師友

自然の動物たちはに懸命に自らの本性を知りその天命に沿って生きる。しかし人間はなぜ生まれてきたのか、どこへ向うのかを考えていると自然に道が現れてくる。

志は、その自らを知りどのように生きていくのかその自分自身の本性を知りそれをどう周囲に及ぼし活かしていくかによる。

そして本性には自分に備わった才能と個性がありそれを使うためにも学問を行い道を歩む。

そのそれぞれの孤高孤独の自分だけの命道に立つ中で味わい深くその旅路が豊かで幸福になるのに道を同じくする師友の存在ある。

その都度にお互いに切磋琢磨し、感動し合い、励まし合い、それぞれ道を歩む。
一人孤独に歩む中でも、人は一期一会に人生のパートナーに出逢う。

そしてそれぞれが自らを敬い慎む関係において人は幸せを感じ充実した人生を送ることができるのだろうと思う。

しかし、だからといってそれが欲しいと孤独を嫌がりすぐにメンターや師匠などを求めていく人がいる。
また、一人では怖いから不安だからと友を欲しがり友ばかりを求めていくものもいる。

中江藤樹にこう書かれているものがある。

「師友の御願御尤もにて、学者たるものの願う所にて候。さり乍ら道を行うに至っては、自己心上勇猛心之務めにして、師友の力をかるものにては御座なく候。」

(師や友を求める願いは、ごもっともであり、聖賢の学問を学ぶものなら誰でもそれは欲しいものです。しかしながら、聖賢の道を行うことに至っては、自分自身の勇猛心をかきたてるもので、師や友のちからを借りるものではございません。)

道は自ら自分の脚で歩むべきであって誰かに歩ませてもらうものではない。
自分の道は自分の脚で切り開くからこそ意味があり、どんな状況でも自ら勇猛心を奮い立たせて自ら道を切り開く、それが「独立自尊」することに繋がっている。

カグヤでも理念ブックの中に独立自尊がある。
これは、別に単に一人で孤独になれというわけではない。

人は、誰にも頼らず志のために必死で自分の力で自分の手足で歩むとき、自分の力がはじめて発揮される。

その発揮する自分の命の力強さで生きているときこそ「自らが立った」つまりは「自立」しているということになる。

最初から誰かの力をあてにしていては、誰もそういう人に力は貸さない。
自分が自らで必死で歩いているからこそ、本当に辛く苦しい時に見守ってくれている存在に気づくことができる。

見守られるには、あるがままで真剣に努力していなければ見守りにならない。
だからこそ、自分が見守られているのなら真剣に本気で遣り切ることがあるがまでいるということになる。

あるがままでいれば、必ずその人の周りもあるがままに接してくれる。
その相互扶助の協力協働であることが良いチームワークを引き立てていく。

この世に自分が居られるのは、周囲が自分を活かしてくれるから生きられる。
大きな愛に包まれて、様々なものを食べて、呼吸し、循環し、自分が生きられる。

その感謝があるからこそ、自らの勇猛心で自立していき周囲に応えていくことが必要だと私は思う。

ただ単に感謝しているから、またお願いしますではなく、感謝しているからこそ、自分の力で社会や会社や周囲の人たちのために生きていくということが恩を循環することに繋がる。

私は以前、恩樹という言葉が好きでよく使ったけれど、それはそういう意味で、そのたくさんの人たちや周囲からのその恩を自らの恩送りや恩返しで循環する中で次第に養分を吸って大きな樹になり、それがさらに周囲の森を活かしていくという意味で使っていた。

これからも、まず自らが恩樹になり、その一本立てた思いを周囲に及ぼしながら自らは勇猛心を以て力強く歩んでいきたいと願う。

師友に感謝し、さらに随神の道に磨きを懸けて本性を尽くしていきたい。

自立する組織

コンサルティングを行っていると色々な組織の問題を見つめることがある。

よくできるすごい人といわれる人がある。

その人は責任を一人で背負い、完全を目指し、それを自分のモチベーションへ転換し努力してそれ相応の力を組織へ発揮していて周りらすごい上司やできる人として尊敬されている。

その人は一見、何でもできるように見せるけれどよくその人と話をしてみると自分の弱点の克服ばかりをいつも見つめてそれを責めて自分を発奮し、自分の価値は完全なければ意味がないと必死に職責を果たすことばかりを目指そうとしている感じがある。

でもよく組織全体でものを観るとそうやってその人が自分が完全であろうとすればするほど、自分の価値が高まっていると勘違いし、自分の形に周囲をはめようとしてしまうことでより周囲をマニュアル的にしたり指示待ちになりみんなの力を阻害しかえって進化成長していかなくなる事が多い。

