一緒に手伝う

お互いに活かしあうというのは、協力して手伝い参画するということです。その際、「手伝う」ということは何よりも大切なことになります。大辞林には「 他人の仕事を助けて一緒に働く。手助けをする。助力する。 ある原因の上にさらにそれも原因の一つとなる。」とあります。

しかし刷り込みが深いとこの手伝うという本質が歪んでしまうことがあります。それは手伝うか手伝わないかで手伝うという言葉を認識しているかどうかです。手伝わないよりもましだからと思って手伝っているのは、主体は相手にあり自分はそれをサポートすればいいという感覚です。よく上下関係で手伝ってこれと言われ、その指示命令通りに事をしそれに応えるのが手伝うという認識です。またほかにも、相手が責任もってやるのだからと自分は手伝うところだけだと分けて手伝っている認識も同じです。

本来の手伝うとは何かということです。

本来の手伝うとは「一緒にやる」ということです。それは相手か自分ではなく「自分も一緒にやるから手伝ってくれ」という姿勢でお互いが助け合うことによってはじめて手伝っては成立するのです。つまりは主体的にそれぞれが自立して、自分ごとになっていて相手に手伝ってほしいとお互いに積極的に関わりあう中で本当の手伝いになるのです。

言い換えるのならどちらかがやっているのではなく一緒にやっているということです。

よく働きアリの話が出てきます。アリの中で何割かはハタラキ、何割かは楽をするという話です。一緒に働くアリは、常にお互いを手伝って組織の中で必要不可欠な存在になります。しかし働かないアリは、あえて全体のために働きすぎないようにバランスをとるという話です。これは自然が生み出した一つの仕組みですが、人間の場合は管理され使われること前提でもしも刷り込みによって知らず知らずに楽を植え込まれ、都合の良い便利な人に洗脳され本来の主体的や主人公などといった生きていくうえで共生する仕組みも失ってしまったら誰かと一緒にやる面白さや仕合せまで手放すことにもなってしまいます。

本来、手伝うという意識は自分がやることが前提になっているものです。それぞれが自分がやることになっているからこそ「手伝う」は成立するのです。誰かがやるのを手伝えばいいという考えはそれは決して手伝っているのではなく、自分を分けていますから一緒にはならないのです。

自他を分けるというのは、一緒にならないということです。もしも同じ理念で同じ目的、志も似て協力したいと心から思うのならまずはじめに捨てなければならない刷り込みはこの手伝っていると思っている勘違いでしょう。手伝うか手伝わないかではなくどれだけ「一緒」にやっているか、どれだけ他人事にしていないか、それを先に自らに問う必要があります。やらせるやらされるの関係の中では本当の意味で協力していることにはならないのです。

最後に、社會というものも同じで一人一人が参画するからはじめて協力し豊かで幸せな暮らしをみんなで享受できます。しかしそれは誰かがやるだろうと単に待っていればいいのではなく、自分も一緒にやるんだと決意して甘えを捨てて手伝わなければ世の中の手助けをしているどころか足を引っ張り合っていることになりかねません。

大事なことは、常に「一緒にやっているか」、「前提は自分がやりきることになっているか」と自主自立の姿勢を顧みつつ、自ら周りに協力をあおぎ助けてもらっているという感謝の心が育って御蔭様が観えているかという実感かもしれません。

傲慢な手伝い方は、かつて管理され指示命令によって無理に従わさせられたことの感情が刷り込みとして残っているのかもしれません。主人として幸せに生き、仲間と一緒に歩む喜びを味わうためにも「一緒」に「手伝う」ということだと学び直すことだと思います。気持ちを合わせて一緒にやったときの充実感とお互い様を感じた時の幸せは人生の格別な時間になります。

引き続き、刷り込みをみつめて仕法を学び直していきたいと思います。