お餅つきの意味

先日、100年以上前の木臼に百日紅の杵と60年くらい前の木製の蒸し器と90年くらい前の銅のおくどさんと鉄のカマドで炭を使い自然農法で無農薬のもち米を蒸して子どもたちと餅つきをしました。修繕を繰り返して年代を重ねてきた古参の道具たちばかりですが、その道具のいのちが相極まって美味しいお餅をつくることができました。

現代では、お餅は買うものになっていますが本来はお餅つきというようにお餅は自分たちでつくるものでした。

そもそもお正月にお餅つきをやるのは稲作文化があるからであり「稲の豊作」を祈って神様にお餅を奉納し一年の豊作を祈っていたからです。そして歳神様が鏡餅を依り代にするとされそのお餅を食べることで神の霊力を体内に迎えることでいのちの甦生をするという意味があったからです。

日本人の先祖たちは、何度もハレの日にはお餅を食べる習慣があります。それはお餅には稲の不思議な力がすべて入っており、縁起が良くそれをみんなでつくり食べることで元氣を取り戻し、仕合せな気持ちになることを自覚していたからです。

機械で簡単につくって食べるお餅と、下準備から丁寧に時間をかけてお餅つきをしてできた餅ではまったく味が異なるのはお餅つきをすれば誰でもすぐにわかります。日本人が次第にお餅を食べなくなってきたのも、シンプルに言えば「美味しくなくなってきた」からだと私は思います。伝統文化もみんな「いいと思わなくなってきた」理由は、みんな本物だったものが本物風になったからです。和が和風に便利さを優先することで入れ替えられてきたということです。

お餅つきは、お餅つきの準備から作るところまでも大切な味になっています。みんなで息を合わせて声を出しながら湯気と活気の中でせっせとこねてはつく、そしてまたひっくり返してはつくというようにその一連の取り組みが美味しさに化けていくのです。

また道具たちも、便利な機械ではなく先人の智慧が入った自然のものでできていると素材を毀さず、いのちをそのまま増幅させ、甦生させていくチカラが入っていきます。改めて、私たちは正月からそのように「和」の空気を味わいながら新年を迎え、その一年の協力と団結、信頼と平和、また元氣や和來を体験することで結束やご縁に感謝するのです。

お餅つきは、日本人にとって大切な伝承文化でありこれを失ってしまうと日本人の甦生に多大な影響を与えてしまいます。私がむかしの道具たちと共に、本来のお餅つきにこだわるのは子どもたちに日本人の思想や生き方を伝承していきたいからです。

現代では、ばい菌が入るとか、不衛生だとかで、ほとんど手に触れずに機械で簡単につくっておいて杵で形だけ1,2回ついたお餅を保育園では食べているといいます。伝統文化を伝承すべき保育園が、本来の行事の本質や意味もわからずに形式的にだけ取り組んでしまえば、伝承はそこで歪んでしまい、日本人の甦生が循環することができません。

私はこだわりが強いからと他人には言われますが、そうではなく本物をやらなければ本質が引き継がれないことを自覚しているだけなのです。行事はそもそも何のためにやるものなのか、伝統とは一体何なのか、そういったものを突き詰めていかないで単に行事をTODOリストを消していくかのようにやっても意味がないどころか、意味が不明になっていくだけだと私は思います。私が本物にこだわるのは義憤があるからに他なりません。

すべてのものには必ず大切な意味があり、伝統が続くのはその意味を伝承する必要があるからです。何百年も前から続けられてきたことは、それだけ先祖たちの実体験と経験によって検証された偉大な価値があったからであり、それを現代の短い間にゆがめて別のものにして捨てることは本当に残念至極なことであり、子孫のためには決してあったはならないことです。

暮らしの甦生は、生き方の甦生ですから子どもたちのためにも引き続き変人やこだわりが強いなどと言われようが本物や本質、伝統を尊重して生きていきたいと思います。