コトバを大切に

人間が学ぶのに、教えてもらうことと自ら学ぶということがあります。

実は答えを知る事よりも、答えを知ろうとすることの方がより重要であることは社会に出てみるとすぐに分かります。学校では答えはすでに用意されていて、その答えを求めて得られれば正解というような教育を受けることが多くなります。本来はそうではなく、自分自身が真摯にその答えを求めて一生懸命に学んでいくことの方を教えてくださっているのが本来の学び方を学ぶということです。

学び方というのは、どのように身に着けたのかは自分のことで思い出すと、先生の言ったことを自分のものにするために必死に何度もチャレンジし、学んでは確かめ、求めては助言をもらい、探しては真似をし、葛藤しては何度もその人のコトバを思い返し、慢心しては叱咤激励し試行錯誤の連続をしているように思います。

先覚者や先達の方々が仰ったことを、長い時間をかけて深めて掘り下げていくことを何よりも自分自身が真摯に実践していく中で気づきモノにしていくのです。

本来の学び方というのは、教える側が信じて待てるということと教わる側が必死に待っていただいていると期待されていることを糧に精進していくことかもしれません。

つい教える側が待てずに答えを安易に伝えてしまうのは、そちらの方が楽だからかもしれません。そして教わる側も、安易に答えにすがって当てにしてしまうのも同じく楽だからです。自分にとって便利な関わりが、相手にとっても便利に関わりにかわってしまうからです。

しかし互いにその自分にとっての楽を優先すれば、少しずつ掴んでモノにして同じ共感を得られ成長した様子を拝見するチャンスは見失うかもしれません。例えば釣りでもそうですが、安易に釣れる方法は本当に釣り方を学んだということではありません。一生食べていける釣り方を教えるには教えないで学ぶのを待つことなのかもしれません。

御互いに学びを待つということは、御互いに信じ尽力する中で自らの道を踏み締めるということで見守り合う中で学んだものを常に自ら確かめていくということかもしれません。

本来、人が発達するというのは、とても豊かなことで次第にその人なりの創意工夫で同じところに辿りつくのを味わうのが学問の醍醐味なのでしょう。周りを待つ余裕というのは、自分の道を実践するからこそ得られる境地なのでしょう。

論語に、「朋有り遠方より来たる。 亦楽しからずや。 人知らずして慍みず。 亦君子ならずや。」があります。

自らが道を歩んでいるからこそ、同志は集まって共に学び合いが深まり幸せを実感できます。たとえ、そうでなくても道を歩むことを優先していればそれだけで豊かで幸せだということなのでしょう。

一緒に学ぶということの大切さはコトバを大切にすることからかもしれません。まずは、コトバを本人が本人なりに真実を理解できるまで見守ることで実践としていきたいと思います。