子ども心の声

心は頭で考えることと違い、本当に必要なものを自分に対して与えてくれるものである。

一見、自分にとって良くないと思える出来事であったり、自分にとっては考えていたら暗くなってしまうような事物であったとしても、それは実は心の中では欲しているものに繋がっているということがある。

それはまるで子どもが何かを欲しがることに似ているのである。
これは心はいつも正直ということなのである。

世間では人は大人になるというのは、心を我慢して抑えこむことを言うことが多く、自分の本心を抑えて理性的に振る舞うことで社会の中でやっていくことを大人になったと定義している。そしてそうやって周囲の大多数の年配者の人たちの都合の良い人になれば「よく大人になったな」などとと褒められることもある。

しかし本当にそれが「大人」というものだろうか。

人は、自分が本当に何を望んでいるのか、自分の命は何のためにあるのかと正対するのはすべてに心との対話により気づいていくことができる。

それは単に頭だけで割り切り考えることではなく、心があるがままを感じるように気づき、それに応じて従い深めて受け容れることで竟には、本来望んでいる自分の天命天分というものを知るに至るのであろうとも思う。

人は自分のことをよく分かっていないのである。

知識により分からなくなったといってよく、そのまま自然に生きてたら分かったものを先に知識を入れることで分からなくなってしまうのである。そういう刷り込みから解き放たれるためにも心と対話をしないといけないのである。

心の対話とはどのようにするものなのか、その一つに涙がある。
子どもがよく泣いているのも、心を我慢させていないからである。

人はいくつになっても自分の本当の心が嫌がっているなら、そのまま正直に涙が出るものである。

人は我慢して、頭で言い聞かせて説得を試みるけれど心がそれをやめてくださいと願っている場合は自然に涙が湧き出るものである。嫌なことを我慢して辛いことを無理しているとそのうち心が喪失して涙すら枯れてしまい無感動の人になってしまうものである。

それは何よりも最も悲しいことであり、自分の内面の子ども心が泣き疲れてしまっているのである。

日々に感動している人は、心のままに動いているのだからいつまでも心のあるがままで生きようとする。それは大人になるために頭で心を抑えこむのではなく、心が遣りたいと思っていることに向き合いそれを叶えてあげるために真の大人(たいじん)になるために学問をするのであろうとも思います。

人は誰にも自分の中に子どもがいます。
眼をキラキラさせて心が感動したままでいる子どもがいるのです。

もしもその子どもが泣いているのなら、その子どもの心に耳を傾けてあげることだと私は真摯に思います。様々な大人が我慢して刷り込みをつくり、その中で窮屈に自分の生を全うできなくなることほど不幸なことはないと思います。

自分らしく生きられる世の中、誰もが我慢せず助け合い心のままに共生し貢献しあえる世界を私たちは創れるはずなのです。

カグヤの理念は、私の信念は、子ども第一主義。

これからも子どものためにも、心の声を聴いていく日々を過ごしていこうと思います。