価値を認める

昨日、もう一年間コンサルティングで関わり続けている園の全体研修を行った。

ここは「みんな違ってみんないい」という理念の下、子どもを見守る保育を実践する園でそれぞれが認め合い子どもを信じる環境を長い時間をかけて構築している園でもある。

一つの理念を掲げ、それぞれが実践を積んでいくことで一体感が生まれとても素晴らしい環境ができあがってくる。それぞれが素直に自分から改善し取り組んでいくことで、共に安心して自分を発揮していくことができるようになるというのは如何に組織が大義を優先する事が大事かということを感じることができる。

そういう絶対的な場所で一人一人が認め合うという行為は、まず今の自分のあるがままをどれだけ正しく受け容れることができるかということからはじまっている。

今の時代はとても苦しい生き方を強いられてきた人がとても多い、皆と同じようにできることで標準化されていく中で、周囲に評価されるのは如何にその人が全部できる質が高い完璧な人間であるかということが求められてきた。

学校でも全教科100点を目指され、平均化の中での最高点を取ることが良しとされるなど何が一つができればいいではなく、全部よくてはじめて褒められるといった完璧であることが良いというような緊張感さえも子どもの頃身近に感じていたものだ。落ちこぼれるというのは、こぼれるような教え方をしているからそうなるのだけなのに一向に自らを省みようとしないのは本質を考えるのをやめているかである。

何かのおかしなシステムを変えることは、勇気がいることである。しかしそれを変えなければよくないと思ったらそれを変えるのが大人の使命である。

社会に出ると、個人主義で能力主義での評価が蔓延し、全部できない人はできない人とチームで何かをするという協力を優先するよりも、個々で全部やらせるといった競争を優先する中で大量生産での品質管理といったグローバル経済のマネジメントに人間の育成も合わせてきたことがそういう環境を助長したのであろうとも思う。

しかし、そうやって育つ中でそれが個性だと周囲から勘違させられた人はできないということや完璧でないということを恐れるようになっている。そしてその完璧主義の苦しい生き方をその後もしなければならなくなったのである。

完璧を目指す人は全部良くなければ満足できないというようにどこか一部でも失敗したりどこか一か所でもうまくいかなければそれはダメということになる。いくら90点でも10点取れなかった方がよくなかったというように減点主義で自分を評価する考え方である。

自己肯定感が低いのも、自分を認められなくなるのもすべてにこの完璧を目指すという考え方そのものに間違いがあるからである。

もしもこれが加点主義であれば、今の自分の点数を今はこれで十分だと足るを知り受け容れることができる。そしてそこから、今はこれでいいのだと次への希望やここまでできるのだからといった自分のことを肯定的に捉えることができるようになる。

何でもそうだけれど、完璧などというものはこの世には存在しない。例えば、薄い透明なグラスは繊細で綺麗でも割れやすい、逆に土器などの厚く堅いものは重厚で長持ちするけれど地味であるように、どこかを伸ばせばどこかは引っ込むものであるように完全などはないのである。

そのジレンマは、受け容れるからみんな違ってみんないいになるのである。逆さに観ても、みんなでやるのだからみんなが違った方がいいのである。

自分の個性も同じく、何かが光っているということはそうではない部分もあるのである。その両面をそのままに丸ごと自らが受け容れるとき、自分というものが何のためにあるのか何ができるのか、何をしたいのか、どういう役割があるのかという本来の自分丸ごとの素晴らしさを実感することができるのである。

自分を認めるということは、つまり完璧主義を目指さない生き方をすることである。それは一切の何も否定せず、否定から入らず、すべてのことを全肯定的に観ることからはじまっているのである。

認める生き方とは、今のままでも十分だという自他を丸ごとで思いやり慈しみ受け容れることを大切にしようといった自然の姿が一番美しいと実感して歩む方法である。

それは自分の偏り曇ったメガネを通して美しいものを観ないことなのである。

今の自分を受け容れ、そして周囲を受け容れ、御互いを活かし合っていこうとする中に穏やかで安らかな調和が存在する。

色々な刷り込みも様々な歪も、自らの実践を積んでいくことで刷新されていくことを信じこれからも楽しく取り組んでいきたいと思います。