道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。