道徳経済

以前、インドに保育園や幼稚園、学校を視察した際に興味深い話がありました。

インドでも今では経済を優先するための学校と教育がほとんどになり、保護者も経済的に有利になるようなところを選んで子どもを入学させているということがありました。学校というところは、勉強を通して結局何をしたいのかということを考えさせられました。

そもそも何をもって正しいというかというのは、その人の価値観によるものです。それが大きくなれば市場の価値観になり、国家の価値観になり、世界の価値観になります。

ある一定の価値観の中で世界はできあがっていますから、その中で誰かが正しいと思うことを信じ込まされその中で生きていくことが当たり前になっていくのです。今ある環境を信じ込まされ教え込まれれば、人間の世界とはそういうものだというようになればそれを払しょくすることはなかなか難しいものです。

以前、海外に留学した時に如何に日本という国は世間という評価を基準に行動しているのかというのを自覚したときがあります。ヨーロッパや他の国では個人個人が自己管理の中で周囲と合わせていくのに対して、日本は世間という暗黙のルールの中に自分を合わせているという感覚を持ったものです。

自分の住んでいるところの文化を確認することは、如何に自分がその中にいるということを自覚するのに似ています。自分を持つというのは、混ざっていて混ざらない、矛盾していても矛盾しないというようなオリジナリティーを発揮していく受容力と信念が必要なのでしょう。

学校も何を目的にしているのかをはっきり持っているところは、世間と同じ教育システムを導入していても、そのプロセスはまったく異なるように思います。目的意識というものは、なんのために行うということですがそれを何よりも強く持てるかどうかが本質的な教育につながっているのでしょう。

世界は今はすべて経済を優先して物事を進めています。そしてその経済は何のためかというのは議論されることもいよいよなくなってきました。渋沢栄一は本来の経済とは民が仕合せになることで、働くことで歓びに変わっているものを定義していました。このような話があります。

「私が若いころ故郷に阿賀野九十郎という七十いくつになる老人がいた。朝早くから夜遅くまで商売一途に精を出していた。あるとき孫や曾孫たちが集まり、おじいさんもうそんなにして働かなくてもうちには金も田地もたくさんできたじゃないか。伊香保かどっかへ湯治に行ったらどうですかと勧めた。九十郎老人曰く「俺の働くのは俺の道楽で、俺に働くなというのは道楽をやめろというようなものだ。まったくもって親不孝な奴らだ。金なんて俺の道楽の粕(かす)なんだ。そんなものはどうだっていいじゃないか」と。」

「たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。」

世の中のために必要だと思うこと、この事業は社會のためにやらねばならぬと思うことに経済を働かせてきました。論語と算盤というのは有名ですが、そもそもこれは順番のことを述べているように私には思えます。

これは何が何でも道徳のためにやらねばらなぬ経済であるという意味です。だからこそ、社會を善くする人材が経済を優先する人材であるならば、本来の学校とは何を教え導くところであるかということなのです。

渋沢栄一は、信用のことを何よりも重んじました。

「事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。信用は実に資本であって商売繁盛の根底である。」

信用できる人材というのは、地味に地道に自分の決めたことをコツコツと忍耐強く陰ながら積み上げていくものです。見ている前だけや評価が入るところだけで見せかけでやるようなものではなく、その人の努力精進によるものです。

本来何のために教え導き、なんのために実践するのか、今一度原点回帰していく必要を感じます。子ども第一主義の本質もまた改め直していきたいと思います。

正しい評価~実践する意味~

人は自分が人を評価する目がどうなっているのかということをメンテナンスすることがありません。自分自身の生き方から人の生き方が観得ますから、自分自身がどのような生き方をしているかが自他の評価になるのです。

人間には個々に価値観がありますからその人には観えていても他の人には観えないということが往々にしてあるということです。だから本当のことといくら言葉で語っても、その本当のことが分かるようになるにはその人と同じ実践を積み重ねてある一定の境地を体得することではじめて感得できるように思います。

「幸福の原点回帰」(文屋)というイエローハットの鍵山社長と伊那食品の塚越社長の著書の中で興味深い文章が書かれています。

『自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使って実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人が来て掃除をします。翌朝、社員たちが出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。』

