のためにやるのか、その目的や意味を感じるとき、人は考えることをやめて決心が定まるように思います。

そして失敗のことをこういいます。

「失敗」イコール、「負け」ではない。

では何が勝ち負けかというとこう定義しています。

理想的なのは、「よい内容で勝つ」こと。次に望ましいのは、「よい内容で負ける」こと。3番目が「悪い内容で負ける」ことであり、最も下なのは「悪い内容で勝つ」こと。

つまり、内容のことを観て勝負としているのです。いい勝負をしたかどうか、これは本当に大切な心構えのように思います。

最後に「運」についてはこういいます。

慎重すぎると、「運」は逃げていく。

「悪い運」の連鎖から脱けるには、逃げずに早めにケリをつけることだ。

運というものは、逃げないこと、正面から挑むときに必要になるというのです。

言葉をいくつか拾うだけでも格好良い生き方、勝負の世界にある生きざまに憧れのような感覚を味わえます。勝負の世界とは、大きな意味で己に克つという自己との勝負があります。みんな人は誰もが、生まれながらにして勝負の世界に入っているともいえます。強くなりたい、優しくありたいと思いますがそうあるために日々は真剣勝負なのです。

強い人間とは、決して準備を怠らず、成し遂げ、後始末をおろそかにしない。つまり「間に合う」ということだ。

心温かきは万能なり。

とも言います。負けない生き方というのは、間に合うために準備することです。備えろいうことでしょう。これは特に深い境地です。

本当の「勝負所」は圧倒的に不利なときにこそ訪れる。

今まさに、圧倒的不利で諦めそうなとき、苦しく辛くてやめてしまいたいとき、困難な時、勝負所に入っているということでしょう。元氣をいただく言葉に救われる人も多いように思います。色々と学び直していきたいと思います。

立春と素直な心

春のはじまりを告げる、そして冬のおわりを告げる節目です。立春の「立」には季節の始まりという意味があり、「春の気立つをもって也」ともいわれます。春の気配がはじまったということでしょう。

そうやって周囲を見渡すと、池のほとりの様子や植物や木々の蕾や新芽、また動物たちの行動や鳴き声などが変化が著しくはじまっています。

この時期は大寒といって一年で最も寒い季節ですが、この時期の空気や水が澄み渡っていることからこの時期に発酵食品などをむかしから仕込んできたともいいます。太陽を観察しながら日々を過ごしていると、この季節の太陽の光の清々しさは言葉にはならないほどです。

特に雲一つない薄碧い空の光や、夕陽の河に反射して眩い光、また夜空に照らす月の透明さ、どれもがこの寒い季節だからこその澄み渡った気配があります。寒さは厳しいですが、その分、いのちは研ぎ澄まされて感覚も鋭敏になっていきます。

感覚が鋭敏だからこそ、この時に仕込みたいものがたくさんあります。これからの夢や希望、そして昨年からの改善、あるいは覚悟を確認して決心することなどとても心地よいスタートがきれます。

昨日は鏡開きもして、道が開いていくことの目出度さ、豊かさや感謝などを味わいました。五穀豊穣というものがある御蔭で私たちは暮らしを味わうことができます。恵みに感謝することや、いつも助けてくださっている御蔭様を祈ることは仕合せを確認することにとても意味があります。

立春といえば、西行にこういう歌が残っています。

「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢」

私も残りの寿命を思いながら昨日は眠りました。朝起きてみると、すでに夢が叶っていることを思い感謝が沁みました。春とはまさに今ここに味わう素直な心。いつまでも素直な心のままに原点回帰して日々を大切に過ごしていきたいと思います。

強く優しく寄り添うこと

正月の能登半島地震の知らせから被災地のことを思っています。同じように同じ国で正月を過ごしても、場所によっては大変な出来事に遭遇しそれまでのあたり前が完全に破壊されることがあることに改めて他人事には思えませんでした。

特に私たちの暮らす日本列島は、地震や火山、そして台風や洪水など自然災害が最も世界でも多い国です自然への畏敬を忘れて謙虚さを失った頃に、自然から畏敬を忘れるなと警告されるかのように災害が次々に発生します。

