暮らしを祀る実践

御祭りの体験からいろいろと現代社会のことを省みる機会が増えています。都内だけではなく全国各地では年々御祭りに参加する人も少なくなり御祭りが次第に廃れてなくなっていくところが出ているともいいます。人口の減少、少子高齢、過疎、都市化、神社の荒廃と共に、お祭りができなくなっていくところや伝統の価値が消失し人気が失せて続けられなくなったところもあります。

かつて日本では御祭りというのは暮らしの年中行事であり、当たり前に実施されていたものです。お米づくりにはじまり収穫祭、その他の穢れを払う年中行事のなかであらゆる御祭りは神事として皆で大切に執り行われました。

今では御祭りはかつての伝統の神事としてよりも経済活動や一過性の地域活性化の企画としてイベント化しているところも増えています。イベントになってしまえば企画次第ではやったりやらなかったり、それまでの御祭りの本質を歪めてしまっています。

本来、先祖たちが当たり前に大切にされてきた感謝報恩の御参りやいつも心を澄まして周りと助け合い思いやりを和を優先していこうとした生き方などが行事を通して実践していたのです。しかし今日では、その実践することだけが失われてしまったということです。実践というものは初心を忘れないために行うものですから、実践しなくなればすぐに初心は失われてしまうのです。

そしてこの実践というものは一過性の経済効果や結果だけをみて一喜一憂すればいいというものではありません。実践は、初心を忘れないために続けていくことや省みること改善することを通してその体験は何だったかをそれぞれが自己の内面と深く対峙してその体験を積み重ねてその本質を磨き昇華していくことです。それは真玉磨きであり、魂を高め真魂を透明に澄ます日本民族の思想根本と繋がっているのです。

そして日本の御祭りにおいては更に「和」の心を尊び、自然に沿った道を歩んでいこうとあらゆる御祭り行われてきました。また穢れを払い、洗い清めれば和楽が訪れるという神話の歴史で語り継がれてきたような体験をいつまでも忘れないように実践で伝承し継承されてきました。

今ではその初心伝承をするためというよりも、集客力があり経済効果があるイベントとして主催者が一方的に行っているものになりました。御祭りは地域の人々みんなが参画して感謝のカタチをいつも見守り鎮守してくださっているその土地の神様に示すものです。

本来は御祭りは自分の暮らしにとても密着していたものです、暮らしが消失しているからこそ御祭りもまた消失していきます。政府は「働き方の改善を」と言いますが、実際に暮らしが仕事と切り離され、働くために仕事をする人ばかりになってしまった今日、かつての先祖たちのように暮らすために働く人がどれだけ増えるかは政治の在り方と人々の生き方に懸っています。

神事と共に暮らしていく豊かさというものは、御祭りを通して再認識できるものです。先祖たちが今まで私たちに繋いでくれたもの、今の自分たちを下支えしてくださっている存在、それまでのさまざまな御恩、暮らしはそういうものとつながって生きていく私たちの人生の実践であるのです。その暮らしは年中行事に顕れていますから御祭りはその「暮らしを祀る実践」ということになるはずです。

引き続き、何が日本人で何を実践するのが日本なのか。視野を広くして深めてみたいと思います。