これは掃除で例えていますが、掃除だけの実践のことを言っているだけではありません。いくら頭でわかった気になっていくら誰もが説明しても理解しないのは、脳や人間の欲が自我に引き寄せる傲慢の方へ傾いてしまうからです。

正しい評価とは、同じ実践を積んでこそできうるもので実践なくして評価はないと私は思うのです。価値観というのは、その人の生き方といった価値観があるのですから同じ実践を通してはじめて人は評価を謙虚にできるように思います。何の実践をせずに自分の価値観を乗り越えて認めたり信じたり謙虚になることはないでしょう。

色々と会社で新しい実践を始めるときに、実践に対して色々と注文をつけてくることがあります。しかしそれは実践を通して本来学ぶもので先に文句を言うことではありません。実践を通して、もっとこうした方がいいのではないかという提案はこれは正しく評価できているということであり、実践をせずにこうした方がいいという提案はどこか評価が正しさからズレていることが多いのです。つまり正しさというのは、素直であるかということです。やってみなければわからないことを、その深さを体得しなければ理解しえないものをそのまま素直に実践してみるということができるということです。

本来の正しい評価というものは、実践による真実が的を得ているときにお互いが暗黙知の場所で理解し合うものです。それは師弟が察する中で掴み合うように、同志が苦難を伴にする中で握り合うように、確かな絆の中に存在しているように思います。

実践できるというのは、自分を大切なもののために変革しようとする素直さ、そして自分から大切な目的のために学び直そうとする謙虚さが合わさっているのです。

つまりどんなことも実践なくして評価なしということでしょう。シンプルに言えば、物事はやってみなければわからないということです。

実践の影響を与えるには、まず自分から真っ新な心でチャレンジし取り組んでみなければ誰にも何にも説得力もありません。誰かのために自分が実践することは、進んで大義のために自分を捧げる真心に似ています。その人のことを思いやるなら、自分から実践を積んでその人のためになるくらいの真心を持ちたいといつも思います。

個人の能力が高いというのもまた不足のないという意味なのでしょう。不足のない有り余る豊かさと引き換えに大切なものを見失わないでいたいものです。

実践できる有難さを感じつつ、今日も一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

 

循環の学び

時代時代にはその時代のルールのようなものがあります。

たとえば、現在でいえば大量生産大量消費がルールでありその中でゲームをするかのようにその中身を競うようになっています。かつては少量生産少量消費や、大量生産少量消費の時代もありましたが生産性の向上によってその消費の質量も変化していくのです。

簡単に言えば、機械化や合理化によって大量に生産できることが前提で今の世界は出来上がっています。人口の増加も、経済の発展もそれを下支えしているのは大量に作り出すことができるということが大前提の仕組みがあるからです。

しかしもしもそれが何らかの理由で大量に生産できなくなったら今の世界の姿は一変するように思います。食糧に端を発してその後は様々なエネルギーの枯渇や労働者の減少、また原料の消失などでもしも少量になってしまえば消費はできなくなるからです。

消費にあわせて量を増やしてきたわけではなく、大量生産にあわせて消費をつくっていくのが今の経済ですから生産できない事態が起きることがもっとも問題になっていくのです。

しかし限りある資源を遣い切るような大量生産は次第に生産量が減退していくのは自明の理です。野菜や生産物でも、地力を肥料や農薬でふんだんに引き出して使い切っていますが土や環境も次第に疲弊してその地力が消失してきます。するとそこでの生産ができなくなり、生産力は次第に衰えていきます。

これは野菜や植物だけではなく、動物や人間もある一定以上の過剰な労力を引き出せば次第に生産力は衰えてしまうのです。少子化の問題も、経済の減退の問題も、食糧難の問題もすべては密接にその大量生産の課題に関係しているように私は思います。

だからこそ先を見据えて戦略が必要なように思うのです。

このまま大量生産を推し進めていても、いつの日か必ず資源は有限ですから枯渇するときがきます。枯渇してからではすべてが手遅れですから、如何に枯渇しないかを考えないといけません。

それは別の資源という考え方もありますが、その資源もまた有限ですからいつの日かすぐに枯渇するのです。持続可能な経済というのは、大量生産を転換する経済のことです。循環して一切の無駄を省くような少量生産でも大量消費できるような世界にしていくことです。

