土をつくる

昨日は、2年ぶりに来庵された友人たちと新たな仲間で立春の禊を行いました。この時期の空も清々しいですが、水もまた清らかです。清らかなものに接すると人は清々しくなります。私たちの先祖たちはその清々しい状態を保つ暮らしを知恵として連綿と継続しており、私たちは穢れるよりも先にいつもその初心を忘れないための工夫がありました。

その一つがお手入れであり、清掃でもあります。場を清め、自分を調えていくことはお互いの関係をクリアにしていけます。透過されていく関係の中にはそぎ落とし磨き直す関係でもあり心地よく人間の徳を高め合うものです。

よく考えてみると、私たちの生活する「土」というものとその関係は似ています。土というものは汚れていると小さい頃から教わってきました。何か土を触ったり土がつくと洗ってきなさいと言われました。つい土をよくないもののように認識してきます。

しかし土は私たちの様々な汚れを浄化する存在であり、動物に至っては土を身体に纏って衛生的に給ったり、直射日光などから守っていたりするものです。植物においては、いのちを支えてくれる大切な土壌であり土が保水し菌の住処をつくってくれるから循環しあう環境を創造することができます。

その土というものを如何に創るか、これはとても大切な取り組みになります。

土ができるまでは時間がかかります。それは何度も何度も同じものをつくり、土が馴染んでくれるまで丁寧に実践を続けるしかありません。しかし一度、土ができてしまえば土が私たちを支える大切なパートナーになります。それだけ私たちは土と一体化するのです。

郷土も同様に何をもって故郷と呼ぶのかといえば、この土が中心であることは間違いありません。どのような土で育ってきたか、そしてその土の中でどのような土を食べてきたか。植物も土からできていますし、その植物を食べる動物や虫もある意味で土を食べてきた土の化け物です。

その土に回帰するというのは、自分が産まれ育ってきた土に還るということでしょう。子どもたちのためにも、土を汚す農業や土を穢す生き方ではなく土に還る、土を喜ばせる生き方をしていきたいと思います。

日本の醸し文化

日本には古来から食文化というものがあります。その一つに酒があります。このお酒というものは、日本人は古来より家でつくり醸すのが当たり前でした。醤油や味噌などと同様に、発酵の文化と一つとしてそれぞれの家にそれぞれのお酒を醸していました。何かのお祝い事や、あるいは畑仕事の後などに呑み大切な食文化として継続してきたものです。

それが明治政府ができたころ明治32年(1899年)に、自家醸造が禁止されます。この理由は明治政府による富国強兵の方針に基づき税収の強化政策でした。実際に明治後期には国税に占める酒税の割合は3割を超え地租を上回る第1位の税収だった時期もあったそうです。

そこから容赦なく自家醸造が取り締まられ、高度経済成長期にはほとんどお酒を自分の家でつくる人とがいなくなりました。実際にはお酒以外にも酒以外にも、砂糖、醤油、酢、塩などの多数の品目にも課税されましたがこれらの課税はその後撤廃されていてなぜかお酒だけが今でも禁止のままです。

それに意を反して、昭和に前田俊彦氏がどぶろく裁判というものを起こしましたが敗訴しています。その時のことをきっかけに全国でも、おかしいではないかと声があがりましたがそれでも法律は変わっていません。先進国の中でもアルコール度が低いお酒でさえ醸造するのを禁止しているのは日本だけです。発酵食文化として暮らしの中で大切に醸してきたものが失われていくことはとても残念に思います。

ちなみにこのどぶろく(濁酒)というものは、材料は米こうじとお水を原料としたものでこさないで濾過しないものというお酒のことです。一般的な清酒はこすことを求めていますがどぶろくはこしません。しかしこのどぶろくを飲んだことがある人はわかりますが、生きたままの菌をそのまま飲めるというのは仕合せなことです。

以前、私も生きたままのものを飲んだことがありますがお腹の調子がよくなり仕合せな気持ちになりました。アルコールはただ酔うためのものではなく、菌が豊かに楽しく醸しているそのものをいただくことでそういう心持ちや気持ちになってきます。

つまりは生きたまま醸したものを呑む方がより一層、その喜びが感じられるのです。

現在、宿坊の甦生をしていて明治の山伏禁止令に憤りを感じましたがこの密造酒として禁止した法令にも同じように義憤を覚えます。

子どもたちが食文化としてのお酒が呑める日がくることを信じて、自家でやる醤油、味噌など日本の醸し文化を伝承していきたいと思います。

真心と至誠

節分から立春の間には、私たちは福茶というものを振舞います。これは無病息災を祈り、節分の豆を炒ったものと梅干と昆布を結んでつくったお茶です。梅干しは、英彦山の守静坊のものを使います。梅干は「しわが寄るまで元気に暮らせるように」と長寿と健康を願い、結び昆布は、「睦(むつ)みよろこぶ」といっていつまでも一家和合することを願います。

