他力と非力

先日から自力というものについて定義しています。

これはどこまでが自分の力でどこまでが他人の力かという見方がありますが、実際は自分の力も他人の力もそれは自他一体で働く力であるということに他なりません。

なので古語に、人事を尽くして天命を待つとか、自力を尽くせば他力が入るというものがあります。これもすべては、自分の力を出し切ることこそが他力を引き出し、他力が働くということは自力を出し切っているということです。

また浄土真宗の宗祖、親鸞は、「他力本願」という言い方をし『教行信証』で「他力というは如来の本願力なり」と述べています。これはさらに深い境地で他力を語るものであって、もともと流れている大道の中に入るという意味に私は解釈しています。

以前、私は不思議な体験をしたことがあります。

燕というのは、渡り鳥で大変な長い距離を経て私たちの国に春先には訪れ、秋口になるとまた南へと戻っていきます。これは、空のある場所に気流の風があり、その風に乗って往来するのです。

それはとても高いところにあり、旋回しながら高く舞い上がっていきます。そしてその気流の風に乗ればそのまま南の国まで燕を運ぶのですが当然、羽を広げ続けて全力で浮遊していないといけません。そうやって燕が自然の偉大な風の御力を借りて自らの生活を伸ばすのです。

私は他力というのはこの体験に似ていて、もともと自然の中に流れているものの力を如何にお借りしていくか。そのために、自らの刷り込みや偏見、邪念を取り払っていくために今に専念し尽力を果たすかということだと定義するのです。そうでなければ、「力」というものの本質が理解できないからです。

つまりは他力を活かすには、自らの内面にある囚われている小さな自分を取り払うことによるのだと思うのです。そういう時は、考えない境地であり今に専念し、自他が一体になるほどにそのものが分かれないところの佳境にいるように思うからです。尽力することではじめて無我夢中になり、その境地になると力の働きと一体になったといえるからです。

また、そうはいえども一般的に私たちがその刷り込みに囚われる理由には何かを当てにするからのように思います。何かを当てにしだすと、人間本来が持つ動物的な直観を含め本能が働かなくなっていきます。色々と恵まれすぎていると、すぐに依存してしまいますから自然の営みの偉大さ、その隠れた力が観えなくなってしまうということです。

なので本来の生きる力というものは、自然に在る力、もともと自らに備わっている偉大な力を信頼して自分を出し切るときにこそ働くものだと言えます。

それを最初から自分の力を信じずにその他の力でなんとかしようとするのは、決して他力とは呼ばず、それは力とは到底呼べるものではなく単に「非力」としたという意味なのです。自分を出し切らない人はよく自分の非力をすぐに嘆き相手に矢印を向けますがそれは他力を知らないからかもしれません。

本来の力とは、もともと備わっているものをどう自然に活かすかのように思います。それには天と同じく嘘がないものですから正直に自分を尽くしていくことが最善であるように思います。それは子どもたちの中にある心のように純粋で素直で無垢なものから学べるように思います。

せっかく生まれてきたのですが、楽していくのではなく、楽しくなるように全部丸ごと力を遣い切って同時に自分の力を信じ切って取り組んでいくことが幸せだと日々を新たに実践していこうと思います。