そのためには、そのものの価値をそのものの価値のままに活かしきり、それを遣い切っても尚、そのものが別の価値に転じていくような思想が必要です。永遠に無尽蔵に発生している豊富で多種多様な自然を丸ごと活かしきるというような発想です。

ものが豊富な時代から、ものがない時代へと移るときには、大きな転換を迫られます。きっと先祖たちはそれを以前体験し知っていたから循環の暮らしを守り続けてきていたのでしょう。

ここまで来たらもう止められませんが、既成のルールではなく新しいルールを引き直して子どもたちに未来を残せるように精進していくしかありません。どのような好循環を生み出すかは一人一人の生き方にかかっています。

循環の学びを形にしていきたいと思います。

不易と流行

昨日、神崎にある藤崎農園で稲刈りの実践を拝見しお手伝いをさせていただく機会をいただきました。自然耕といって自然に沿ったお米作りを実践しつつ、今の時代のニーズや制度、市場に合わせて最高品質のお米を提供しています。

今まで自然農法と時代のニーズを如何にマッチングするか、以前、致知出版社の「致知」で虎屋の記事を読んだことを思い出しました。そこでは美味しいお菓子という経営理念とともにお客様に喜んでもらえるようにするということを書いてあったと思います。

この藤崎農園も、本物のおいしいお米と、如何にお客様に喜んでもらえるかということをテーマに改良改善を繰り返し、見事に温故知新と調和した御仕事をしているのを拝見し大変感動しました。

美味しいお米というのは、感動するお米だそうで如何に感動するお米にするかを改善を今なお追求するのを貫徹されております。同時に、どのようにしてお客様を喜ばせることができるかに全く一切の手抜きもなく、あくなき探究をし続けておられます。

それは訪問時のホスピタリティの質の高さ、また暖かいおもてなしにいつも実感しています。不易と流行というものを実感させていただくことができる素晴らしい一日になりました。私たちのミマモリングも、ここから学びしっかりと吸収していきたいと真摯に気を引き締めたいと思いました。

私たちは世の中を変革しようとしていますが、その世の中に活かされているのも事実です。世の中は敵味方ではなく、世の中の中に一緒に暮らす仲間なのだからどれだけ自分が好循環を生み出せるかというのが社會貢献でもあります。共生するから貢献するのですが、貢献してはじめて共生しているともいえるのです。

共生も貢献も、悪循環と好循環があるものです。

如何に自分が社會に好循環を生み出せるかに、未来の人たちへの推譲があるように思います。時代に合わせながらも本質を守り、自己変革と創意工夫という両輪が正しく回転していくことが大切だということを学び直した気持ちです。

今、現実に生きているのですから自分の生をどう使うかはとても大事なテーマです。その時代と一体になるというのは、時代の変化に対して順応しつつも、時代の変化の中でも本物本質を追求し続けているということです。

あの不易と流行を説いたのは松尾芭蕉ですが、その時代に為したことと生き方が今の時代の私たちの時代と生き方を創っています。時間をかけて時代は練り上がってくるものですが、その時代を真摯に改善し改良した人たちの御蔭様で私たちは本物を知ることができています。

本物を守り抜くこととと人間を仕合せにすることは常に一円融合し調和しなければならないということです。

特に私たちの御米は祖神、神話の天照大御神が与えてくださった大切な主食です。守りたいもの守り抜くもの、その守の御蔭様にある真心を澄ませ続けて継承継続できる世の中を育て守りたいと思います。

 

円仁観~真心の循環~

今朝から稲刈りの準備をしていますが、人生に秋が深まっていくのを実感します。

丹精と自然に実る御米に御法の本質を心が直感します。

二宮尊徳に下記の道歌があります。

「一円仁 御法正き 月夜かな
田畑乃 実法今宵の 月夜哉
仁心に 民のこころの つく世哉
仁心に 民の心の 月夜哉」

これは自然に実るということがどういうことかを二宮尊徳が月夜の観察によって得られた心境を詩に詠んだものです。

この「一円仁」の世界というのは、偉大な慈しみに満ちた世界です。

月夜というのは、慈愛を示すように思います。夜の闇を、太陽の光を受けて反射して光り、穏やかにすべての生き物たちを包み込み見守り癒していきます。きっと活動の側面としての静寂の中に、万物を活かす「真心の循環」の世界が存在することを自覚した詩なのでしょう。