このお茶の由来は、もともと平安時代の空也上人だといわれます。「六波羅蜜寺が発行する大福茶の由来書には、空也上人が本尊前にお供えしたお茶を村上天皇が病気の際に飲んだら平癒したことや、京都で疫病が流行した時に病人に飲ませたら悉く(ことごとく)治ったことが書かれているらしい。空也上人がお茶の効能で伝染病を鎮めた伝承が基になっているのだが、当時はお茶は嗜好品ではなく主に薬用として飲まれていた。流通量が少なく上流階級しか飲むことができない貴重なお茶を、空也は疫病が流行した際に庶民にも振る舞ったという。大袈裟かもしれないが、空也は民衆にお茶の文化を広めたといっても過言ではないのかもしれない。当時は竹を割った茶筅のようなもので点てたお茶に、梅干しと茗荷(みょうが)を入れて配ったという。」(古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺より)とあります。

この当時、お茶というのは一般庶民では飲むことはできませんでした。冬至の天皇や公家などの階級の人たちが薬として服用していました。それを京都で疫病が流行したとき、観音様に祈りそのお茶の薬を飲ませることで疫病が治まったのです。

この空也上人という人は、空也(くうや )と呼び、平安時代の阿弥陀聖(あみだひじり) 、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも称されます。この聖としての生き方が、その後の僧侶たちに多大な影響を与えた方です。私もとてもこの空也上人の遊行に憧れ尊敬しています。

空也上人の一首にこういうものがあります。

「極楽は遥けきほどと聞きしかど努めていたるところなりけり」(空也上人)

意訳ですが極楽とは遥かに遠いところにあるものだと聴いていたものの、真摯に仏道修行に努め励めば到達することができると。別の言い方では、真心や至誠を盡せば極楽に入るということかもしれません。

1000年以上経った今でも偉業が多くの人たちの祈りやいのちを支えています。真心や至誠は時を超えるものです。

私も先人に倣い、憧れた生き方を実践していきたいと思います。

利活用?

現在、古民家の利活用のことなどを色々と試されていますが私から見ると何をもって誰のための利活用というのかというのが気になるところです。私の場合は、誰がのところがまず家がになっていますし何を持ってのところが先人への配慮になっていますからその因果の帰結としてできてくるものが一般的な古民家の活用の仕方と異なってきます。そして主人として恥ずかしくないように生き方を磨くなかで自然に集まってくる一期一会に応じて暮らしを調えています。

現代は、経済優先の世の中ですから利活用とは稼ぐことになっています。単なる保存では負担なので活用しようという言葉が隠れています。そもそもそうなってしまっていることの理由を突き詰めずに、使っていないからもったいないとして別のものにしますが本来は連綿と改善を続けていたから活用が生まれているのであってそうではなくなっているものを別のものにしていてもそれは最初からやり直した別のものです。

歴史なども同様に、長い時間をかけて和合し文化として吸収していく過程の中でその時代の人たちが先人たちの取り組みを伝承してそれを改善してマイナーチェンジを続けてきました。シンプルなものを最初に創造したらあとはマイナーチェンジの連続です。

古民家というものなどその最たるもので、私はそれを日々の暮らしの中で実践し継続するなかで変化を味わい家と共に喜ぶ環境を発見しては磨き続けているだけです。

いくら古民家を利活用しようとしても、それでは家が本当の主役になったのではありません。その家にはその家の歴史もあれば個性もあります。そして物語もあります。その続きを担うのだからそれなりに主人がそれを理解してよく学びよくその境地に近づく必要があります。それも時間をかけて丁寧に行う必要があります。

私の経験では最低でも3年くらいは、マイナーチェンジを続けていきます。すると次第に馴染んできてそのものが働きはじめるのです。と文章にしても、伝わらないものなのでやはりその場で共に感じてもらいしかないのですが。

ご縁というものもとても似ています。

時間をかけて醸成された人間関係は不思議とタイミングを間違わないものです。誰と出会い何をするのか、ご縁が喜ぶかと生きているとそのご縁に導かれたその人らしい人生になっていきます。大切なのは、どの意識で過ごしているかということかもしれません。それは利活用という意識ではなく、ご縁を大切にするという意識である方が豊かさの質は異なります。

