尊天の道

先日、また鞍馬寺貫主様とのお話の中で大切なことを学びました。本当にご縁は有難いことで、求めていると必ず与えられ思えば必ず実現するのだと感じます。

人は何でもまず願い思うことで人生の善き出会いを自らで導いていくことができ、その一期一会の何事にも代えがたい貴重な心の時こそが旅の醍醐味と豊かな楽しみであるのだと思います。

一生懸命に生きる意味は、その意味がとても豊かで充実した幸福な旅になるからです。

こういう面白い日々を送れることは出し惜しみなく真剣に正直で実践することからだと感じ、さらに深い楽しみや味わ深さの中に在る一日一日が感謝の日々に変わっていくからです。

鞍馬には「尊天」という教えがあります。

すべての調和の原点を「尊天」とし、そこから自分を常に高めていこうというというものであろうかとも思います。

人はどうしても自分次第で自らに限界を創ったり、勝手に自分のことを戒めたりして本来何を目指しているのかが次第に分からなくなっていたりするものです。

そういう私も日々に生きていたらまだ達していないことを時折は嘆き、できていない自分を時折責めたり、今の自分が未熟なことを時折悲観したりしそうなときもあります。

そうしているうちに視野はどんどん狭まり、無理をすることが増え次第に苦行のようになって楽しくなくなっていくものです。

そういう時こそ、「尊天」を思い願い祈ることで新たになるのだと思います。

例えば、師を持ち、師に近づきたいと思うから努力精進するとしてもその師よりも劣っているからと自らを責めるのではいつまでも師と同じような境地には達することできません。

師と同じというのは、師も目指している境地がありそれに一緒に近づこうとすることこそが道を同行する真の楽しみでもあるのだと私は思います。

私の場合は、かんながらの道、つまり自然をお手本とし学ぶのだから少しでもその自然という天と同じ心を持ちたいと願い、日々に心を籠めて実践することが何よりもその道を拡げることになっています。

そしてそういう純粋な真心、天から学び天に近づこうと一生懸命に学ぶ姿勢こそが尊いとする祈りの道、それを尊天というのではないかと私は理解することができました。

つまり貫主様より学んだ一番大きな教えは、「尊天」とは、天の心に少しでも近づこうとする信仰心。天をお手本にして、その天になろうという心、天に近づこうとする気持ち、それが何よりも尊いということ。

そういう修行こそが、天と一体になるための根本精神であるのではないかと心から実感しました。

そして「尊天」が全てのいのちを見守るからこそ、そのいのちを活かし天に近づこうとする自分がいることが大切で、たとえまだまだ天のようになれなくてもそれを受容してくださる尊天の慈愛を感じて精進することで、竟には天道に叶っていくのではないかとも感じました。

私の夢は、子どもの周囲に自然を創造していくことです。

この世が、そうなっていけばいい、子ども達の心の楽園にしたい、その一心でこの業界に住まっているのです。杜を拡げることも、世界の調和を願うこともその子ども心の命じるままに歩んでいます。

色々な変化の中でその根が枯れそうなとき、たっぷりと澄んだ水を与えてくださることでさらに元気に枝葉は天に向かって伸びていきます。

この度も素晴らしい邂逅を有難うございました、この教えも必ず子ども達の未来へと還元していきたいと思います。

みんなを善くする

生き方というものを考えるとき、自分だけで生きていると勘違いする人と全ての人たちの御蔭で生きていると実感して生きている人がいる。

前者は、いつも物事を部分だけで見ていることが多く、例えば自分都合や相手都合の目線だけですぐに物事の正否を決めたりすることがある。しかし後者はそうではなく、常に全体を観てトータルで判断しているから物事の正否を都合では決めつけず人事を尽くしたり天を信じたりすることで常に調和を心がけて生きているのである。

人は、今まで自分だけで生きてこれたことが一度でもあるかと問われればそんなことはないことは誰でも知っている。しかし、実際に生きていると自分だけでも生きられると錯覚し間違った個人主義の孤立した中で心を閉ざして生きているのである。