私にとっての一円仁とは、真心が丸ごと一体に結ばれ繋がっている世界に居るということです。人は思いやりをもって生きれば、すべてを好循環させていくことができます。

この好循環というものは、思いやりを根幹にして物事を自然にしていくという意味です。そしてそれが今の時代に紛争が止まず、欲望の果ての祖神の智慧、その大祓の方法として月夜の恩力と恩恵をいただく必要な時代だと私は確信しています。

月夜というのは、陰徳の世界です。

陰徳は月夜の観察によって得られるものですが私たちカグヤのシンボルマークの月もまたこの一円仁の世界の意味を示す月世のことを照らすために創造されているものです。

自然というものは、私たちにすべてを教えてくれます。太陽と月と地球がありますがこれらの三位一体のうちのもっとも一円にするものは月であると思います。

昨日も新しくはじまった結の実践に、御蔭様の手応えを感じました。

子どもたちと一緒に自分の直感を信じて、円仁観に近づいていきたいと思います。

現実とは何か

物事は頭で考えているようなことはほとんど起きていないということを思うことがあります。それは実践をするときいつも思い出すのです。

人間は頭で考えている中では自分の価値観や思い込みによって勝手に空想した世界を思い浮かべているものです。自分の都合のよいことばかりを考えていては、どこか現実とずれている感覚にはならないものです。

実際に現実を直視したら、どうしたらいいではなく何を実践するかに変わります。なぜなら現実を変えるには妄想ではなく具体的な行動を変えなければならないからです。具体的な行動を変えるというのは実践をするということです。

なぜ人は実践するものが必要かといえば、現実の真っただ中にいなければ実際の現実を自分自身がありのままに受け止めることができなくなるからです。そして現実の中にいるということが前進するということです。人は成長をするというのは現実の中ではじめてできます。

そして現実とは何かといえば自然のことです。

ここでの自然とは自我(妄想)と自然(現実)というように定義してみます。人は自我が強いほどに妄想に捉われ、自然であるほどに現実の中にいます。簡単にたとえると、自然の中ではいくら頭で野菜や作物を育てようと思っていても育ちません。実際に手をかけ丹精を籠めて育ててみなければ野菜も作物も育つことがないのと似ています。

つまりは自然(現実)の中での出来事とは、すべて実践することではじめてなるのです。考えているだけで実践しないのが一番よくないといわれる理由は、それだけ自我に捉われ妄想をぐるぐるとまわすだけになるからです。

実際の自然というものは、その字のごとく自ずから然るがままです。そこに対してどのように対処していくかに、現実を変えていく仕組みがあるのでしょう。

ヨハンゲーテにこのような言葉が残っています。

「いつも、自然は正しく、自我が誤まる。もし、自然に従がうことが出来るならば、
すべてのものは、自然に、成し遂げられる。 」

自然に従うというのは、気付いたら実践に移していくという意味でしょう。内省をして過ちに気づいたら新たな実践を形にしていけばいいということです。

そしてこう続きます。

「時を短くするものは、実践であり、時を長くするものとは、怠惰である。」

怠惰は自我に捉われ、実践は本質を捉えるということでしょう。だから為すべきことが為るのです。「生きているうちは何事も延期するな、なんじの一生は、実行また実行であれ」とも言っています。

時は早く過ぎ去りますが、実行して積み重ねた量だけが未来を創造するのでしょう。怠らず努めなければ何事も成就しないということです。

最後に現実とは何か、ゲーテはこう言います。

「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」

現実を直視しようとすれば、人はありのままであるがままの世界を受け止めなければなりません。自分に都合が悪いことや、世界の矛盾のあらゆるものを呑みこみ消化していかなければなりません。しかしそこにはじめてそのうえで自分がどうあるべきかという理想に出会えます。

そしてひとたび理想(理念)が現実の直視から練り上がったならばあとは「現場実践」を行うのみです。現場と実践を足して現実の真っただ中です。妄想で人生を終えるのも理想で終えるのもその人の生き方次第。

今は教科によって頭でっかちになってしまった世の中ですが、周りに流されず淡々と粛々と地道を歩んでいきたいと思います。現実の中にある楽しみや歓び、そして豊かさを味わい尽くしていきたいと思います。

 

 

