手前味噌

昨日は、暮らしフルネス™の実践講習会の直会で味噌鍋を一緒に食べました。味噌は友人の味噌とうちの手前味噌を合わせて竈で炭で煮込んだものです。かなりの量を用意したのですがみんな何度もおかわりをしてくださった御蔭で全部きれいになくなりました。

この味噌は、7年間継ぎ足しながら拵えた手前味噌です。この手前味噌という言葉は、その家で醸し出した味噌の味という意味です。つまりは、その家の味ともいえます。

手前味噌ですがというのは、その家の味をお披露目しているということでもあります。

先日、味噌で聞いたお話で印象的なものがありました。それは同じ材料で同じ時期にみんなで作っても一年後に持参して試食するとみんな味が違っているというのです。それだけ、場所や気候をはじめその環境や作る人の個性が味に影響が出るということでしょう。それに味噌は、人の声が聞こえるところに置いた方が発酵するといわれていたり、囲炉裏の周りもいい、またその灰も餌になるといわれます。またその菌の家は、木樽がいいとも言います。うちは、どの漬物の樽も木樽ですからその木樽に菌が住んでくれていますからもう長いこと一緒に生活しながらお互いに餌を与えあって共生関係を結んでいます。

こうやって人間の暮らしの傍で、菌たちも一緒に暮らしています。古い家には、それだけ古い菌がいるともいわれます。それだけ長い時間、一緒に暮らしを営んだきた菌は、自分たちの先祖とも一緒に暮らしてきたということでもあります。先祖が結ばれ、子孫も結ばれ、今でも一緒に暮らしを共にしているということの安心感は特別なものです。

うちの手前味噌の感想は、みんなコクあるという評価でした。年季が入っているからかもしれませんが、この「コク」があるという言葉は、「複雑な味わいがある」という意味で定義されています。何かが積み重なった味わいがあるということでしょう。

人間は味覚を通して、その積み重なったものを感じることができるということです。複雑な味わいは、その積み重なったものの深い味わいであり、年季が入った数々の実践が味わいの中に醸し出しているのかもしれません。

人間も、様々な艱難辛苦を通して味わい深い人になっていくといいます。人格を磨き、人生の味わいが深まれば深まるほどにその人にしかない複雑な人間力が醸し出されます。味噌を通して、そうありたいと願うばかりです。

手前味噌の話はここまでですが、みんなでその家の味を守れるように、先祖たちの祈りや願いが伝承できるように日本の子どもたちにコクのある伝統を守っていきたいと思います。

真の豊かさを味わう場

本日は、場の道場で暮らしフルネス™の「室礼」の講習会を実施します。これは8年前から弊社の役員の一人が中心になって取り組みはじめ、今では暮らしの中で定着している実践の一つです。最初は東京の新宿の高層ビルと自宅のマンションではじめましたが、現在は古民家の御蔭で前よりも自然に豊かに室礼を取り入れています。

はじめに弊社で取り組んだときは、西洋的な建物でビジネスをするためのオフィスに自然なものを取り入れたいということで植物をはじめ日本の伝統のものを増やしていきました。例えば、炭であったり、和紙であったり、花器であったり藍染の敷物やイグサのゴザなど、和のものを中心に増やしていきました。そしてできるだけ、自然光や季節を感じるようにとお昼は団欒できるようにちゃぶ台を用意し、伝統の保存食、発酵食品などを持ち合い、時にはみんなでつくり、音楽も和楽器のもの流したりしていました。

そうやって忙しい時にも豊かさを失わないようにと、みんなで心がけ、保育の仕事をしているからこそ私たちは子どもたちが憧れるような大人のモデルになろうとみんなで都会の環境の中でも自分たちの在りたい姿に向かって挑戦をしてきました。

私たちは今では「暮らしフルネス」™を提唱していますが、その暮らしの柱の一つを深く支えてくれたこの「室礼」だったようにも今では思います。

この室礼は、四季折々の年中行事を通して先人たちの積み重ねてきた精神性を深く学ぶ大切な伝承の機会でもあります。私たちはどのようにこの風土で暮らしてきたのか、それを自然に心の豊かさを通して自然から学びます。それは代々、先人から子孫へ、大人から子どもへと譲渡されていきます。

