人類存続の危機

当事者意識というものを考えてみる機会がありました。

これは簡単に言えば発生している問題が自分の中のことにするか、自分の外のことにするかで意識というのは異なってきます。

例えば、テレビのニュースなどで災害や事件などを見ていながらそれは別の人で起きているのだからといって自分のことではないとどこか傍観しているという姿勢が自分の中に存在していると思います。

何を見ても何を聞いても、それはどこか自分と離れた遠くで起きていることだろうと思えてしまっていて別に自分には関係がないと思っているのだから情報が日々に入ってきてもまるで他人事のように感じているのです。

こういうのは国家でも会社などの組織でも同じことが起きていて、自分の国家や会社がピンチであるのにそれをどこか自分とは関係がないところで見ている自分があったり、何かの問題を解決するのは自分がやるのではなく誰かの仕事だと勘違いして自分のことになっていなかったりということがあるのです。

先延ばしや先送り、または知っているけれど何もしないし、気づいていてもそのままでも気にならないという感性はすべてこの当事者意識が欠けているということになるのです。

極端な言い方かもしれませんが、自分の人生のすべては自分に起きている全ての出来事であるのは自明の理です。情報というものも、どんなニュースも、どんな環境の変化も、全てはご縁として実際の自分の身に起きていることであるはずです。

先日ある組織の相談をのったときも、職員は園長へ不平不満ばかり言いますがあなたが園長だったらどうしますかと聞くとみんな黙ってしまいます。これも当事者意識が欠けていて、もしも自分が相手だったらもしも自分が相手の立場だったらと考えているのなら他人事ではなく自分自身がそれを解決する担い手なのだと気づくことができるはずなのです。

どこか相手任せにしてしまうのは、自分から任命されることが大変だから避けたいという気持ちがあるからではないでしょうか。もしも相手の出来事が自分に降りかかってきたとしたら面倒くさいや大変だ、やりたくないし巻き込まれたくないと、無難な方を選択している気持ちがあるからではないかとも感じるのです。

便利で楽を選べば得だという発想は苦しいだけで、大変だけど明日は我が身なのだから自分のことだと思って自他の別を持たず真摯に苦しみを選べば楽しむことができるように思います。そんなのがいいと思っている価値観が横行しているのは今の時代の特徴かもしれません。努力して精進したからこそ手に入る価値があるという昔のものは失われてきているかのようです。

しかし、どんなことも全部他人のせいにしていたら、では自分は何をやり遂げたのか、自分は何を遣ったのかということになってしまいます。最初から誰かがやっているのを手伝っているだけで自分がやっているわけではないのだからという姿勢そのものが、自分の持っている力をつかわないでいようと楽で便利な方を選んだという結果になっていくのです。

人生の当事者は自分であるということ。

そして自分の人生は自分で切り開くという強い情熱が、今のように甘い環境に恵まれた中ではとても大切なことのように思うのです。昔は私もそれが嫌で、わざと厳しい環境に身をおくことによって逃げ道を断っていましたが今は逆にこの甘えた環境の中でどれだけ自律することができるかということが大切だと実感しています。

それは自分の人生は誰かのものではなく、主人公は自分だとすることが当事者意識のように私には感じるからです。他人事なんてあるわけないと信じているからだろうと思います。

最初から妥協することが前提でやっているのでは、人は誰しも本気になれるはずがありません。全部の問題は自分を鍛えてくれる磨いてくれるとし、使命をいただいたのだから任命されたことで世界のために貢献しようと思う志が何よりも当事者意識を高めてくれると私は思います。

そしてそこには共感力、つまりは人類の存続に必要不可欠であった人類の得てきた至宝の智慧、つまり「繫がりや絆」を強くすることに関係しているように私には思えます。

今の時代は何が欠落してきているのか?、何が人類存続の危機なのか?

どうもそこには当事者意識という名の共感共生力の欠落、繋がりや絆の消失そのものが見え隠れしているように私には思えるのです。これは身近な組織の中にも侵食してきているのだから早急に気づいて早期に手を打たないといけません。

この辺は、まだまだ深めてみようと思います。