 

実践の重み

今の時代は児童養護や教育や保育など、言葉で仕事が分業し分類されています。省庁も厚労省や文科省で分かれ、そのことから色々な弊害が出ています。ヨーロッパの視察でも、今は省庁が融合し子ども省というように、分かれているものを一つにしていこうとする動きがある中で私たちの国はなかなか変わることができません。

それぞれの利権や今までの絡み合った関係を紐解くのが難しいからかもしれません。しかし現場では、そのことで大変面倒なことになっています。

そもそも物事は分けて考えられないくらい密接につながっています。福祉や教育というものもわかれておらず、教育が改善されなければ福祉も改善されません。その関係は前足と後足のように前後しているもので、歩めばお互いに一歩一歩バランスよく足を出していかなければならないものです。

それを片足だけで進もうとすればすぐにコケてしまうのは自明の理です。しかし実際は、お互いに前足のせいだとか後足のせいだとか文句を言っては前に進まずに停滞するというのが現状のように思います。

もっと全体へ視野を広げ、何のための行うのかということを共有し語り合い全体システムを変更するようなことが必要な時代ではないかと痛感しています。部分ばかりを変えようと固執するのは分類分けられた場所でのみ考えようとするからです。縦割りか横割りかではなく、そのものの本質からそれぞれの分野分類の人たちが集まり全体システムを考えることなのでしょう。

そのためには対話が必要です。ただの対話ではなく、お互いを尊重し認めるといった対話です。しかし今は、お互いがいがみ合いお互いの業界の批判ばかりが目につき本来の大きな目的のためにと協力することがなかなかできないものです。人間はいつの時代も相手と協力する前に自我に負けてしまうのでしょう。自分に打ち克ってでも全体を優先しようとする人たちがいなければ時の流れに準じて変化することができないのです。

かつて坂本竜馬やその周囲のリーダーたちがやったようにもっと大きなもののためにと絵を描ける人物がなかなか出てこなくなったのかもしれません。自分の人生や世代よりも大事なことのためにのみ人は自我を超えられるのかもしれません。しかし時代がそういうものを顕現させるとしたら、今は焦らずにじっくりと時を待ちつつも休まずに自分のできる実践を積み上げていくしかないのではないかと感じています。

世界各地の諺や故事にはどこも「子どもは宝」だといわれ、子どもを大切にする国は永続的に発展繁栄するといわれます。子どもが大切にされるというのは、子どものことを大人たちがしっかりと考えて子どもたちに善き世界を譲っていこうとする思いやりのある社會が実現されているということです。

それは本来は国民国家みんなで真摯に真心で行うことのように思います。仕事でやることでもありません。なぜなら子どもは親からされたことを自分が親になり子どもにするようになるものです。そうやって真似も連鎖していき子どもは育っていきます。だとしたら、どのようなことを親(大人)が子どもにしていくかというのは将来の子どもたちがまた子どもたちへしていくことになるのです。

だからこそどのような生き方をしたか、そして何を譲り遺したかということは未来そのものに直結しているように思います。自分たちが実践する理由は、別に無理にやったりやらされたりとか感情論で語るものではなく、本質的に何のために行うのかを深めているから実践を積み上げていくのです。

一つ一つの実践が如何にどれだけの重みをもつのか、それは真の目的を忘れずに取り組んだものだけが知る志を実現する世界です。今日の実践も、明日の実践も、大河の一滴かもしれませんがそれが集まって大海になることを忘れずに本気の目的のために人生を遣い切っていきたいと心新たにする体験を得ました。

やらない人はすぐに人の批判ばかりをしては実践をしようとはしませんが、そんなことも言っていられないほどに現実は厳しさを増しています。現実を直視し、本当の理想の実現のために今日も大事に実践で世界を改善していきたいと思います。

対話と平和

人間には偏見というものがあります。たとえば、大人だからとか上司だからとか、男だからとか、先輩だからとかいろいろと一般論で決めつけられ思い込まれていることがあります。

他にも職業でデザイナーだからとか、経営者だからとか、職人だからとか、こういうものだろうと分類分けしてはその人の中で仕分けしてしまって本質まで確認されることがなかったりします。

人は先に教え込まれた知識や、こういうものだろうと経験もしていないのに脳で処理して理解してしまえば勝手に思い込んでいることがほとんどです。そしてその思い込みのほとんどが疑心暗鬼によるものです。