つまり暮らしの中で行う、大切な保育そのものでありこれが私たちの民族を育ててきた一つの心の教育であったことは自明の理です。現代では、精神疾患をはじめ痛ましい事件が増えて殺伐とした場が増えてきています。日々の報道でも、人間のよくないところばかりをフォーカスし、本来の人間に備わっている徳や心の豊かさがあまり表に出てきていません。それだけみんな忙しくなってしまっているのだと思います。

しかし私のところには、癒しやつながり、そして仕合せの原点を求めて多くの人たちが集まってくるようになってきました。これは本来の豊かに生きるということを願い、子どもたちにも大切な日本の心を残したいという志のある仲間が増えているからだとも思います。

人生は一度きりです、どう生きるのかはその生き方が決めています。何か大切なことを思い出す節目、つまり年中行事があることで私たちはその初心を思い出して生き方を磨いて光らせていきました。

いぶし銀のように磨かれるのは、この節目をどう過ごしてきたかということでしょう。コロナ後にどう生きたらいいか、どう進めばいいかを悩んでいる人がたくさんいるとお聞きします。一度、ここに来てもらいその豊かさの本質を実感して子どもたちに日本の真心を弘めていけるようにみんなで一緒に「真の豊かさの実践を味わう場」を増やしていきたいと思います。

地域の目覚め

明治時代以降、税金で国家の問題を解決するという仕組みが入る前は人々はみんなで義援や奉仕、寄贈などの協力によって物事を解決してきました。例えば、その地域地域の伝承を調べてみたら川の氾濫を止めるために堤防を築いたり、石橋をつくったり、そのほかにも津波の対策をするために松を植えたりと、その土地の庄屋を中心に、地域の有徳の士がそれぞれの場所で協力して地域の課題を解決してきたことがわかります。

現代は、行政や国家の問題になっていますからほとんどが市役所にクレームを入れて解決しようとします。その市役所も、資金と人手不足から全部にこたえることはできませんから課題が山積みのままに素通りするしかない状態も増えてきています。

本来は、市民がみんなで協力し合って課題を解決すればそれはその土地への愛着や取り組んだことへの誇りもうまれ、その地域はますます課題を通して善い土地へと変化していくものです。しかし、この税金を払っているのだからやるのは当然のような感覚や、歪な作業分担などの意識から一切自分たちでやろうとはせず、また行政側も面倒なことを言われないように責任を被らないようにとあの手この手で避けているから悪循環が続いているのです。

クレームを言い合い、さらにそれを規制でコントロールする。こういうことをしているからかえって柔軟性がなくなりお互いに寛容な気持ちが薄れて動きずらくなりつまらなくなっていく。近代の日本のとってきたこの税の仕組みをそろそろ見直す必要を感じます。少子高齢化で人口減になっているからこそ、このままの仕組みではどうにもできなくなります。

江戸時代前の仕組みをもう一度よく検証して、そのころにどのように人々が協力して支えあって相互扶助の仕組みを働かせていたか。徳治によって、地域を見守ってきた有徳の士の背中をまた教育によって思い出させ、一人一人の自立を促すことが近道だと私は思います。

ある意味での投資や奉仕、寄付や寄贈、義捐は、まわりまわって大きな利益になっていくものです。つまり徳は得にもなり、損は徳で得になるのです。長い目でみてその事例が発生することを学び直すことで地域の目覚めも進むとおもいます。

身近なところ、弱いところ、小さなところから改善していきたいと思います。

義徳金

義捐金という言葉がります。震災などでみんなが寄付して集めつときにこの義捐金という言葉が使われます。なぜわざわざ「損」という字を用いるのか、疑問に思っていたので少しだけ深めてみようと思います。

この義捐をウィキペディアで調べると『「義捐」(ぎえん)は明治時代に作られた和製漢語である。「義」は、正しい行い、もしくは公共のために力を尽くすことを意味し、「捐」は、捨てる、捨て去るの意である。すなわち「義捐金」は、正しい行いのため、公共のために捨てる金を意味する(イスラームにおける喜捨相当)。戦後の国語改革で「捐」が当用漢字に採用されなかったため、「義えん金」と混ぜ書き表記した。現在はほとんどのメディアで「義援金」という表記が見られるが、これは新聞協会による独自の基準で定めた代用表記である』とあります。