春の気配の薫るなかで今年の不思議の芽が出てきています。ありがとうございます。

自然の生き方

たまに鴨長明の方丈記を読み直すことがあります。800年前に書かれたものですが、今でも鮮明に想像でき共感できるものばかりです。あの有名な「 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」の文章です。

この川の話は、水の話でもあります。私は古民家甦生をはじめ、歴史に触れる機会が増えてから余計に水を感じるようになりました。水というものは、とても不思議な存在ですが時にも似ています。そして空でもあります。どんなものとも融和し、姿はありとあらゆるものへ変化し、永遠に存在し続けます。清濁あわせもち同じものは一つとしてありません。

いのちの水とも呼ばれるその水の本質は、他の知識や知恵を得るよりも偉大な真理を持っています。人間は当たり前すぎるものには気づかないものです。水や光、火や土などもですがそのどれもがとても偉大なものですが人間社会においてはそれほど意識されません。なぜなら水は意識そのものですから気が付かないのでしょう。

方丈記の中にこのような一文があります。

「魚は水に飽かず、魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願う、鳥にあらざれば、その心を知らず。」

これは人間も元々は何がもっとも飽かないで何を願っていたかということ、人間が人間らしくあるのはどういうときか、その心を知っているかという問いでもあります。

鴨長明は、山中に小さな庵をむすびそこで淋しくても慎まやかな暮らしを通して安心立命の境地を発見しました。仏陀のいう無の境地に近づき、人間であることの喜びや仕合せを見出したように思います。もちろんずっとではなく、この方丈記を記したとき、その瞬間にその喜びを表現するときに魚や鳥が自然そのままあるがままを味わうように自分もそう人間として感じたということです。

自然というものは水のようなものです。老子は、「上善(じょうぜん)は,水の如(ごと)し。水は善(よ)く萬物(ばんぶつ)を利して,而(しか)も争わず。衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所(ところ)に處(よ)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。」といいました。

水の生き方こそ人間の生き方、つまり自然の生き方であると。何が自然で何が不自然かを800年前にも感じて自分の生き方を記された書物には智慧が詰まっています。

引き続き、時代を超えた普遍的な智慧を暮らしの実践として伝承していきたいと思います。

道歌の伝承

道歌というものがあります。ウィキペディアによれば、「道を教える道歌とは、随分古い時代からあった。最初から道歌として作ったものと、普通の短歌を道歌として借用する場合がある。借用する場合文句が変化することもある。短歌は日本人の口調に適し、暗誦しやすいので親しまれた。道歌そのものは以前から作られていたが、室町時代につくられた運歩色葉集いう辞典に道歌という字があったという。江戸時代の心学者が盛んに道歌を作った。その後道歌が盛んになった。」とあります。別の辞書を引くと、仏教の教えや禅僧が悟りや修業の要点をわかりやすく詠み込んだ短歌や和歌ともあります。

道徳的な教訓や心学といった道を歩んでいく上での普遍的な生き方を歌に詠みそれぞれが道しるべとしたものです。

私たちの人生は一つの道だといわれます。はじまりから終わりまで道を歩むのが人生で、その中で様々なことを体験し味わい私たちは人間であることを自覚します。これをよく読み直すと、人間がなぜ不安になるのか、欲に呑まれるのか、不幸になるのかなどが昔も今も変わっていないことに気づきます。いくつか集めてみると、

養生は 薬によらず 世の常の 身もち心の うちにこそあれ

孝行を したい時には 親はなし 考のしどきは 今とこそ知れ

めぐりくる 因果に遅き 早きあり 桃栗三年 柿八年

足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

強き木は 吹き倒さるる こともあり 弱き柳に 雪折れはなし

日々の健康は日頃の養生、親孝行は今こそすぐやる、タイミングは因果次第、富は足るを知る中に、真の強さは柔軟性など色々とあります。

本当はわかっていても、そう思いたくないという人間の心理もあるでしょう。道歌はそういうことを諦めさせるためにも声に出して詠んだのかもしれません。

人々の長い年月で繰り返されてきた知恵は、今も何よりの徳や宝になり私たちを支えます。先人に倣い、伝承を大切に取り組んでいきたいと思います。

古代、まだ文字が使われていない時代は音が文字でした。例えば、「あ」や「さ」、「ひ」、「み」などそれが意味しているものを自然物を感じで語っていたように思います。いろはにほへとや、アワ歌、一文字の言葉の組み合わせで言葉はできています。

感じも一文字だとそのものの素の本質を顕しています。これが二文字になってしまうと、無限の組み合わせがでてきます。つまりはもともと二つだったものを一つにしたところからまた二つができるという矛盾を含んでいるともいえます。