自分に都合の悪い現実を受け止められなかったり、自分が忙しいときに余裕がなかったりすると心が閉じていきます。心が閉じることで話を聴かなくなります。話を聴かないときは対話を避けるようになります。対話を避けるから決めつけてしまうのです。

人は「信じる」という心をオープンにすることができていれば自分から対話をして心を開いていきます。しかし心を閉じているうちは対話ができず、どうしても不信から疑い決めつけるのです。

人間にとって対話というのは何よりも重要で、お互いのことを理解するためには必要不可欠のものです。昔は、私も対話を避けて通ろうとしては数々の失敗を繰り返してきました。

相手に確認もせずにきっとこうだろうと思い込み、相手に自分の都合を強要しては相手の反応をみてはまた決めつけるということを繰り返していました。そのことから誰も信じられなくなり、より対話を避けて一層孤独になっていくという経験をしたこともあります。

本当は一緒に楽しくやっていきたいのに、実際はそれぞれが対話をせずに能力のみを使って個々でバラバラにやっていく方が楽だという方を選んだ時期です。楽なのは信じなくてもいいからです、最初から疑っているから能力だけで仕事をすれば何も言われないしそれで済むから目に見てわかりやすかったからです。そういう仕事は結局は作業のようになるから面白くなくなってきます。そうなる自他もみんな無機質な関係で一緒にいる意味も感じなくなっていくのです。

そういう体験から、対話の大切さを実感しました。

対話とは信じることであり、信じることは聴くことです。この聴くというのは、聞くというのとは違い、耳に徳の字が合わさっている字です。恥という字もありますがこれは耳に心が合わさっているのです。

つまりは聴くというのは、自分が許されて聴く、許して聴くということであり、一言でいえば「認める」ということです。畢竟、対話というのはお互いを認めることであり、お互いを認めることができてはじめて信じるとなるのです。

心を閉ざしている人は、なかなか自分以外の人を認めません。もしくは自分のことすらも認めていないのかもしれません。認めるというのは、あるがままを丸ごとを認めることですが耳を澄ましていかなければそれもできません。

私たちが一円対話を行うのは、心で聴く、心に聴くといった心を使い信じる実践を大切にしていこうとすることで世の中を真に平和にしていこうとする願いを籠めて行っているのです。

みんな心があるのだから、相手の心を感じることで相手と一体の世界に生きることができるのがいのちの証拠です。いのちは粗末にしないといったのは先祖ですが、それはお互いに心を通じ合わせることが大切だと教えてくれていたのです。

物が増えたって、忙しくなったって大切なことはいつまでも大切なことです。大切なことを忘れないような実践が、子どもの未来に仕合せを推譲することだと信じています。

またいつまでも人が争うのは対話をしなくなるからです。

世界は今、もっとも対話が必要な時期に入っています。世界はそれだけ悲しい紛争がなくならず、悲惨な戦争が続いているからです。子どもたちには対話の大切さを大人たちの後ろ姿をみせることでいつまでも忘れないでほしいと思っています。

私たちが対話にこだわるのは、「人類皆兄弟」である証としての対話こそ人が人を信じられる世界を創造する先祖代々から続けているもっとも調和する方法だと確信しているのです。誰も孤独にならない世界、一緒につながりの中で楽しく豊かに信じ合っている世界、日本の神話にあるような世界を今に取り戻したいと思います。

 

一点一転

かつては色々な知識を覚えては、何が正しいかという物差し(価値観)に縛られとても苦労しましたが見守るという言葉に出会ってからそれまでの考え方が転換されました。

人は正しいかどうかという判断でのみ行動すれば必ずその矛盾に耐えられずに追いつめられていくものです。また右か左かといった相対のどちらかという価値観にいたら必ず対極を生み出しては争いがつきないものです。

結局は、どう折り合いをつけるかということでありそれをバランス感覚ともいうように思います。そのバランス感覚というのは、正しいかどうかでは持てず楽しいかどうかで持つことができます。

