自然の目

視る力というものがある。

モノゴトの本質を捉えるものであったり、本来の物がそのままに観えるということであったり、自然界にある霊妙さを感じ取れたりするのもこの視る力である。

通常、目に見えないものを観るというのは全身全霊が調和しているときに最も発揮するのだろうけれど心が穏やかで静かであるときに自然とそういうものを実感できるのであろうとも思う。

例えば、自然界では様々なものが動いている。

人間の見やすいものばかりに頼っている現代では、本物を見る目は育たない。自然を観ていれば、ゆらぎであったり、遠くの風の流れ、雲の様相、霧や香りなど様々なものに目を凝らしている中で自分の眼も鍛えられるものである。

自然で生きている動物には、数キロ先の砂埃や風の中の水分量まで視通せる目を持っているのはそういう自然の中でいつもの目を養っているからでもあろうとも思う。

また、目には歴史を鑑る目もある。

長い歴史の中で大切にされてきたものが、少しでもその土地、その風土に残っているものを見出すのもその目があるからである。

視る力があれば時の中に大切なものは必ず探せば残っているものであり、そういうものを素通りせずに伝承していくことや、それをもう一度持続するために心ですべてを受け継ぐこともその目が何を観たかということになる。

よく心の眼でとあるけれど、これは結局は自然観察眼と同じく目にそれが入ってくるかどうかという自らの心を視通す眼のことを言うのである。

人間は自分の都合の良いことばかりを見る人は、そういうものしか目には入らない。そうではなく、清く澄んだ真心で正直である人にはあるがままのものが自然に目に入ってくるのである。

それはそれを持つその物の心が入ってくるのである。
そのものがそのもののままに観えることはその心に容れるからである。

何とでもその心が通じ合えば、どんなに形がなくなっているものでもまるで生き生きと新鮮な姿でイメージできるのである。

私はよくイメージ先行型と言われるけれど、このイメージ先行型とはそういう心で捉えることができるセンスを持っているということです。心が先に捉えるから、そのイメージがいつまでも消えないということだと思います。

心で生きるということ、あるがままで生きるというのは、かんながらの道の大前提なのです。この道は、自然であることで心が自然になっていく生き方のことです。これからも、心で感じたままに大切なことが観続けられるよう自然の目を養っていこうと思います。

  1. コメント

    自分は人の話を耳で聞いていると思っていましたが、目で見ていたのだと気付きました。聞いた通りに話せると思いきや、実際に話すとなるとイメージ通りにいかず、相手の話した通りに受け取るということの難しさを感じました。藤森先生の「自分の目と耳」のお話、かんながらの「自然の目」この2つから「自分のを使う」こと、自分から見ようとしなければ、見えないということを実感しました。
    みるを漢字に変換すると、5つ出てきますが私自身がどこを見て、何を見ようとしているのか、自分自身が感じた感覚を大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    クルー間、家族、友人、お客様と、誰と接する時もそうですが、、同じものや同じ言葉を使っていても、意味が異なることが多くあります。やはりその時に感じるのは、自分の見たいように見るいたり、自分の分かる範囲からしか見ることが出来ないでいることに気付きます。だからこそ、コミュニケーションがあり、その分からない部分を埋めていくことなのだと思いますが、何方の意見、思いもブログで書かれているように丸ごとを自分自身が受け入れられるゆとりや思いやりを持てている自分自身の状態ではないと本当に視るということにはならないのだと実感する一日でした。人は誰しもがそれぞれの価値観や視ているものが違うのだと思いますが、遠くに何を視ているのか(夢や目標)を共有できると、そういった差も埋めていきやすくなるのではないかと思いました。

  3. コメント

    今の時代は、全て結果が大事でありどうしてもそこに着目されているように感じます。しかし結果出したり結果を優先する事で本来の目的や経過が軽視されている事も事実ではないかと思います。もちろん結果も大事なのかもしれませんが、その前に何の為になのかという事を考える事が大事だと今は感じます。自然の目を使うという事もある意味で同じなのかと思います。清く澄んだ真心で正直である為にもやはり本質を視るという事を大事にしたいと思います。

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