暮らしフルネスの体験

私たちは現在、様々な境界線を分けては物事を認識するようになっています。そうやって分けた方が理解がしやすく、物質的に物事を捉えていく方が合理的な部分もあります。しかし、一度分けてしまったものをまた元に戻すというのは大変なことで分けるのは簡単でも一つにするのは難しいということです。

例えば、過去・今・未来というものも分けて考えていますが実際には過去も未来も今も一つのものです。この今も過去と未来の結ばれたところにあるものでこのブログを書いている一瞬のうちにも過去になり未来がきて今になります。今よりも前のことを過去といい、今よりも先のことを未来ともいいますが実際には今の連続だけで過去も未来もありません。今の中にあるだけということが真実ということですが、この今というものを理解することが現代の人たちにとっては難しくなってきています。

そのことから過去に囚われたり、未来に憂いたりすることばかりで今から遠ざかるという矛盾が発生しています。ではなぜこれを分けたのかということになりますがそれが物事を認識するのに役立つからです。

これは何と聞かれて説明するのに一つ一つを分化していきます。名前をつけてはそれが一言でわかるように意味付けしていきます。似たものをそれで分類することで同じ認識をできます。これをすることで多くの人たちの共通理解や認識ができるようになりました。しかしこれは分類わけするときに必要な認識であって、それがそもそも本当は一体何かということを認識できるものではありません。

私たちはそのものを認識するとき、そのものと一体になっていく必要があります。それは自他の別をなくすほどに、そのものと和合するときそのものを直観できます。自然というものを理解するのに、教科書や文字ではわからないのと同じです。

自然を理解するには、自然の中に入り自然と一体なってはじめて認識できます。ヘレンケラーが水を理解するのに、触ってみて浴びてみて感じたのと似ています。感覚というものの理解の仕方は、感覚を優先するときに感じるものです。

感覚での認識は、頭でっかちではできずそこには感覚による体験が必要です。それが本質を理解し、自然と和合し真理や法則などを認識する近道です。

暮らしフルネスというのは、暮らしを通してそれを認識するための一つの生き方でもあります。むかしの人たちは、頭で宗教や信仰などを認識してから行動していたのではなく暮らしの中で自然に馴染むようにそのものと融和していきました。

時代がいくら変わっても感覚が満たされるという豊かさや仕合せは、いのちそのものは絶対的に味わいたいと願っているものです。子どもたちが自然の遊び、いのちが喜ぶように暮らしフルネスを通してその知恵を伝承していきたいと思います。

護符の伝統

護符をつくるなかで辰砂のことを知りました。もともとこの辰砂は、賢者の石や不老不死の霊薬とされていたり日本でも鳥居などに使われ魔除けの存在として重宝してきました。護符にこの辰砂が使われるのは、魔除けの意味も強かったように思います。

この辰砂は硫化鉱物のことで、水銀の主要な鉱石で有名です。2000年以上前から採掘されていて日本でも古墳時代や弥生時代にも石棺や壁画などで使われています。

もともと辰砂の名前の由来は、ウィキペディアにはこう書かれています。

「中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは若杉山辰砂採掘遺跡(徳島県阿南市水井町)、伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入された。現在では大分県、熊本県、奈良県、徳島県、などで産する。」

現代ではあまり使われることがなくなりましたが、本来はこの鉱物に不思議な力があることを古代の人たちは直観したのでしょう。形式だけが残り、今では赤い色であればどれも同じだと思われますが本来はそうではありません。古来から絵具として使われてきたのにも意味があります。

絵もむかしは娯楽ではなく、一つの御呪いとして使われてきました。絵はそれだけ不思議な力があり、私たちの暮らしを支えてきたものです。

護符づくりを通して、古代の人たちが護符にどのような思いや願いを籠めてきたのかを学び直しています。丁寧に取り組み、さらに護符を深めてみようと思います。

 