そういう人は、部下や社員の話を聴いているよと言っているようで実はまったく聴いてはいない。
なぜなら、その人のやりたいのは最後はその人のもっている形にあわせさせることを目的にしかしていないからだ。

もしその人の形が最高とするならば、みんなついていく人たちはその人の形にあわせてもらうことを最高の目的に仕事をするようになる。

たとえば、自分のやりたいことよりも、結局はその人の言う形に最後はなってさえいればうまくいったと言われるし、そんな気もするから自分から勇気をもって失敗したりするよりもその人の形であることを望むようになる。

そうなると、自分のあるがままが認められて貢献できたという真の自信も自分も持てず、ずっとその「できる人のいう形」でいることが最高でそれが評価だと勘違いしてしまうことがある。

その人のできる形にあわせた人がとても自分の個性を発揮する人とは思えない。
その人そのもののあるがままの姿が光るから、皆の力を引き出し一丸となることができると言うのは私の組織における考え方。

これは保育でもそうだけれど、子どもたちの遣りたいことをまるごと認めていかなければその子らしさが光らない。光るには子どもたち自身が、方針やその目的を何かにより理解する、できない場合は環境を用意するなどで安心して自立できるようにしてくようにすることだと思う。

私も師匠と仕事をする中で、いつも色々なことを確かめている。

そこで確かめているのは、方針、方向性とどこまでが自由なのかという範囲の確認、つまりは自分の役割と責任などの権限範囲の確認などであることが多い。

「こういうことをやりたいのですが、よろしいでしょうか?」

と質問したとしてもそれが上司の持っている形を探ろうとするのと、自分の役割と責任を確かめているのでは同じ言葉でも全くその意味は異なる。

当然、探っているばかりをやっているとそれからズレテいないことばかりが気になるようになり動きが委縮ししてしまう、そうなると新しく創意工夫して自由に自分らしく失敗したり成功したりして生産性を上げていくことはできない。

しかし、もし自分の役割と責任が正しく確かめ理解できていれば上司と同じ問題意識と危機感で一緒に進めることができるようになる。なぜなら、求めていることは形ではなく方向性や将来のあるべきようであることを知れば発想が無限に豊かになり、そのために自分が成功したり失敗することは当然全体が成長し生産性が上がるためにも必要な糧だと思えるからだ。

日本の社会は、つい先生の持っている形にあわせて勉強をする機会が多い。
先生が求めたことに答えたらそれが評価される仕組みがある。

しかしそんなことで本当にいいのだろうか?
評価とは先生が最高で生徒がその枠内で行うことだろうか?

本来は決してそうではなく、先生とは全体の方針や方向性を子どもたちへ示し、その子のやりたいことをやれるように丸ごと認め支援していくことが将来本人が自立して社会のお役に立てそのことで満たされ幸せになれる生きていく力を手に入れることにならないだろうか。

だからこそ先生は学び続け向き合い続け、今、世界で起きている問題を良く洞察しその中から根本にあったような自然のように静かに調和されるように歪んだところを本人たちに伝えて考えてもらうようなキッカケなども与えていくのだと思う。

人間を信じて認めることなしに、安心できる社会ができるはずがない。

話を組織論へ戻すと自立や自分がない状態で完璧主義の人や上司についていると形を探るようになるから、上司も部下もそこを正すことだ。

上司は、探らせるのをやめさせ方針やビジョン、権限の範囲を伝えること。また部下は探るのではなく、自分の役割と責任の範囲、方針を理解しどこまで良いのか悪いのかを知ることだと思う。

気をつけることは役割と責任と権限の範囲を知らず、ただその人らしくといってもそれは単に無責任に自分勝手にやればいいということではない。

そこに上司の方針を正しく把握し、どこまで権限があるかを自覚できてはじめて自由に自分らしくいることができるということを知ること。

子どものことを思うと、そういう完璧主義な人がクラス担任になるといつも子どもたちを自分の形にはめようと躍起になってしまう。そうすると気になる子や配慮児はいつも自分らしくいることができなくなり抑圧され苦しむことになる。

もともと人間は色々な人いるし、短所があるから長所があるのだからそのものの存在を認めていくことがなければ長所が引き出されなくなる。

短所ばかりの組織にするには完璧主義に管理すること、しかし長所ばかりの組織にするには見守りあるがままでいることを選択することだと私は思う。

私はカグヤの組織を使って保育を表現し、より多くの先生方に勇気を与える存在になっていきたい。