また参考にされるのが夏目漱石の「吾輩は猫である」の中の「義捐」という言葉です。そこにはこう使われます。

「主人(苦沙弥先生)は黙読一過の後、直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義捐金を二円とか三円とか出してから、逢う人毎ごとに義捐をとられた、とられたと吹聴しているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極まっている。」

義捐とは、差し出すものという意味になる。現在の義援は、援けるという字が使われるのは自分の方が援ける側であるという自覚で義援するものです。しかし、少し前までは自分が損をするということを義捐とします。これは結構、感覚が異なるのは想像してみればわかります。

義援は援助できるところまでに対し、義捐は損ができるところまでということ。この援けるという字と損するという字、意味が完全に異なっています。

私はこの「損」をするという字は、悪い意味に思っていません。みんなで損をする、言い換えれば「徳」を積もうということになるからです。それを言い換えれば、義徳金ともいえます。

損をするというのは、自分の大切なものを差し出していくことです。現代は、得に対しての損といった相対的な損になっていて、みんな損はしたくないと思うようになりました。損することがもっともよくないことのようにも語られ、正直者が損をするとまでいいます。

しかし果たしてそうでしょうか。

本来は、損をすることは徳になります。まずは自分から損をして徳を選んでいく生き方、本来の子孫たちへのよりよい社会のために自分から損を選んででも徳を積んでいくような生き方。そういう義徳がこれから必要だと私は思うのです。

義徳金というものを、これから徳積ではじめようと思っています。

みんなが損をする覚悟で、世の中のために徳を積むのならきっと未来の子孫たちに偉大な財産を譲れます。まさに、情けは人のためならずのことわざ通りに必ず巡り巡ってその損は自分や家族に還ってくるからです。

改めて、この時代の価値観を毀すような実践を楽しんでいきたいと思います。

いのちの暮らし

現代は、物質文明でモノ化している世の中ですからなかなかいのちのようなものを重んじる風潮が失われてきつつあるように思います。苦しいことを避け、便利なものばかりに飛びつくのもまたこのモノ化する文明の価値観が拡大していくからでもあります。

なんでもモノにしてしまえば、いのちへの配慮なく便利なもののために壊してよくなっていきます。壊しては失われてしまうものも、仕方がないとモノ化を優先すればそのうち自分たちのいのちもまたモノ化されていくように思います。

そうならないように、日々の暮らしを整えいのちに感謝していくような不便さを楽しむ力が必要になります。

そもそも不便や苦労というものは悪いものではありません。苦労は実は楽しいもので、修行も同様にそれをやること自体に喜びがあり仕合せがあるものです。なんだか今の時代はそれは変人のようにいわれますが、むかしの時代の修行はただ苦しいのではなくその苦しみの中に深い喜びを感じていたのがわかります。楽に傾いている価値観の中では、苦はよくないことになっています。この苦の意味がそもそも違っているからそうなるのです。もともと苦楽は同じですから、苦も楽もどちらも仕合せの種になっているのです。

その仕合せの種をどう味わい育てていくのか、その育て方こそが暮らしなのです。

暮らしを充実させていくというのは、好奇心を失わない生き方を優先し、いのちを大切に物を活かすということでもあります。

そういう生き方をしている人は、日々を暮らしの実践道場として日々に新たに物事を丁寧に紡ぎ取り組んでいきます。その取り組みは、仕合せの種まきともいえるでしょう。

生まれてきて死ぬまで私たちはいのちがあります。

いのちを最期まで大切にすることは、最期までいのちを実践することです。いのちの実践は、いのちがあることを忘れないでいのちだと思って生活をし続けることです。つまり古来からある日本の伝統的な暮らしを大切にしていくことです。

子どもたちのロールモデルになるような生き方を伝承していきたいと思います。

 

新たな施浴伝説

歴史というのは、普遍的な私たちの先生です。困難な時こそ、今にあたふたするのではなくもう一度歴史に学び、今を考察していく必要があると思います。

今から1300年前、聖武天皇が治めた奈良時代に天平文化というものが花開きました。この時代は地震や疫病の大流行ありました。天然痘と思われる疫病では総人口の3割前後が死亡したとも言われています。

この疫病は権力者や貴族であろうが関係なく広がり、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)も病死しています。この時代は、地震や疫病から飢饉にまで発展しどうにもならないことが続きます。