縁起と真心

今日は、陰陽五行の己巳の日です。また一粒万倍日と大安も重なっていて縁起の善い日とされています。物事には相性というものがあって、その相性がよい時と悪い時があります。また隣にあって相乗効果が発揮されるときと、逆に力が削がれていくときがあります。

絶妙なバランスの中で、私たちは陰陽、プラスマイナス、表と裏などのその時々の状況でタイミングを量っているものです。いくら表で善いことであっても、裏ではとてもよくないことが起きることもあります。常に両方、あるいは中庸を意識して日々にバランスを調えていくことが必要ということでしょう。

万物は不思議なもので、このタイミングではじめると何でも上手に運ばれることもあれば、逆にタイミングを間違うと何をしてもうまくいかないということがあります。それが自然のサイクルです。

例えば、畑で種を蒔いても時機があわなければ芽も出ませんし出てもすぐに虫に食べられるか枯れてしまいます。逆にタイミングがぴったりなら、自然の環境によって見事に運ばれて無事に一生を満たされます。他には、船であれば風がどう吹いてくるか、風向きや期間など船出をするタイミングが重要です。

私たちが縁起を考えるとき、あの時だったかということを思うことがあります。経験を積み重ねることで、一期一会のタイミングがあることに気づかされます。それを科学的に理解していくのに、様々な方法が発明されてきたのでしょう。

私も座右が一期一会でタイミングを観る人生を送っていますが、縁起はいつも意識しています。しかしいくら陰陽五行で善い日といっても最善を盡すことがなければ真心も通じませんから精進し努力するのは変わりません。

これから護符づくりにむけて、滝行をはじめ色々と取り組みますが皆さんがより豊かなご縁に恵まれ仕合せになるように真心を籠めていきたいと思います。

家徳

江戸後期から明治初期にかけてのころ、日本は大変革を迫られ国内で多くの争いが発生しました。それまでの江戸幕府を中心にした藩の体制から国家というものへの変革があったからです。外国から攻め込まれ、急に国家が必要になったともいえます。しかしこの時の国家というものの定義というものは本来は何だったのでしょうか?ではそれまでの日本は国家ではなかったかということになってきます。国のはじまりはどこだったのか、そして世界を巻き込んで国というものが今でも争いの発端になり続けています。

この国というものの持つ、根源的な問題が解決しない限り私たち人類は争いがなくなることもないように思います。孫文に「国とは人の集まりなり、人とは心の器なり。」という言葉があります。

結局は、人が国家を形成するのだから人の心が決めているということになります。人の心というものは、外側にあるものではなくそれぞれの自分の内面にあるものです。これを徳ともいいます。国家は徳によって為るということでしょう。国家のモデルとしての為政者には、孔子を含めその当時から理想をそれぞれの君子たちが追い求めてきました。

現代の為政者の状態はその当時と比べてどうでしょうか。道徳経済というもの、経世済民というものはどれだけ進歩したでしょうか。

国家の真の発展というのは、人の心の真の発展とイコールであることはすぐにわかります。心を磨いていくことは、その時代時代を任せられた国民の責任であることは間違いありません。結局は一人一人の心の中にこそ本当の家があるということです。家が治めることが国であるということ。

論語、大学のこういう言葉があります。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修む。 その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、まずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。 知を致すは物に格るに在り。」と。

国家とは何かという答えはもう先に出ています。そのために教育があり、学問があり、道徳があり、実践があるのでしょう。人類はあとどれくらい、同じことを繰り返すのでしょうか。なかなか簡単には変わらないものです。しかし変わらない中でも、着実は変わったことで歴史も変化しています。

子どもたちが大人になっていくまでに、少しでも善い世の中にしていくために明徳を明らかにし、家徳を磨いていきたいと思います。

情報の学び方

世の中のことを知るのに情報というものは善い面とそうではない面があるものです。何かを知ることで私たちは行動を決めますが、その知ったことが本当かどうかを確かめる方法はそれぞれの判断に由ります。

