悉有仏性の学び

人生の上で、如何に素直にいるかというのは人間関係には絶対に必要なことであろうとも思う。素直でなければ、本質的に誰とも本当の信頼関係も共生関係も共同生活も築き上げることはできない。

よく愛されていないから自分は不幸せだといつも相手や誰かのせいにして被害妄想になっている人もいるけれど本当は人は愛しているから幸せなのである。自分が愛している人ほど人に愛され、愛しているからいつも幸せになるのである。愛されたいことばかりを願うからいつも愛されないと思っているのであり、それは足るを知る心がないから自分自身ががいつまでも不幸だと思い込んでいるだけなのである。

愛される人は、自分からいつも愛しているからいつもいつまでも幸せなのである。
同じく、素直な人は自分がいつも正直でいるからいつまでも成長し続けるのである。

そこが勘違いがある人は、矢印の方向が外側に向いていてどんな時もまず相手からだと相手に矢印を向けるから素直になったり正直にならなかったりと計算して使い分けようとする。

そして感情的になって相手が素直ではないからや相手が愛そうとしないからとどこかで責任を相手に転嫁して自分から素直に感謝することがいつまでもできない。

実際は自分には充分すぎるくらいどれだけ自分が今、愛されているか、今まで愛されてきたかなどを気づくことは最後までない。

だから本質的に感謝することができないのである。

感謝している人はそういう満たされた心があるから素直に自分から今までの自分の心の態度を見直し感謝にまで高まり信じることができるからいつも周囲に心を開いているのである。具体的には相手が不愉快になっていないか、心地よくないか、周囲全体に悪い影響を与えていないか、心を開いて受け容れる態度で配慮しながら素直に自分を謙虚に変えていくからいつも一緒にいて居心地がいいのである。

これが素直ではないと、怒りや不満の自分の感情の殻に閉じこもって相手がそこに反応するのを永遠に待とうとするのである。つまりまだまだ満たされないぞと矢印をいつもの外側の相手になるのである。

悲しいことにそんなことをしても、相手は充分すぎる愛と真心で接してくれているのだから気づかない自分が間違っていたと気づけるかどうかなのである。

受け容れるという行為は、相手によって決めるのではなく丸ごとの自分自身の姿を自分が素直に受け容れ認めるかということである。色々な自分があることを正直に認められる自分がいてはじめて素直になったといえるのである。

まだまだ人間の学びは深淵で、生きていると様々な葛藤を通してすべてのものに仏性が存在することを感じることができないでいる。自分の浅はかな知識や分別が邪魔をして目に映る表面上の観念に囚われているようにも思う。

これからも修行を積んで、自然のままを受け容れる観念を学んでいきたい。

色々な人たちとのご縁と御蔭で楽しい旅路を歩めています、有難い機会に感謝しています。