だからこそ聖武天皇は仏教の力をかりて国分寺や国分尼寺を各地に作らせその総本山の東大寺と法華寺を建て大仏を建立したといいます。

先日、大三元大師のこともブログで書きましたがもともと節分の豆まきもここのとき宮中で行われた疫病を持ち込む鬼を国外に追い払う追儺に起源があるといわれます。感染症と地震は連動していて、今こそもう一度、歴史に学ぶ必要があるのです。

私が建立した原点サウナでもある、祐徳大湯殿サウナはこの時代の歴史も参考にしています。かつて古くから入浴と仏教には密接な関係があり入浴の起源は、仏像を湯で洗い浄めたことに始まるとされます。この時代、施浴といいお寺では寺僧の入浴後、近隣の人々に寺の風呂を無料で開放していたといいます。この施浴にまつわる伝説で有名なものが「光明皇后の千人施浴」です。

この光明皇后(701年から760年)は日本の第45代天皇・聖武天皇の皇后です。この光明皇后も天然痘で3人の兄を亡くしその生家である藤原不比等の邸を寄進し、その跡地に奈良に法華寺を建立して兄たちの菩提を弔います。

仏教への信仰心も篤く、社会のためにと真心を尽くしていた皇后がある日夢で仏のお告げを聞きます。そこで法華寺の施浴を建立し、千人の垢を洗い流す誓いをたてるのです。

そしてその千人目に現れた者は、肉がただれて血膿が噴き出たらい病の人でした。しかし皇后は自らその者の体を洗い、乞われるままに流れ出る膿まで吸い取ってやります。すると浴堂に紫雲が立ち込め、患者は瑞光に満ちた金色の仏に化身して「我れは阿閑(あしゅく)仏なり」と言葉を残して消えたといいます。

これはその後、ずっと人々の間で口伝で伝承されていて時代を超えて今でも人々の心に響くものがあります。世界ではマザーテレサなども同様に、深く人々の心を救おうとし真摯に手当てしてきた生き方が感じられます。

またこの光明皇后は千人の施浴の際、信仰の深い3人の女官に手助けをしてもらっていたといいます。そのこの女官のことを「典侍(ないしのすけ)」といって人々は3人を三典(さんすけ)と呼びました。これが銭湯で風呂を焚き、浴客の体を洗う男衆の呼び名である「三助」の由来となったといわれています。

つまり「施浴」を手伝い、人々の心の穢れや体の汚れ、ありとあらゆる苦難を癒そうと日本の石風呂(蒸し風呂サウナ)を活用したのです。

今の時代に似ているものを感じ、ここに共通の信仰の源泉を私は感じます。大げさかもしれませんが、私もこの祐徳大湯殿を建立する際に誓いを立てています。その誓いに恥じないように、歴史に学びこの時代に相応しい新たな伝説をはじめていきたいと思います。

精進潔斎の暮らし

例大祭の準備を兼ねて、精進潔斎を行っています。これは肉類を食べず、酒を飲まずに心と体を清めることをいい、「精進」は肉類や酒を飲まずに、心と体を清めて修行すること。そして「潔斎」は不浄なものを避けて、心と体を清らかな状態に保つことと言われます。

語源辞典によれば「潔」という字は、潔白や潔いなど、「 流れる 水 」の象形と「 刀で切り刻む 象形・より 糸 の象形 」 (「 罪・けがれを取り除く為、刀で刻み、糸を結んで 清める 」の意味)から出来た字です。斎は、会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」とあります。書斎や斎食なとどもいい、物忌みの意味もあります。この物忌み(ものいみ)はある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けることといいます。

神社本庁によれば、「斎戒に関する規定」として大祭、中祭は当日および前日、小祭は当日斎戒するものと定めている。斎戒中は、「潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならない」とあります。

祭祀に合わせて身を慎み神様と一心同体になるように心を整えていくことのように思います。もともと神道には依り代という思想もあり、神様が器に宿ります。その宿るものを清浄に保つことで、その宿る魂を穢さないということでしょう。

そのためには不純物を入れないようにする、言い換えれば「透明」にしていくということです。この透明とは、「いのち」のままでいる、「魂」のままであるという状態に近づけるということです。