例えば、日本語でも「ひ」というものがあります。これは意味としての命や火、光などの元になっています。それを組み合わせた存在としてひめやひこ、ひと、などと出てきます。こうやって組み合わせによって認識することで、細分化していったのが言葉の歴史のように思います。その組み合わせたものからもう一度、最初の「ひ」に戻そうとしてもその「ひ」には多くの意味がそのまま紐づきます。もとの最初の「ひ」にはなりません。私たちの認識というものは、複雑になっていく一方で元の状態には戻らないようになっています。

それが「死」という体験によってもう一度、元の「ひ」に回帰します。そう考えると、生と死もまた二つが一つになっているものです。現代でいちいちこんなことを考えていると、言葉も会話もややこしくなりますから普段はそんなことは考えずに普通に文字も音も言葉も道具として使います。

しかし何か元々あった自然物と触れたり、例えば山などには「さ」がありその「さ」を感じるとき私たちは言葉や文字ではない何かの存在を感じています。桜などは満開の花の下に立てば自ずから「さ」を感じるものです。

もともと民俗学では、「さ」は山の神とされました。それが里に降りてきて田の神や稲に変化すると信じられていました。「さ」の神が降りる「坐=鞍」(くら)の意から「さ・くら」となります。稲の苗をさなえといい、苗を植える女性がさおとめとするのも「さ」が由来です。旧暦五月の頃は稲作をする月だからこそ「さつき」と呼びました。

この「さ」というものは、何かと探せば現代ではいろいろな「さ」が出てきます。本当の「さ」はどこにあるのかは見つけようもありません。しかし「さ」は生死に深く関係している言葉なのは共通するものから感じとれるものです。

言葉や音の持つ響きを感じながら、英彦山の守静坊のしだれ桜の「さ」を楽しみに見守りたいと思います。

暦の意識を磨く

太陽暦と太陰暦というものがあります。これは太陽を中心に暦を観るか、月を中心に暦を観るかで変わります。太陽暦は、地球の公転周期に近いので修正が少ないのですが季節気候とは関係が薄いので農業等にはあまり向きません。太陰暦は、季節と暦が一致しているので農業等に向いています。しかし太陰暦は、公転周期とはかなりズレるので補正が大変というものがあります。その後は、太陽太陰暦という両方の良いところ取りのものがその後に発明され江戸時代には渋川春海が貞享暦というものを完成させます。最近では、地球暦といったものも発明され太陽系の中にある地球という暦もつくられているといいます。

この暦というのは、単なる時間や季節、時期や農業などで使われていたのではありません。政治的なものとして、政府によって管理されてきました。例えば観象授時といって天文現象を観測して人民に正しい時季を授けること、すなわちこよみを作ることは為政者の務めとされていました。

また受命改制というものがあり、天文現象とは天が支配者にその意思を示したものであり、政治の良し悪しが暦にこそ顕れると信じられていました。つまり王朝は天命に由るものとしてその天命を受けたのが天子であり臣下はその暦に従うというような使われ方もしてきました。

民衆が従うというものは、統治になるため暦はその役目を別の意味でも果たしてきたことになります。

そもそも考えてみると、私たちのいのちは自然に合わせていかなければ生きていくことはできません。自然の前では人間は無力です。そういう意味で、太陽がなければすぐに死にますし、地球がなければ存在することもできません。本来は、そういうものが神様として信仰してきたのですがその運行を把握しその真実を管理できる人がその存在に最も近いというように思ったのかもしれません。

確かに、気候を読んで未来を予測したり災害や地震などを予知できれば人々はその人に従います。そのためにも暦は政府や政治にも欠かせないものだったのでしょう。その暦が外れたり、その暦が間違えると様々な不信が生まれたのでしょう。

今だ諸説あり本当かわかりませんが、邪馬台国の卑弥呼も天候を管理できると巫女として崇められ皆既日食の時に暗殺された説などもあります。確かにその当時のことを思ってみると、自然の巫女が天気を予測し人々を導いたというのは想像できます。そして太陽が隠れるというのは、どれだけ怖いことだったか。それだけで人々の不信が発生することも予測されます。

結局は、いくら暦があろうがブラックホールや隕石があることがわかっても宇宙や自然現象の前では私たちはどうにもならないことがわかります。そういう意味で、本来はこの暦の本質とは何かということにも気づけます。

日々の小さな変化もどれも一期一会です。予測できたとしても、それをどう感じるか、どう応じるかはその人の感性や直観、感覚が重要です。どのような感覚を日々に磨いていくのか、そういう意味では暦は私たちの五感を磨く大切な知恵の一つです。