そしてこの楽しいかどうかというのは、言い換えれば発達するかどうかということです。

人が発達するというのを簡単に言えば、やらされているときはものにならず、自分からやらせてくださいと主体性を発揮したときはじめて楽しいという境地に入るのです。

人間は誰しも主人公です。それは自分自身がこの世界を観ているからです。そして自分自身の観方によって世界をどうにでも変えていくことができるからです。外側の世界が変わらないと嘆くよりも、自分の観方を転換して世界を変えていくことができるのです。つまりは人は感じ方次第でどうにでも発展させていくことができるともいいます。

子どもたちにはその力が最初から備わっています、英字ではイマジネーションといい、漢字では想像力といい、私の言葉では「毘(び)」と呼びます。

発達するというのは、そのものが自分の内面の変化によって内省をし、物事の見え方を縦横無尽に転換する力、すべてのものを一円融合し善いことに換えていくということです。

楽しくしていくというのは、一つの生き方ですが楽しいと思えることを伸ばしていくことで人は必ず発達し目的に辿りつくように思います。こうでなければならないという正しいは不安と迷いを育ててしまいますが、こうなった方が楽しいというのであればそれは安心と信頼を育てます。

見守るという言葉の素晴らしさは、○○メソッドのように正しいことを要求してくるものではなく楽しいことを実現する言葉です。かつての他の日本語も同じく、もったいない、ありがたい、おかげさま、等々すべては「楽しい」ことを実感する言葉です。

その方向性の方が好きになれる、その方向性の方が間違っていない、そういうものを社會に広げていくことが子どもたちに仕合せな未来を譲っていくことのように私は思うのです。

私たちの行う志事は、その一点と一転に集約されています。それが職場を清明るくし、そこで暮らす人たちを正直にし、子どもたちの好奇心を助けることができます。

カグヤの目指す理想は、楽しいを広げていくことです。思ったことが言える社會、やりたことを見守ってくれる社會、信じ合う社會を新たなチャレンジにより醸成していきたいと思います。

子どもの発達事例~方向性~

人はよく見て観ると何がしたいのかというのを発信しているものです。

今は知識が増えて、無理に自分のやりたいことをその枠の中で考えてしまうものですが本来、子どもの頃は自然に自分のやりたいことを発信していたのです。それは遊びを通して遊びの中で学んだことを思い出すのです。

幼いころ、なんでも興味がありどんなことでも面白いと好奇心のままに夢中で遊びました。特に子どもの頃は、ありとあらゆる想像力がハタラキ、現実と夢の間がわからないほどに目の前の出来事や事物から想像することができました。

ひとたびやりたいことが何かに阻害されると、意地でもそれをやり抜きました。自分が何をしたいのかを知ることは無上の喜びだったからです。自分がやりたいことをやっていると安心しました、それは世界が面白かったからです。

たとえば、生きていくために必要な力を動植物は持っています。狩りの仕方から、求愛の仕方、集団形成の仕方、そういうものを子どもの頃から遊んでいる中で身につけていきます。

動植物は人間のように無理に勉強しなくても、本能の中で生きる知恵を学ぶことが面白いようにインプットされているのです。そのインプットされているものは好奇心によって引き出されます。

発達していくというのは、好奇心を見守ることです。その人が本当にやりたいと思っていることをさせてあげる、信じてあげるということです。時には大人には都合の悪いこともありますが、子どもにとってはそれはとても重要な場合が多いのです。

人はこれでいいと信じられるとき、それでいいと信じてもらえるとき、はじめて自分の中の想像力が開花していきます。教えられていない知識、教えようがない知識によってはじめて知恵というハタラキを実感できるのです。

信じるということの偉大さというのは、その人の生を全うさせてあげたいという慈愛と真心の発露です。教えなくてもその人は立派な存在ですから立派になります、しかし周囲に真似できるような立派な大人がいる場合に限りです。だからこそ子どもの周りには好奇心を忘れずに人格を高める大人たちの見守りが必要ということなのです。

子どもは正直でその生に一切の嘘がなくあるがままですから、そのままでいいと信じることで安心して発達していくのでしょう。文字がなかった時代から、私たちが受け継いできた言語は「発達」です。

自然に種を残すのも、自然に生き方を継承するのも、言葉や文字ではなく本能によって行われてきたから今を生きているのでしょう。

子どもの周囲に自然をつくることは、好奇心を信じてあげることです。自然のままでいいというのは心構え次第ですか実践を深めていきたいと思います。