私たちは日々の暮らしの中で様々な穢れ、雑念と共に生きています。それをどう祓い、清らかで素直な落ち着いた心で日々に真心で接していくことができるかはその精進や修行によります。

こういう例大祭などの機会があることで、それに意識を合わせて神様の状態に近づいていくことが暮らしの醍醐味でもあります。丁寧に、明日の例大祭の準備を丹誠を籠めて取り掛かっていきたいと思います。

道は一つ

ミッション(理念)とは生き方の事です。どのような生き方をするか、それを保つためにどのような経営をするか、理念経営とは、理念が優先であってそれに合わせて経営を工夫するということです。

よく経営を優先して理念があとでという事例を見ますが、これは理念経営ではないことはわかります。本来、何のためにやるのかが本であり、末にどのようにやるのかが決まります。本末が転倒してしまわないように、常に初心を振り返りどのように取り組んでいくのかをみんなで真摯に実践していくしかありません。

そしてそのミッション(理念)を砥石に、振り返りながら磨いていくことで生き方を高め生き様を伝道していくことができます。そうすることで、一つの組織がまるで生きもののように生き様を共にする人たちによって人格のような姿が現われてくるのです。

稲盛和夫さんはこういいます。

「リーダーの行為、態度、姿勢は、それが善であれ悪であれ、本人一人にとどまらず、集団全体に野火のように拡散する。集団、それはリーダーを映す鏡なのである。」

つまりリーダーの生き方、またその生き方を共にするスタッフたちがミッション(理念)を共有し生き方を実践すれば企業に格(社格)ができるというのです。

さらに稲盛さんは、「人を治めるには、権力で押さえつける「覇道」と仁、義などの「徳」で治める「王道」とがあります。私は、やはり人間性、人間の徳をもって相手の信頼と尊敬を勝ち取り、人を治めていかなければならないと思っています。」といいます。

もしも覇道になれば、ミッション(理念)を凶器のように使われて権力の一つの道具になります。しかしもしも、このミッション(理念)が徳で使われるのならスタッフが自分たちの魂を磨き、人格を高めるお守りのようになります。

私は後者のためにミッション(理念)を使っているのであり、私の提案する仕組み(智慧)は自然に徳が穏やかに沁み込んでいくように日々の内省を通して自己の精神性を洗い清め高め合いながら自立と協力を促していくようにしているのです。

それはミッションページやミッションリーフレットなど、ミッションとつく物はすべてこの「徳」による王道の智慧を活用したものです。

まずは自己の脚下の実践からということで、弊社ではミッションブログに始まり、内省、一円対話、讃給などあらゆる仕組みを実証しています。

覇道でいくのか王道でいくのかと対比されますが、本来の道は一つです。

人類は魂をどう磨くか、磨き方は自然から学び直すことが一番です。自然の徳に包まれ見守られて生きている私たちのいのちだからこそ、その徳に報いていきたいと思います。

ご縁が解ける

仏(ほとけ)という言葉があります。この語源を調べると、それぞれの辞書で内容は異なりますがブリタニカ国際大百科事典には「仏陀のこと。語源は,煩悩の結び目をほどくという意味から名付けられた,あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに,ほとほりけ,すなわち熱病が流行したためにこの名があるともいわれる。日本では,死者を「ほとけ」と呼ぶ場合もある。」とあります。

シンプルに言えば、執着を取り除いた姿が仏(ほとけ)の象徴とされたように思います。強く握りしめていたこうでなければならないというものを、手放し融通無碍に来たものの全てを受け容れて受け止めるときこの仏(ほとけ)に近づいていくということかもしれません。

小林正観さんの著書にこの仏(ほとけ)についてわかりやすい内容で紹介されています。

『執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、日本語では「ほとけ」と呼びました。それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。執着というのは、「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことです。それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。そうなるといいなあ」「そうなると楽しいな」「そうなると幸せだな」と思う。「こうでなきゃイヤだ」と思ったときに、それが執着になります』(だいわ文庫)

想いの強さは時として、それが執着になっていきます。情熱がありすぎると正義を振りかざしたり、自信がありすぎると思いやりに欠け過信にもなります。なんでも片方に過ぎることが時として調和を崩すことがあり、その都度、自己の執着を手放すようにと何か偉大な存在に見守られながら諭されていきます。