子孫のためにも、暦の意識を磨いていきたいと思います。

 

同郷の同志

先日、同郷の同志が東京から訪ねてきてくれました。歳は少し離れていますが、その志や生き方にはとても共感が持てるものでした。ユニークなお話は、若い頃のヒッチハイクのことでした。全距離をまとめると日本三周分くらいは、移動したことになるそうです。そこでの体験が今でも生きていて、いつまでも人間を信頼し、そして挑戦する心を失わないという子ども心を持った人でした。

このヒッチハイクというものを調べると、1960年代のアメリカで当時のヒッピーがはじめた無銭旅行のスタイルが発祥だといわれています。主に行き先などを書いたボードなどを持って水平に伸ばした手と親指を立てて、途中まで車に乗せてほしいと意思表示をすれば同じ方向へ行く車が乗せてくれるという仕組みです。これは今の日本でも基本的には合法で、金銭的授与さえなければ無許可タクシーではないのでやってもいいことだそうです。

そのほかにも、家に泊めてくれたり、食べ物をいただいたりと多くの見知らぬ人からの親切をいただいたそうです。その時いただいた親切があまりにも大きく一生分いただいたので、残りの人生を恩返しで生きたいと思ったそうです。

他にも、出会った人たちからしていただいたお話がどれも感動し、人間というものを深く観察する切っ掛けになったともいいます。また自分が何者で、何を為す人かを知るために毎年2つずつの新しいことをすると決め、その結果として今の事業になったとありました。

自分というものを知るために、あらゆるものを手放して風に吹かれていく人生を歩んでいくというのはなかなかできそうでできないものです。真正面から自分と向き合っていくことや、自分から自分の運命を信じて委ねていくことや、どんな状況でもできると信じて歩んでいくことは生きていく姿勢の話です。

同郷に、素晴らしい同志があることは有難くしかも近所にいたというのも深いご縁を感じます。そういえば、三国志演義の劉備と張飛は同郷でした。その後は、桃園結義といって関羽と桃園の誓いというものを果たします。私の親友の紹介でしたからそんなことに思いを巡らせながらご縁を楽しみました。

出会いというのは、一期一会ですが様々なつながりが時間差で重なりあうのは不思議で奇蹟です。これからどのような風が吹いて、新たな重なりになっていくのか。時間をかけてじっくりと味わっていきたいと思います。

乾燥野菜の知恵

今年は、伝統在来種の高菜の出来栄えがよくすくすくと大きく育っています。収量が多いことから一部は葉物を乾燥して保存させるために挑戦しています。これは以前、郷里の加工の知恵の一つとして湯通しをして乾燥保存してまた戻して食べるという仕組みを試すものです。

少し前まではスーパーなどもなく、夏場に葉物が食べられないこともありました。また山に入るとそんなに里の野菜は食べれません。なので冬の間に乾燥させて、それを夏に戻して食べるという保存方法です。

野菜を乾燥させて保存する技術の歴史を調べると古代エジプト期から存在していたとされていたそうです。もともとエジプトは雨が少なく野菜が生育しない期間が長かったため乾燥野菜が重要な食料として利用されてきました。また古代ギリシャでも、乾燥野菜が重宝したそうです。それに乾燥野菜は栄養価も高く保存もきき調理が簡単であるため世界中で使われてきました。日本は湿潤気候のためどちらかというと発酵の方が保存では使いやすいようにも思います。

日本の乾燥野菜の歴史では、奈良時代からだそうです。具体的には塩漬けや干し野菜がメインでその頃は生野菜の栽培技術が未熟で長期保存ができる食品がありませんでした。そして戦国時代になると食料がますます不足してきのこや根菜類をたくさん保存食としてつくったといわれます。そして江戸時代は乾燥野菜は身近にあり、明治時代に入り洋食の文化が入り一時衰退しますが世界大戦の食糧難でまた乾燥野菜が重宝されるようになり広がりました。その頃には葉物の乾燥野菜も増えたそうです。兵士の食糧などにも使われたそうです。

歴史を紐解くと、食糧危機や食糧難のときにこの乾燥野菜の知恵は使われてきました。今のような飽食の時代は必要ない技術なのかもしれません。しかし時代を観てわかるように、いつまた食糧危機に入るかもしれません。

先人の遺してくださった知恵を伝承するのは、子孫を守る為でもあります。日々の暮らしの中で伝統を守ることは、将来の危機への備えでもあり子どもたちへの歴史の伝承でもあります。

伝統高菜の御蔭で私もたくさんの知恵をいただいています。引き続き、この時代に新たな暮らしを復古起新して子どもたちにその徳を繋いでいきたいと思います。