その情報は誰からのものか、そして信用できるものかなど、情報のみならずその情報の入手経路などで判断も変わってくるものです。そしてもっと突き詰めると、何が本当かというのは本当はわからないものです。

例えば、現在の科学で証明できないものを正しいかどうかを判断できません。また信頼できる専門家であっても、その専門家の知識の範疇でしか理解していないものを正しいかどうかわかりません。また意図的に操作された情報においては、詐欺に引っかかるようなものですからそれも巧妙なものがたくさんあり見分けがつきません。

そう考えてみると、何が本当の情報かというのはどれだけ気を付けていても見極めることが難しいのです。しかしそれでも本当の情報に近いものを選択して私たちは判断をしていく必要があります。私はある程度は、情報に騙されないようにテクニックは学んだとして残りの判断は歴史の感性と自然の感覚というものに頼ります。

歴史の洞察は、本来の生きた歴史のままに歴史と共に生きている意識と真の歴史を学ぼうとすることでその感性は磨かれます。

そして自然の感覚というのは、直観ともいいますが本当のことをかぎ分けるものです。なんとなく嫌な感じがしたり、怪しい感じがしたり、何かの予感があったりする。本能が教えてくれるような感覚です。

野生の動物などは、自然からその感性を磨いています。人間もむかしは、自然と近い距離で暮らしていましたからその感覚は養っていました。都会に住み、便利になり感覚を研ぎ澄ますことがなくなると情報の取り方が変わってきます。人間が出す情報は、ほとんどが誤情報ですから自然の情報を学ぶ機会も減り、さらに情報は錯乱していくものです。

いつの時代も情報によって私たちはいのちを永らえてきました。情報が正しく、そして末永く人々を導くように改めて情報への学び方を学び直すときかもしれません。

子どもたちに情報の取り組み方を伝承していきたいと思います。

むかしのお米作りと暮らし

むかしのお米作りを深めていくなかでその歴史や変遷を見ていると面白いことが分かってきます。時代がよく反映されていて、道具や仕組みも変わってきます。縄文時代や弥生時代などは、そのまま種もみを田んぼに蒔いてあとは木製の道具や石包丁などで育て収穫しました。土器なども発明され稲作が普及していきました。最初は御粥のようにして食べられ、そのあとは蒸し米として食べていました。

奈良時代や平安時代には、炊いて食べるようなご飯になっていたといいます。その頃の農業は、水車や牛馬をつかってまた鉄器がでてきて作業効率もあがったといいます。

そして江戸時代に入ると品種改良や農機具の改良が進みます。よく見かける「千歯扱き」や耕作のための「備中鍬」、お米をふるい分ける「唐箕」や「千石通し」、足で踏んで水車を動かす「踏車」など田舎の歴史資料館によく展示されています。

そして明治に入り、税収がお米からお金になってからさらに農業は改良され電気や石油、肥料も農薬も科学的に革新され今の仕組みに変わります。大きかったのは農機具の革新で「田植え機」が発明されたことでした。それまで長さが30cmほどもある大きな苗(成苗)を使ってできなかったのが1965年前後に現在のような10cm程度の「稚苗(ちびょう)」によって実現しました。むかしは、成苗で植えていたというのも驚きです。

そう考えてみると、機械化してからの革新とそれまでの発展はまた別の種類であることがわかります。機械化というのは、合理的なものを追及していきますからあまり自然的な要素は入ってきません。牛馬を使うというのは、生き物ですから体調もありまうし個性もまた精神などもあり機嫌を損ねず関係性を大切にしながら扱います。もちろん機械にはそれがないというわけではありませんが、自然物というよりも人工物ですから扱い方も異なります。

古風な人たちは、機械にもいのちが宿っているという考え方を持っているといいます。私の周囲も伝統職人さんが多いのですが、使う道具一つ一つをいのちがあるように大切に扱います。しかし、そうではなく加工食品やビニール袋などの大量生産品はすぐに捨ててしまいます。つまり機械化かどうかの問題でもないなということです。希少価値があるものを大切にし、大量になれば捨てるという感じでしょうか。

