自分の選択

人生というものは選択と決断によって今を切り拓いていくものです。今というものを振り返ってみるとそれは過去の一つ一つの自分の選択の結果が今にあるということです。あの時、違う選択をしていたらどうなったかそれは今を見れば想像がつくと思います。今が幸せかどうかというのは、過去の決断が今になっていいことになった、いや「善いことにしたか」というそれまでの自分の決断に伴う努力、その生き方や生き様が問われています。

人は一つの人生において自分ではどうしようもないことも発生します。また自分が思っていること以上のことが起きて自分の判断ではどうしようもないこともあります。そういう時、考えを超えて心の声に従うことや、魂の疼きに従うというような決断があります。

人は自分というものを考えるときに、自分の中にはたった一人の自分がいると思い込んでいますが自分の中にはもう一人の自分というものがあると私は思います。言い換えるのなら、心や魂といった生死を度外視して全体と繋がっている自分。それと自我や感情などと欲求や欲望を持っている個としての自分我です。このひとつのカラダの中に同居する自と分があるから人は悩み苦しみ迷い、常に今の選択をしていくなかでシーソーのように自己との対話が発生するのです。

自然界の野生の生き物たちにはこの自と分は分かれてはいません。そのものとして丸ごと一つになっているからおかしな行動も選択もありません。それは自然体のままであり、あるがままです。しかし人間は教育によって自我を持ち、自然とは「分かれて」自分というものを認識させられ持つようになります。それは本来なかったものです。先住民族や言葉を持たない文明とかけ離れた暮らしをしている人間たちはそういうものがありません。名前も持たず、上下もない、自然に地球に習い家族を形成し助け合って暮らしています。

私達はこの「個」というものを知り、人間文明を独自に創りあげてきました。それは過去の自分たちが選択をすることで今の社会を築き上げてきたとも言えます。時は流れ、時は進み、加速度的に私たちの選択した文明は地球全土を覆いました。今は、大量生産大量消費の中で誰もブレーキをかけることもなく自転車操業のように走り続けている世の中であって選択をする自由すらも失われてきつつあります。

人は心の声や魂の疼きを体験することで、自分ではどうにもならないような運命や宿命、そして定めのようなものを直感することができます。時代や時に関係なく、そのものが地球全体の循環の中でどんな役割を持っているかを自然とのつながりによって実感するのです。

人間が地球と一体になり風土に原点回帰しその中で文明を弁え生きることが出来たのならば、この今の人間文明の終焉の姿を変えてしまうことができるかもしれません。人間が本当に人間らしく生きる世の中というのは、頭でっかちになり個がバラバラに生きていく世の中を広げることではなくそれぞれが心でつながって共に生きていく世の中を広げていくことです。そうすれば無理にこぎ続ける自転車の回転を古来の水車のように緩やかに回転させる日も来るかもしれません。

人類は今、大きな選択を迫られています。

この今の選択が未来の今を創造するからこそ、自分が今選択し決断することを後悔したくないと思います。子ども達の未来は、今の私の決断と選択が決定づけます。常に選択を誤らないよう、本当の自分自信、あるがままの自然体になって世の中で自分の役割を全うしたいと思います。