そういう生き方をしていたら、いつまでたっても人生のパートナーや仲間達との最高の思い出を創れずに自分ばかりが孤独にすべてを背負い込み力に呑みこまれることになる。

人は今まで誰かの御蔭でもって今の自分があるのだから、常にその恩返しとして周囲のために何かできないかと感じて生きていることがもっとも大切な生き方なのである。

「いつも自分が周囲を善くしたいという一念。」

これこそが今、必要な孤立や孤独を拭い去るための生き方なのである。

今までどうしても人と上手くいかなかったり、周囲の力を活かせないのは自分だけで生きられると間違った方を選択しているからである。今の自分があるのは誰の御蔭か、すべてを覚れば自分が遣るべきことは常に自分以外の人たちのためにどれだけ善いことを積み上げていくかというだけである。

善い種を蒔けば、必ず善い芽が出て、善い実がなる。

自分が一部分の小さな殻の中に閉じこもらないように、生き方として常に周りに貢献できる方を選択していくことである。それは自分は貢献していると思い込むのではなく、実際に周囲から感謝されるような生き方を自分自身が決心することで人生は大きく変わっていくのである。

今の時代、自分だけでもちゃんとやれば迷惑をかけないなどという間違った教育で苦しんでいる人たちが沢山いる。子ども達が幼いときから、そういう環境の中で成長していると思うと心が痛い。

常に、貢献する方、自分以外の人たちに善いことをしようと思えるような貢献を優先する生き方の手本を示していきたい。困っている人たちがいるからこそ、自分が役に立てる可能性があるのです。

「自分の存在がいつも皆を善くする。」

まず当たり前にそう思うことから生き方の環境を広げていこうと思います。

自分探しの旅

めぐり逢いはとても不思議なものがある。

道を歩んでいく中でたくさんの人たちと出会い別れがあるようにその物語とも無限の廻り合わせがある。

巡り回る中で何度も何度もその時の心が新しいものを感じて本来のあるがままの境地を体得していくのであろうとも思う。

道の中で自分の心に自然に湧いてくる優しい気持ちや、自分の心のワクワクする気持ちから、深い安堵感といった自分を丸ごと受け容れている自分というものとの一体感を得ているのだと思います。

それも瞬間瞬間の活き活きとしたご縁の中ですべてが生まれているのです。

このすべてのものとの巡り合い廻り合いのご縁を通じて私たちは道の尊さを感じるだと思います。

その道の心得として、何より自らの歩みを止めないことは回り逢い続けるためにも大切なことです。

それがどんなに怖くっても、どんなに寂しいと思っても、勇気を出して前へ進むこと。

その一歩こそがご縁のはじまり、道のはじまりだと私は思います。

この前へ進むという行為は、自然の中に独りで立とうとしていることに他なりません。

命は、自分自らあるがままに歩もうとしているものだからです。

ご縁を信じてその命じる方へと歩むことが自分探しの旅であるのだとも思います。自分というものが何か、この自分という根源的に一体となった本来の自然体でいることが生きていく意味そのものであるのだと私は思います。

どんなに生きても、自分が生きるのです。
そして誰でも生まれてきたからには、自分が生きたいのです。

自分の生き方を変えるとは、自分で生きるということです。自分で生きるからたくさんのめぐり合わせに出逢いそして自分を知る旅を味わえるのだと私は思います。

これから生まれてくる子ども達のためにも、自分のあるがままを通じてめぐり逢いの楽しさ、その学びの深遠さ、好奇な感性の豊かさ、充実した日々を通して、本来の在り方に向かって生きられるような社会を創造したいと思います。

自然の目

視る力というものがある。

モノゴトの本質を捉えるものであったり、本来の物がそのままに観えるということであったり、自然界にある霊妙さを感じ取れたりするのもこの視る力である。

通常、目に見えないものを観るというのは全身全霊が調和しているときに最も発揮するのだろうけれど心が穏やかで静かであるときに自然とそういうものを実感できるのであろうとも思う。

例えば、自然界では様々なものが動いている。

人間の見やすいものばかりに頼っている現代では、本物を見る目は育たない。自然を観ていれば、ゆらぎであったり、遠くの風の流れ、雲の様相、霧や香りなど様々なものに目を凝らしている中で自分の眼も鍛えられるものである。