私は東日本大震災の時に、津波や原発事故の犠牲者を追悼するときに心にとても大きな衝撃を受けてこのままではいけないとそこから様々な生き方と暮らし方をずっと改善してきました。その後に新型コロナウイルスの感染症が流行り、ブレずに着々と地道に子孫のために必要なことを譲り遺していくために「徳」を大黒柱にして取り組んできました。

具体的には古いものを磨き直して甦生して知恵を伝承する仕組みや場を醸成したり、新しいテクノロジーを使って古くから連綿と大切に守られてきた自然循環を可視化したり、かつて当たり前であった自然の恩恵に対して徳を積むことを主軸に、金銭面などの周囲の心配などをよそに邁進してきました。

現在、日本人は世界でも自分のことしか考えない人が増えているといわれているといいます。心の冷たい人が増えたというのは、それだけ心の余裕が消えるような現代や教育の環境の影響を受けたともいえます。みんな時間に追われて、当たり前であったことを見失ってしまっているようにも思います。

しかし、地震などの自然災害で大変な思いをなさっている方々を観るとき離れている私たちには何ができるのかを真摯に向き合うと無力さを感じながらもこの当たり前だったことをもう一度見直し、感謝して暮らしを調えていくことではないかと私はいつも思います。

元々、私の取り組んでいる「暮らしフルネス」もまた東日本大震災の犠牲者の方々の死を決して忘れないと取り組んできたものです。人間中心の飼育された社会のなかで、感性を鈍らせない、野生を忘れない、本能で生きることを大事にすること。そして、先人たちの思いやりや遺徳、知恵を真摯に伝承すること。未来の子孫のためにも、自分たちが暮らしを通して道をきちんと結んでいくこと。これらのことを実践するために起こした事業が暮らしフルネスの本懐です。

私の言う事業の定義とは金もうけのことをいうのではなく、徳を積むことをいいます。利益というものは、本来は子どもたちのものでいいのです。尊敬する先人たちの事業で今でも遺っている素晴らしいものはすべて子孫のために実践されてきたものです。

自然は、平等に人々に災害を与えてくれます。だからこそ、自分の代わりに被災してくださった人たちのためにも自分が何を変えるのかを真摯に考えて生き方を見直していくことがその恩に報いることになると私は思います。

もちろん緊急性のある支援はできることをよく吟味してすぐに行動できるものはやることだと思います。しかし長い目で観て、数年、数十年、数百年先に何がもっとも被災地の子どもたちのためになるのかなどを思うとやはり自分の生き方を変えることだと感じます。

引き続き、私は悲しみに寄り添いながら初心を忘れずに暮らしフルネスの実践と伝道を強く優しく寄り添いながら続けていきたいと思います。

恵みに感謝

全国各地に商売繁盛の神として知られる七福神の一人に、「えびす」さまがいます。ちょうど十日えびすのお祭りがあっているので少し深めてみます。

この「えびす」さまは、ウィキペディアの分類によれば「日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。」とあります。

「えびす」さまの名前はとても有名ですが、以上のように外来の神様や渡来の神様、海からの漂流物など、はっきりとしないあらゆるものが混ざり合った姿として存在があります。また一説によれば古代の鴨族が田の神様として祀っていたとか、海人族安曇氏の氏神様であったとか、謂れがあります。この古代の安曇族は本拠地は北九州の志賀島一帯で遠く中国まで交易をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族だったといいます。水軍を持ち、あちこちに移住しその勢力を拡大した一族です。

もともと日本という国は島国で海路と海の恵みによって豊かな暮らしを育んできました。内陸も今よりも内海や河川が自然のままで、船によって内陸との交易を発達させてきました。

