心のセンサーと察知の機能

場の感覚というものがある。

いくら頭で推察しても体験に照らしても、百聞は一見に如かずというか、そこに身体を運ぶことで得る感覚というものがある。

自然の中にも等しく、いくら予想や予測をしてもその場で流れている空気や息吹、様子などは感覚で掴んでいくものです。私の場合も、何かの物事を正しく理解しようと思うときはやはり身体をそこに運びます。

そして心を澄まし感覚を確かめているうちに、頭では理解できないものを感じ取っているように思うのです。頭で考えることは、言葉にしていくことで理解していきますが自然の理解は言葉にはならないセンサーのようなもので理解していると思うのです。

雨の感じも、嵐の感じも、そして変化の予兆も、感覚機能が先に察知しているように思います。

そしてこの感覚機能は手のひらにある人、額にある人、背中にある人、丹田にある人など様々ですがこのセンサーを研ぎ澄ましていくことで場の理解もまた深まっていくように思うのです。

心が感じたものを、機能で察知するということがセンサーの特徴のように思います。まずは心というものを身に修めることができてはじめて察知ということができるように感じます。そしてこれは生まれる前から持っているものであることに改めて気づくのです。

私の場合は心から手に伝わり、手から心に伝わるのですが、これも子どもの頃からずっと私のことを傍で見守ってくれている大切な御守りです。

大学にこんな一文があります。

「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」(こころ、ここにあらざれば、みれどもみえず、きけどもきこえず、くらえどもそのあじをしらず)

心を常に留めていることで、はじめて様々な機能は動いているということです。

心のセンサーと察知の機能に磨きをかけて、尊いものを発掘し、発展させ、いのちある世の中に貢献するために精進していこうと思います。