自然で生きている動物には、数キロ先の砂埃や風の中の水分量まで視通せる目を持っているのはそういう自然の中でいつもの目を養っているからでもあろうとも思う。

また、目には歴史を鑑る目もある。

長い歴史の中で大切にされてきたものが、少しでもその土地、その風土に残っているものを見出すのもその目があるからである。

視る力があれば時の中に大切なものは必ず探せば残っているものであり、そういうものを素通りせずに伝承していくことや、それをもう一度持続するために心ですべてを受け継ぐこともその目が何を観たかということになる。

よく心の眼でとあるけれど、これは結局は自然観察眼と同じく目にそれが入ってくるかどうかという自らの心を視通す眼のことを言うのである。

人間は自分の都合の良いことばかりを見る人は、そういうものしか目には入らない。そうではなく、清く澄んだ真心で正直である人にはあるがままのものが自然に目に入ってくるのである。

それはそれを持つその物の心が入ってくるのである。
そのものがそのもののままに観えることはその心に容れるからである。

何とでもその心が通じ合えば、どんなに形がなくなっているものでもまるで生き生きと新鮮な姿でイメージできるのである。

私はよくイメージ先行型と言われるけれど、このイメージ先行型とはそういう心で捉えることができるセンスを持っているということです。心が先に捉えるから、そのイメージがいつまでも消えないということだと思います。

心で生きるということ、あるがままで生きるというのは、かんながらの道の大前提なのです。この道は、自然であることで心が自然になっていく生き方のことです。これからも、心で感じたままに大切なことが観続けられるよう自然の目を養っていこうと思います。

一番身近なところから

人間関係を考えるとき、相手ではなく自分ということはよく語る事である。

しかしこの自分とは何かと思うとき、一番身近にいる人と定義してもいいと思っている。一番身近にいて、自分と対話しながら付き合っていくのはこの自分というものになる。

人間関係もどんなことでも、問題は遠くのことを考えるのではなく一番手前から一番身近なところから大切にし心を籠めて取り組んでいけばすべて安心に解決できるのである。

それを自分を誤魔化し自分を責めていたら一番近くの人との関係が上手くいっていないのだからその他の関係も上手くいくはずがない。一番身近な自分に素直にオープンでいることや、一番身近な自分自身に心を委ねて許し認めていくことは自分に正直でいることでもある。

それを誰かや周りの環境をみて我慢して無理をしていたら、自分の正直な気持ちは分かるはずがない。人間は、自分というこの神体を通して自分というものと対話しているからこの世に存在しているのである。

自分というものと対話をする、省みるというのはそれが生きる意味に繋がっているからなのである。

自分自身のことをあまり分からないのに、どうやって相手や他人のことが分かるというのかということである。そしてこれは同じく、自分を変えることもできないのにどうやって他人を相手を変えることができるかということである。

一番身近な自分とどう付き合っていくか、これが心学なのであると私は思う。

心を学び、心を見つめるのはそういう自分を知ることに繋がるからである。

今の社会は、周りの環境の悪化に伴い不幸な関係性を築く人たちが増えている
、親子であれ、友人とであれ、仲間とであれ、自然の姿ではないものを育てる社会がある。

この社会をどう善くしていくか、この社会が如何に大切な人材を育てているか、原点に立ち返り取り組むのが私たち大人の使命なのである。

日々は楽しい学びで充実しているけれど、それを如何に社会のお役に立てるのかよく考え為すべきことに専念していくことだと感じます。一番身近な自分のことを知り、己に克つことで様々なものを維新していこうと思います。

子ども達が安心して育つことのできる社会のために実践あるのみです。

苦は楽の種

人が信を入れているかどうかを視るとき、それを丸ごとそれを認めるという姿勢かどうかで環境に顕われてくるものである。

何かを信じるときには、それが丸ごとかということはとても大切なことでそれが自分の都合でここだけはやこの部分はなどということでの信じ方などというものは一切ない。

全てのことは丸ごとであるかどうかということであり、仕事でも日常でも何が起きてもそれは理念に向かっている、夢の実現のためになっていると絶対肯定できるかどうかということにもよる。

そういう絶対肯定の気楽な感覚こそが、信が入ることになるのである。
なぜならそれは全てにおいて心で行うことだからである。

人間は、誰でも何かの出来事というのはどんなことをしていても起きるものである。生きていれば、毎日何かしらの出来事という縁に出逢いそこから新しい自分として上乗せされていくのである。

