忍とは認なり

「忍とは認なり」という言葉がある。

この忍=認というのは、心が正直に丸ごと全てのものを受け容れることを言うのではないかと私は思う。

認めるというのは、通常では何かその人の一部分、もしくは切り取られた範囲を見て、自分の中の分別された知や情で理解しようと誤解している人もいる。

例えば、誰かを好きになるや嫌いになるというものがある。

本来の好きであるとは、嫌いなところも気にならない程に相手を好きになる事であり、好きになろうと必死になることではなく、嫌いにならないようにと我慢することではない、それは好き嫌いを超えて相手のことを丸ごと受け容れるからそういう認める境地でいることができる。

親が子どもを思う心も同じく、どんなにその子が不肖であったとしても子は子なのだからと思う心は、天地自然と同じ仁の心、慈愛の心で見守っくださっていることと同様に全部受容しているのである。

それを今では、何か自分の都合の良いことをしてくれていれば好きでそうでなければ嫌いという風に、自分の思い次第で相手を受け容れようとしない人が増えている。

例えば親子間であっても、一生懸命に好かれようと努力したり、嫌われないようにとやっていくことばかりに躍起になり、そのことに疲れ開き直って親のことを敬わないように大人になれば、親子関係と同じく周囲との人間関係も自他を尊重することができず誰かを好きになるのも嫌いにならないのも表面上の条件付きでならなどという心の態度で関わっている人もいる。

真の慈愛を感じる心というのは、その人が自分に何かをしてくれたからや何かをしてくれているからという自分に対する損得ではなく、その存在を丸ごと認めているからはじめて実感することができるのである。

それは自分の心が先であり、やってもらって嬉しかったことや、してあげたいと思う人がいることではじめて自分の心に素直に向き合い真の実感を得ることができるのである。

その境地やその場所で心を澄ませて自分を観照すればこの自分を無償の愛で育てて見守ってくれている偉大なものを感じることができる、それは周囲の方々にはじまり、先祖代々の命の絆、天地自然の繋がりと恩恵、目にはみえないけれど永続してくれている万物根源のものに感謝できてはじめて自分が認めていると言えるのではないかと私は思います。

耐え忍ぶということも、そうやって自然の姿、あるがままの心を認めるためのプロセスの一つであり、それは我慢するのではなく無理に納得や説得させようとするのではなく、諦めるということ、受け容れるということ、つまり自分本来の根柢にある素直なあるがままの心の自分が自分であると認めることだと思います。

人は誰でも傷つけ傷つき合うものです、時折、様々な事件が重なり、そういう人たちが引き寄せ合い、余裕がなくなり忙しいことから心にもないことをしてしまったり言ってしまったりして傷つけ傷ついた自分があった人もたくさんいると思います。

人間は誰にだって聖人と同じような真心があるのだから自分をいつまでも責めようとする自分があるのは皆等しく同じであると思います、しかしそういう優しい心を持っている自分のことを思いやり受け容れるところからはじめていくことが忍と認であるのではないかと思います。

自分のことを認めることから、社業や実践、自分との正対を通じてこの心の霊妙な世界に触れつつ自然界の共生や尊重の意義を学び味わっていこうと思います。