物事の見方~人生の道~

物事というものはその見方というものが存在します。同じ出来事があったとしても人によってその受け止め方は様々です。私たちは生き方と働き方の一致を実践していますが、実際はそこが分かれてしまっている人が増えていろいろと生活が大変になっている人が多いように思います。

よく公私混同の話がありますが、本来は公私ではなく人生で考えれば公私などと別に分ける必要はありません。しかし実際は、これはプライベートだからとかこれは公だからとか一つの人生を自分の都合のよいように分けてはかえってバランスが取れずに大変になっています。

人生というものの尺度を物事を測ってみれば、どれも自分の人生なのだから正直にやっていくことがもっとも道に相応しくなっていくように私は思います。物事の判断基準というものは、一般的には自分というものを中心に左右に分けていきます。自分にとって損か得かと考えるということです。自己実現などという言葉も、自分というものを中心に考えれば自分の思い通りになったことが自己実現ということになります。しかしそれは単なる自己満足であって自己実現ではありません。

ではどうすれば自己実現になるのか、それは全体の中で自分が役割を果たせたり、全体とのつながりの中で自分自身がその循環の一部になっていくというように自然の一部として自分が周りから活かされる存在になっていったとき自己が実現されたということになるのでしょう。常に思い通りに人生を人生と呼ぶのではなく、思う通りではないけれど思っていた以上のものがあったというのが人生の醍醐味だと思います。

そして実際にその判断基準を転換していくためにも「物事の見方」を換えていくしかないように私は思います。小林正観さんに「見方道の家元」という言葉があります。本来は家元というのは一人なのでしょうが、正観さんは見方道はたくさんの人たちが家元になれると言います。その一つに「ありがたい」と感謝で観るという見方の話がでてきます。

そこでは私たちが住んでいる国は、三つに分かれていると言っています。一つ目の国は「悲帝国」(ひていこく)「悲しい」は「非ずの心」と書きます。非ずの心とは「そうではない、そうではない」と思う心です。コップに水が八分目まで入っていても「八分しかないじゃないか」と否定的に考える人たちの国です。

「悲帝国」の住民は目が見えているだけでも十分に幸せなのに「もっとどこかに幸せがあるはずだ」と満たされない心で生きているそうです。

これはないものねだりであるものを探そうとしない、自分探しはしているけれど自分にあるものを見つけられないこれらはとても否定的であるということです。

そして二つ目の国は「好帝国」(こうていこく)この国の人たちはどんなことがあっても「嬉しい、楽しい、幸せ」と肯定的にとらえる明るい人たちの集団だそうです。

これはあるものを見つけて感謝する、なんでも前向きに受け止めて前進するといったポジティブで肯定的な人たちということです。

そして最後の三つ目の国は「ありが帝国」(ありがていこく)。コップに三分目までしか水が残っていなくても「誰かが三分だけ残してくれたありがたい」と感謝の心でとらえる人たちの集団だそうです。

この「ありが帝国」の住人は自分以外のものにも手を合わせ笑顔で「ありがとう」を言い続けている人たちですから謙虚に穏やかに生きて楽に、楽しく生きている人たちになるそうです。

これは私が言うと「どんなことがあっても好いことへと転じている生き方」の人たちです。禍転じて福にしている生き方、どんな人生であっても自分の人生なのだからと感謝で生きている達人たちのことです。今ここにあることが感謝、今生きていることが感謝、今、活かされていることが感謝と、感謝感謝が人生そのものになっています。

私はこの見方ということが充実した人生において何よりも大切だと思っています。なぜなら人生は一度きりであるし、二度とない天与の人生です。その人生をたいせつに味わうには生き方を変えていくしかありません。生き方を変えていけば自ずから働き方も変わっていきます、そうなれば公私混同しても公私一体になっていくだけですからそのうち生き方と働き方は一致して丸ごとの人生なっていくのです。

つまりは方程式のように書けば、人生=生き方+働き方×見方ということになるのでしょう。

どの国に生きていくかはその人が決めていますから、自分がありたい方へと素直に舵を切っていくのは、「分けない」という実践を続けていくことで実現していきます。いろいろと周りは言いますが私は信じる人生の道を歩み、「ありが帝国」を子どもたちのためにも広げていきたいと思います。