人生は誰もが一生涯修行であり、どんなときにも自分の中にある執着と対話してそれを手放すという修練が求められていきます。その中で、人は深いご縁ほどにつながりもまた深くなります。

一つ一つのご縁の中では、誤解もあれば了解もあります。しかしそのどちらも、いつの日か時が経てば解けていき真実が顕現していきます。未熟だった自分を反省し、改善していくことで人はさらに成長していきます。そういうご縁をいただいていること自体が感謝そのものであり、深くご縁に見守られていることを実感します。

子どもたちが憧れるような未来を遺していくためにも、今を直視して日々に弛まずに怠けずに逞しく嫋やかに実践し、思いやりを忘れず優しい心で歩を進めていきたいと思います。

結の甦生

藁葺のことを深めていると、むかしの相互扶助の共同体の「結」のことにつながります。今では金銭でなんでも解決するような生活になってきていますが、むかしは貸し借りを金銭ではないもの、つまりはお互いの義理人情のようなもので支え合っていました。

もちろん、今でも義理人情はありますがむかしは見返りを求めずに助け合うという根底には「徳」というものの考え方によって人々が助け合い支え合うという土着文化がその地域を安定させていたとも言えます。

例えば、先日の藁葺でもみんなに声をかけて集まってもらい集まった人たちで助け合いながら藁葺職人たちと一緒に屋根を修繕していきました。懐かしさを感じるのは、こうやって金銭ではなくみんなで助け合い支え合うところに暮らしの原点があるということです。

中部地方の合掌造りの茅葺屋根の葺き替えは「結」の制度があり、ウィキペディアによると今でも下記のような手順で藁葺を進めているようです。

「作業の3年以上前から準備が始まる。屋根の面積から必要な茅の量と人員を概算する。作業の日取りを決め、集落を回り葺き替えをいついつ行うので手伝って欲しいと依頼する。予め作業に必要なだけの茅を刈って保存しておく(そのための「茅場」を確保してある)。役割分担を決める(茅を集める者、運ぶ者、茅を選別する者、縄などその他道具を準備する者など)。上記は専ら男性の作業である。女性は作業に従事した者達への食事、休息時の菓子、完成祝いの手土産の準備を行う。屋根の両面を同時に吹き替えることはほとんど無く、片面のみを2日間で仕上げる。1日あたり200人から300人の人手が必要となる。100人以上が屋根に登るさまは壮観である。」

金銭であれば1000万以上かかるものを、無報酬で協力し合って村人たちで行われているといいます。

以前、この「結」のことである方に聴いたことがあるのは「むかしの人は自分が受けた恩義をいつまでもお互いに忘れない、それが先祖代々、「結帳」に記入してあれば子孫の代になっても口伝、もしくは記録しいつまでもその人たちのことを協力するという考え方があったことです。恩義を中心にして、無条件でお互いに支え合うというのは「徳」のつながりのことであり、私が取り組むブロックチェーンの概念と同様です。

貸し借りとは、金銭的なものだけを言うのではありません。等価交換できないもの、それもまた恩義でありそれは生き方が決めるものです。感謝し合う人格が磨かれた地域であれば、その地域の文化はみんなで恩義の質量を高めていくことができます。

つまりは徳を中心にした思想によって、相互扶助の豊かさを実現していくことができるのです。この豊かさといういうものは、現代のような物質的な豊かさではないことはすぐにわかります。

これはまさに人がこの世で安心して暮らしていくために絶対不可欠な安心基地を持つ豊かさの事です。そして見守り合い徳を分け合う暮らしは子孫たちの安心にもなり、先祖たちもその繋がりに恥じないよう、またいつでも顔向けできるようにと協力を惜しまずに恩送りをするのです。

等価交換できないものを持つというのは、心で繋がり深く結ばれていくということです。これが和の原点であり、結の意味でしょう。

「結」の甦生は、これからの時代の新しい真の豊かさにおいてかけがえのない大切な実践項目です。むかしの豊かさから学び直し、原点回帰していくことで日本人の甦生、日本の甦生、そして世界の甦生を促していきます。

これは現代を全否定するのではなく、あくまで原点回帰して本物や善いものは持続しながら文明を調和させていくということです。ブロックチェーンで私が取り組むことはこの新しい豊かさの甦生です。

引き続き、子どもたちのために志を磨いて挑戦をしていきたいと思います。