そういう体験をより深く掴み取るのは、その人の生き方によって変わるものである。

例えば、特に何か自分だけでは達成できないような大きな目標や偉大なビジョンがあればそれに向かって立ち向かうのだからそれ相応の出来事が起きる。それが一般的には小さいと言われたりすることでも、その人にとってはとても大きな出来事であったりもする。

そこへ向かう過程の中では、自分にとっては不都合なことも沢山発生するし、一見するとそれはうまくいっていないようにも感じることもあるのである。何かを捨てたり離れたり断ち切ったりすることで、新たになるのだから現実に起きる事象は自分にはすべて大変なことばかりなのである。

しかしそれが夢の実現への過程であり、現実の人生の道のりなのである。

畢竟、人間は何かを結果を出したから夢が大きかったのではなく、その人の生き方が充実していることの結果として夢が叶うのである。

そしてそういう日々に満足し充実した生き方とは、その人がどれだけ今、この瞬間を丸ごと楽しむことができるかということになる。そしてその楽しむには、表層上の楽しみと深層での楽しみがある。後者は、苦も楽の種ではないけれど苦みの上質さを丸ごと楽しめる境地だということになる。

そういう信楽の境地とは、前向きである事、プラス思考であること、楽観的であること、積極的であること、根の明るさというもので気楽でいることができているということである。

それが先述した、今に丸ごと信を入れたということである。

私の定義する「丸ごと認める」というのは、丸ごと今が善いことになっているということである。つまりは、それは必ず善いことになると信じていることでありそういう生き方が周囲の人々を信で活かすことにも繋がっているのである。

すぐに他人は何かの問題があると悪い方ばかり、他人に矢印を向けては文句ばかりをいい、問題を他人のせいにして自分を正当化しようとするものである。しかしそれがすでに丸ごと信じる行為と逆行してしまっているのである。

問題とは現実のことであり、現実とはそれをやればいいと言われているだけのことである。問題が可視化されるからこそ、現実を正しく知ることができそれを正面から取り組めば解決することが約束されたということなのである。

楽しく明るく元気よく健やかに日々を楽しみながら一生懸命でいることが苦を楽の種にする心の在り方なのだと思います。

生き方を決めていくことが、たった一度の人生を真に充実し楽しむためのコツなのであろうと思います。これからも子ども達の模範になるように、にこにこ顔で命がけの実践を楽しみたいと思います。

正直とチーム力

自分の意見を正しくするということは大切なことである。誰かが言うからそれを絶対に服従するというのはおかしなことである。

人は皆、自分の思っていることを堂々と言える権利がある。

それを押し殺して自分に我慢するから、ついには耐えられなくなりおかしくなるか、もしくは自分をなくして個性を埋没させるかということにもなる。

意見を言い合う関係というのは、御互いを尊重しているということになる。
逆に意見を言えないという関係は、御互いに依存しているだけである。

色々と思っていることがあったら何でも遠慮なく話すような関係を築くのはお互いが信頼関係の基に何かを一緒にしようと思っているからである。

それを立場などばかりを気にして、御互いが本音を出せないようなら一緒に何かをしていくことは結局は難しい。よく巷では仮面夫婦、仮面なんとかと言われるような浅はかな関係になってしまう。

表面上の仮面でだけ取り繕い、本心を明かさないようでは誰とも助け合えない。

自分の意見を言えないのは、それ以上の関係を必要としないからであろうけれどそこに必ず自分を優先して守ろうとする保身の行為がある。

相手を気にしすぎるには、自分がどう思われるかばかりを気にするからであり、先に何かをしようとするとすぐに自分が困ることが想定されるから動けないのだろうけれど結局はその動けないことがどれだけの人たちに迷惑をかけるかといえば大変なものがある。

自分に正直に素直に生きるというのは、思っていることを何でも言い合える関係のことである。それを我慢せずに堂々と言える関係のことであり、そういうことを話しても大丈夫だという仲間や周囲、相手を先にオープンにして信じ合うことである。

チーム力というのは、オープンに本音本心を語り合うことで強くなっていく。

その絆も強固になるのは、日々の仕事を通して堂々と皆に弱みをさらけ出しそこを補ってもらい、そして同時に強みも理解しそこで皆の役に立とうすることができるようになるということである。