海がある御蔭で私たちは世界とつながります。今では空もありますが、古来は海が中心でしたから多様な文化を受け容れる神様の御蔭で人類は交流を持ったように思います。

そしてこの「えびす」さまは、その象徴だったように思います。

今では商売繁盛のご利益が有名で、よく大黒天と一緒にむかしはお祀りされていたといいます。私の古民家でも常に厨房やおくどさんにはえびすさまと大黒様を一緒にお祀りします。これは豊かさの象徴に感謝するためでもあり、その見守りの中で暮らしが成り立っていることを忘れないようにするためでもあります。

海の恵み、田の恵み、自然の恵みによって私たちは生きていくことができます。いくらお金があっても、これらの自然の恵みがなければ私たちは生きていくことができません。

今、ちょうど十日えびすで私のいるBAでも恵比寿様をお祀りしていますが改めて恵みに感謝する日にしたいと思います。

 

親友の仕合せ

幼馴染がはじめて家族と一緒に聴福庵に来てくれました。小学校5年生の時からの友人で色々なことを星を観ながら毎晩のように語り合った仲です。転校してきたのですが最初からとても気が合い、お互いにタイプも異なることもありとても尊敬していました。

音楽が好きでアコースティックギターを弾き、また工作が好きで半田鏝を使い近くのパチンコ屋さんの廃材で色々なものをつくっていました。他にもパソコンが得意でプログラムなどもかいていました。私はどちらかというと野生児のように自然派でしたからとても理知的で新鮮でした。

中学では同じ部活に入り、レギュラーを競いバンドを組んでは一緒にライブなどを行っていました。塾も一緒で成績でも競い、その御蔭で勉強もできるようになりました。思い返せば、尊敬しあい好敵手という関係だったように思います。

高校卒業後は、私は中国に留学し彼は岡山の大学に行きました。そして社会人になって一緒に起業をして今の会社を立ち上げる頃にまた合流しました。毎日、寝る時間を惜しみ休みもなく働き努力して会社を軌道に乗せました。私の右腕であり、苦楽を共にするパートナーでした。しかし、その後、お互いに頑張りすぎたり結婚をはじめ色々な新しいご縁が出てきてメンタルの不調や社員間の人間関係の問題、過去のトラウマや祖父母の死別など様々な理由が見事に重なり別れることになりました。

そこからは孤独に新たな道をそれぞれに歩むことになりました。もっとも辛い時に、お互いにそれぞれで乗り越えなければならないという苦しみは忘れることはありません。あれから20年ぶりにお互いの親友の通夜で再会してまた語り合うことができています。

離れてみて再会してわかることは、その空白の20年のことを何も知らないということです。当たり前のことを言っているように思いますが、その間にお互いに何があったのか、伝えようにも関係者や周囲がお互いの知らない人ばかりになっていてどこか他所の他人の話になります。私たちの知り合いは20年前に止まったままでその頃の人たちももうほとんど今ではあまり連絡を取っていません。

人のご縁というのは、一緒にいることで折り重なり記憶を共にするものです。同じ空間を持つ関係というのは、同じ記憶を綴り続けている関係ということです。喜怒哀楽、苦楽を共にするときお互いのことが理解しあい存在が深まるからです。

今では、親友は新しい家族を築き子どもたちも健やかで素敵な奥さんとも結ばれて仕合せそうでした。20年たって、一番嬉しかったのは彼が今、仕合せであることでした。

そう思うと、最も自分が望んでいるものが何かということに気づかされました。私が一番望むのは、私に出会った人たちがその後に仕合せになっていくことです。だからこそ、真心を籠めて一期一会に自分を尽力していきたいと思うのです。

いつまでも一緒にいる関係とは、仕合せを与えあう関係でありたいと思うことかもしれません。親友との再会は、心が安心し嬉しさで満たされました。苦労の末に掴んだ彼の仕合せに感謝と誇りに思いました。

善い一年のはじまりになりました、ご縁に心から感謝しています。

心の純度

人間には心があります。しかしその心がどうなっているのかを観察していると、心には純度というものがあることに気づきます。極端にいうと真心のままであるのか、心のように見えて実際には心無いことをしているのかというようにその人物が素直であるかとうかで心の純度は異なっているのです。

