後世に糸を紡ぐ

聴福庵に布団を入れていますが、昔の懐かしい木綿布団をつかうことにしています。今ではほとんどがベッドでの羽毛布団が中心になりかつての馴染み深い木綿布団が消えていきました。私の小さい頃に、東北の母の実家で寝た木綿布団の感覚が忘れられません。確かに最初は冷たくまた重いのですが、布団に入ってから寝ているとなんともいえない心地よさに布団の有り難さを感じたものです。

今ではほとんどが布団は使い捨てになり、かつてのようなお仕立て直しや打ち直しというリサイクルや循環のシステムも一緒に失われました。安価でポリエステルなどの化学繊維が混ぜ込まれ次第に本物の木綿の品質も下がってしまいみんな木綿から遠ざかってしまいました。これは日本酒が純米酒から醸造アルコールになり発酵させずにアルコール添加に換えたことで次第に日本酒から遠ざかり西洋のお酒ばかりが人気になり昔ながらの酒蔵がなくなっていたのと同じ仕組みです。

大量生産大量消費、効率優先の社会では安くて大量に売れる便利なものを扱うことが価値があるような価値観に埋め尽くされています。数と量の論理ですから、少量生産少量消費、手間暇優先という昔から大事にされてきたものづくりの真心は全否定されてしまいました。

そうしているうちにかつての伝統まで絶滅に追い込まれ、後を継ぐ人もいなくなり技術も精神もまた品質も一緒に消えていきます。いくら物は今の技術で近づけても、かつての生き方は近づけることはできません。そろそろ豊かな社會の創造に向けて私たちはその生き方にお金を払う時代になってもいいと思います。

木綿の話に戻ります。

木綿というものは、アオイ科のワタのまわりにできる白い綿毛からとれるものです。このワタは古代からずっと人類が活用した道具で紀元前8000年くらい前の遺跡からも出てあるそうです。日本では799年に三河国へ漂着したインド人によって木綿布が伝来したと日本後記にでています。そして日本では戦国時代以降に急速に普及したといいます。

木綿が流通するまでは麻を使って着物などにしていましたが、麻は冬は不向きでこれを何枚も重ね着して寒さを凌いでいましたが木綿の御蔭で冬は暖をしっかりととれるようになったとも言えます。それに日本の風土は高温多湿でこの木綿はとても湿気を吸い取ってくれます。乾燥も早く日本の風土に適した繊維なのです。羽毛においては湿気をためる性質もあり、今のように気密性の高く空調が整備されている室内においては便利ですがかつての隙間の多い自然と一体になった家屋の暮らしの中では木綿がとても理に適った繊維だったのです。

その後、明治以降は輸入木綿が中心になり高度経済成長と共に日本国内の木綿は失われていきました。和布団もまた、畳や木造、和室の減少と共に次第に洋物に変わっていったとも言えます。

現在、古民家を通して暮らしの再生をしていますがかつて職人たちに手作りされたものはそのものの素材と対話しその素材の持ち味を活かし切っていました。今では大量生産し同じものを画一化してスピーディに効率よく機械で生産するようになってそのような持ち味や旬などと言った言葉も死語になってきました。

すべての自然素材には旬と持ち味があります。こういうものは同じく人間の個性にもあります。同じ人間を大量につくり大量に消費する、顔の見えない使い捨ての文化は決してモノだけにおきている出来事ではありません。自分たちが同じように扱われたくないものを自分がやっていては次第に自分の価値観もそのようになってしまうかもしれません。

古来からの素材を活かした大切な道具を、如何に今の時代でも活かして使っていくかはその人の生き方が決めます。伝統が大切だとか継承が大事だと色々といいますが、日々の暮らしの実践がどうなっているのか、自分自身の生き方をまず転換する必要を私は感じます。

引き続き子ども達に遺し譲りたいものを磨き直し、後世にその生き方の糸を紡いでいきたいと思います。