自分の強みを知り、そこで活躍して迷惑を挽回できるようより一層の強みを活かすことがチームに貢献することでもある。苦手なら、苦手といってどうやったらいいかを皆と話し合うことはとても大切なことである。

本音と建て前という表面をつくり込んだ不自然な姿が、人との関係を壊していくのです、文句を言ったり、愚痴をいったりするのが本音ではないはずです。

本当に思っている素直な心、正直な心、その心の奥にある自らの仏性本心がさらけ出せるほどに安心した境地で仲間と接することであろうとも思います。

まず自分に正直にからがチーム力です。

皆で助け合い、支え合い、認め合い、許し合う関係は、自分に正直からはじまるのだと私も思います。日々は、実践道場、試されることばかりですが楽しんでいくことだと思います。

自分に正直

自然の中で自然を感じる心に、自分の我執がこびりついていたら自然と一体になっていくことは難しい。

心についた日常の曇った思考を捨て去り、清らかに澄んだ真心でいることが自然と一体になる鍵でもある。

山に入るということは、その山の心と一体となっていなければ山に入ってもその山の中の自然と一体になっているのではない。山という調和した自然界の一部を体験することは、私たちが人里へと離れる前の心になっていることである。

人間社会だけで通用させる隔絶されたルールの中にいると、どうしても本来の自然界のルールを忘れてしまい自分がどの位置に立っているのか、自分がどうあるべきかということも分からなくなり次第に心が疲弊してしまうものである。

そうやって心が疲弊するときこそ、その疲弊することになった様々な刷り込みや思い込み、先入観を捨て去って素直で正直な心になってやり直すことが新たなスタートを切ることであり、「生まれ変わる」ということでもある。

つまり新しく生まれ変わりというのは、すべてにおいてまずその穢れを祓うことからが本当のはじまりなのである。

そしてこの今までの執着をどう捨て去って洗い清め真の心の状態に戻るのかを示しているのが禊でもある。

澄んだ清らかな水に触れることで、本当の心を思い出し、自分の中に沁み付いた様々な曇りを取り除くと、清き明るい素直な真心が顕われてくる。そういう状態をいつも生活の中で見失わないようにしていくことこそ、自然から離れてしまった私たち人間の必要不可欠な絶対業であろうとも思います。

生活の中に自然を入れるのは、そういう矛盾との正しい付き合いでもあります。

そしてこの人間の苦しみというものを思うとき、人は心清らかに道を歩むことで多くの人たちを迷いから救っていくような世直し行も生まれるのだとも思います。

人間中心にどちらかに偏って救う救わないという己を中心に据えての救世ではなく、自然中心に心清らかにしていくことであるがままに救われていくというような自然と一体になった浄化がこれからは真の世直しなっていくのだとも思います。

素直な実践、正直な実践、真心の実践、その全てにおいて自然の心が顕われてくるような関わりが今からはとくに大切になっていくのだろうと思います。

そういうものでなければ、今までの執着は拭い去ることはできません。

如何にその穢れを払うかは、何よりも自然でいること自然のままで在る事だとも思います。この自然のままをも忘れてしまっている現代は、その自然でいるということをできる社会を新しく創造しないといけません。

そして個々はもっと自分に素直にならなければなりません。

自然に帰ると子ども達の目が輝きだすように、そのままの自然でいることは子ども第一主義の理念にも沿っています。一度しかない人生なのだから、自分を大切にすることで自分に正直に生きていくことをこれからも自然から学んでいきたいと思います。

自らを浄化する人たちが増えていくことが何よりも道の入り口。

この先もずっと子ども心のままに、見守って生きたいと思います。

水のように生きる

あらゆる生命には、感情というものと心という時空の次元がある。

少し比喩でこれを例えてみる。

感情というものは波風がたってうねうねとしているような水面近くのようなもので、心というものは水面下の静かで穏やかなところといった感じだろうか。

風が吹けばすぐに水面は波立ってくる、しかし風がやめば時間が経つとともに次第に穏やかで静かないつもの風景になる。もしも嵐が来れば、水が濁り様々な流木や枯葉なども飛んで混ざったりもする。