別の言い方に、純粋というものがあります。これもまた純度を表現する言葉で混じりけがないことや穢れのなさ、私利私欲や私心が入っていないなどともいいます。そもそも初心という言葉もあるように、人は最初は誰もが純粋な心のままです。赤ちゃんなども純粋です。

それが生きているうちに次第に計算高くなりあれこれと考えるようになります。考えているうちに打算や損得勘定や保身などあらゆるものが混じりこんできて次第に心が曇ってきます。心が曇っていることすらわからなくなってくると、あれこれと誰かの何かをする理由をいちいち考えては評価したり裏を読んだりと悧巧になってくるものです。

そうなると自然とは程遠い姿になり、不自然になっていきます。ある意味、文明というものはそういうものかもしれません。文明人になるというのは、心を誤魔化し利巧に生きていく術を手に入れた人ともいえます。

しかしそこから心の病というものが増えていきます。本心を誤魔化し、純度が失われていくと不自然が重なり病気になるのです。病気でも怖いものは、病気そのものであることがわからなくなることです。みんなが病気ならそれが健康だと思い違いするようなものです。

だからこそ最初の心をいつまでも失わないようにしていくことが大切になります。それが心の純度を保つことです。心はいつも目的に忠実です。何のために生きるのか、どう生きたいのかを常に忘れることはありません。忘れるのは、心ではない自分を生きているからです。

心は常に一心同体で離れずに自分と共にあります。純度が濁れば隠れてしまい、純度が磨かれていけばいつも表に出ています。真心の人たちはみんな心から行動し、そのあとに知識や知恵を活かします。それが文化人というものであり、伝承され続けてきた自然循環の叡智だと思います。

子々孫々のために、何を渡していけるのか。これは今の世代を生きる人たちに託された一世一代の大事業です。大事業こそ心の純度が求められます。

真摯に初心を忘れずに、歩みを強めていきたいと思います。

2024のテーマ

明けましておめでとうございます。これを新年のご挨拶でしますがこの意味は、神道では冬至に太陽が天の岩戸にお籠もりになって、新年に岩戸をあけてお出ましになることから来ている言葉です。

昨年は、暮らしフルネスの冬至祭で日の入りを仲間や友人たちと一緒に拝みました。太陽がお隠れになる時間帯にみんなで祈り感謝で拝みました。そして翌日に、また新たに太陽と共にある一年一生がはじまります。この年のはじまりに、みんなで一年のテーマや目標を語り合いおめでとうございますを言い合って予祝をしました。

とても思い出深い時間だったのを思い出します。

現代の私たちはカレンダーやスケジュールで物事を動かしていきます。人間の都合で、より都合が強い方がスケジュールも掌握します。権力者や権威者が優先されるのがスケジュールです。しかし、私たちの先祖はずっとむかしから太陽や月、星々や地球など宇宙を軸に循環に合わせて暮らしをしてきました。朝夕に太陽を拝み、夜は月や星々を拝む、そして地球の脈動と共に休みます。

暮らしというのは、人間だけではなくそれを含むもっと偉大な存在と一緒に在るようにいのちを運んでいきました。

私たちにとっての「新しい」という言葉は、甦生のことです。私は、甦生家を名乗り様々なものを甦生させていますが本来はこれは新しくするという意味です。古いものを磨いて新しくする。それが私の使命の一つです。

古いものというのはこの世にはなくなりません。どんなものも時が過ぎるのだから古くなります。それは自分にも言えるものです。この古いものを新しくするというのは、挑戦することであり捨てることであり、決断することです。そのためには、対話をしていく必要があります。これはいのちの対話です。

昨年のテーマは「いのちを磨く」でした。色々と削り落としていく一年だったと思います。本年は、「いのちとの対話」の一年にしていきたいと思います。これは、今まで以上に無理をせず静けさを守りたいという意志からです。

英彦山の守静坊を甦生してから、宿坊で静けさとは何かということを学び直しています。静けさは、呼吸であり対話です。

引き続き、1000年後の未来の子孫たちに本来の仕合せが伝承できるように心を鏡のように澄ませた日々の精進を愉快痛快に楽しでいきたいと思います。