しかしまた長い時間を経て、水は澄んできていつもの穏やかな風景となる。

そしてそこには一年という四季があり、春夏秋冬を繰り返しつつ環境の変化にあわせてその水溜まりは今という永遠の中で変わり続けていくという感じだろうか。

同じ水でも変化がある、水は水だけれど色と透明なところがあるのである。
生命というものは、とても観念的であり絶妙な美しさがあるものである。

水のようなものを感じるとき、生命の動静を感じることができる。
生きているということは、まるで水のよう。

色々なものに変化し、色々なものを宿している。

この世の一部として存在しているのは、私たちが水だからであろうと思う。

昔があるのは、今の御蔭、未来があるのも今の御蔭。

瑞々しい思い出を通して、私たちの生命はいつまでも輝き続けているのだ。
美しい思い出をたくさん持つことは、素晴らしい人生を創造していくこと。

水から学び、水から生き、水から流れ、水から受け容れ、水のように生きていくのが自然の生き方でもある。

その生き方を真水だと私は定義する。

感情も心も水でしかないのだから、これからも真水の境地を楽しんでいきたいと思います。

孝道 親子の道

保育の仕事をしているから孝道とは何かということをいつも常に心に置いている。まず子どもを考え抜けば次第に親のことになり、親のことを考え抜けば次第に子どものことになる。

親子というものは、その間にとても大切なものが隠れているのである。

今の世の中は、親はこうでないといけないという子ども側の偏見や、子どもはこうでないといけないという親の偏見で親子関係がおかしくなっている人たちがとても多い。

子どもも何か自分の都合でのみ親を語り、無情にも親を親とも思わず親のことを非難したり、親も子どもが都合通りにならないからと無情にも子を否定したりするシーンが増えている。

思いやりや親子の情が基盤になるはずのその親子間がおかしくなれば、その延長である他人を思いやることも難しくなってしまうものである。

論語の「一家仁なれば」にある通り、家庭円満で親子が思いやりで満ちていれば自分を存在させてくれているものの偉大存在を感じるままに周囲へもその思いやりの孝道を広げていこうと自然に思えるようになるものである。

親子はお互いの存在があることでそれを確かめ合うことができるのである。
そしてそれを「幸せ」とも言う。

もしそれが壊れ、自分がいて当たり前、自分がやって当たり前、自分は生きて当たり前、自分はあって当たり前という風に、その当たり前も自分という「私や自我欲」を優先させればその当たり前のそもそもの定義がズレてしまうはずである。

この「当たり前」の定義が、もし以上のように自分にとって当たり前になってしまえばもう本来の正しい当たり前のことなどは理解することは一生涯できはしないのである。

では本来の当たり前の定義とは一体何か?

それは、自分が生まれてきただけでも当たり前ではない、自分が生きていられるだけでも当たり前ではない、自分が在るだけでも当たり前ではない、自分を大切にしてくれる人がいるだけでも当たり前ではないという全てにおいて「当たり前はない」ようなものである。

つまり本来の定義は、「当たり前はない」ということなのである。

この奇跡のような縁の繋がり、自分としてこの世に置いてくださっている周囲、そしてそれを最初にこの世に創造して送り出してくださった父母、そうやってそれを辿れば先祖の方々、さらに辿れば始祖の生命、さらに辿れば地球、さらにさらにと辿ればその根源に至るまでずっと「当たり前ではない」ということに遡ることができる。

こういう根源的なものに触れるとき、はじめて人間は当たり前などないことに気づき覚るのではないかとも私は思います。

そしてその入口にあるのが、この親子の道、「孝道」であるのだとも思います。

私たちの会社では、もう長いことクルーの誕生日には親への感謝の手紙を本人が書き、会社から心を籠めてお祝いの花束を送ることにしています。

これは以上のような「当たり前ではない」ことへの深い感謝、根源的なものを大切にしたいという私たちの会社の理念から発するものでもあります。

子ども第一主義とは、そういう当たり前ではないものを大切にしていこうとする実践主義のことでもあるのです。

常に自分を存在させてくれていることを当たり前だとはせず、生み育てて下さっている偉大な根源に心からの敬意と感謝を生死を通して感じていきたいと思います。