物の価値というものは、大量生産することによって変わってきます。大量生産するときに、同時に価値を下げているという矛盾があるのはお金の影響を受けてからでしょう。お米が通貨だった時代は、生きている種ですから永遠に保存もできませんし、みんなでまたその種を食べ、蒔いて育てるのですから意識的に循環しようと思うものです。

近代の革新というものは、自然を排除し人工的なものを軸にして社会を形成させていったことでしょう。そのことで自然との歪が広がっていきました。

今更、手植えや牛馬でやれというのも無理があります。しかし、自然と調和していこうとする暮らし方は見直していくことで自然も人の心も豊かになっていくのではないかと私は思います。自然との調和は、決して休日に山登りするとか海にレジャーにいくことという意味ではなく自然のリズムで自然と共生しながら暮らす仕組みを日常的に味わうような環境をととのえていくことだと私は思います。

言い換えれば、自分が自然から離れないような関係を暮らしの中で結び直していくということです。例えば自然の持つ温度変化に対して自分も自然の一部として共に味わうということ。何でも総合空調や気密性の高い住宅だけに住むのではなく、自然の温度変化の中に自分の身を置いてみることもいいでしょうし、一年の巡りを共にする野菜や果物などを育ててそれに合わせてみるのもいいでしょう。

私がむかしの田んぼに取り組む理由の一つは、お米のリズムと一緒に一年を過ごしていきたいからです。私たちが食べているもの、活かされているものと共に育し、年々の巡りを共にして一生を終えるというのはそれだけで豊かで仕合せなことです。

子どもたちにも、そういう自然の巡りや暮らしを伝承していきたいと思います。

むかしの田んぼ

今日は、千葉県神崎にあるカグヤのむかしの田んぼで田植えが行われます。今朝から雨が降っており、雨模様の中での田植えになります。しかしよく考えてみると田植えというのは本来は雨の日が多かったいいます。その理由は、水が豊富な地域なら問題ありませんが水が少ない地域は雨次第では田植えができなかったからです。

私もお米作りをはじめてから最初に水利権のことを色々と聞かされました。物騒な話ですが、農家は水で争い人が亡くなることもあったとも。それくらい水の取り合いには大変な苦労があったといいます。

少し想像してみるとわかります。雨が降らなければ田んぼに水をはることができません。いくら苗を育ててみても、田んぼの方へ植えることができなければお米は育ちません。

雨は自然のものですから、むかしは雨乞いといってご祈祷をしたりみんなで手分けして水を運んで流し入れたり、井戸をくみ上げて流したりと本当に大変な状態を乗り越えてきたように思います。

それに田植えとなると、雨の降る短い期間でやり遂げないといけませんが大勢で一気に田植えをします。この期間は、雨の中、ずぶ濡れになりながらみんなで協力して田植えをしたのでしょう。

私たちはお米がある御蔭で生きていくことができます。お金があってもお米がなければ生きていけません。それにお米がなければ加工品もできませんから、御餅もお酒も麹菌を培養することなどもできません。

お米というのは、お水や空気と同じくらい今の私たちの生活を根元から支えているものです。特に高温多湿で水の多い島国の日本では、稲作は私たちをずっと助けてきました。時代が変わっても、助けられてきたものの存在を忘れないということもあって私たちの会社ではむかしの田んぼの取り組みを実践しています。

今の時代は、自然に合わせるよりも自然を征服するような技術革新を続けてきました。雨が降ってなくてもなんとかでき、機械で人手がなくても田植えができ、肥料や農薬で除草や生育を促します。そのために大量の費用と材料が必要でお金がなければ実現しない農法になっています。お金で自然を征服することに努めてきた時代ともいえます。

しかし自然から離れることで、得たものと同時に失ったものがたくさんあることがわかります。それは田んぼの地力であったり、人々の真心や協力、絆や助け合いであったり、元氣の漲る生命力のある種であったり、コスパやタイパではない真の豊かさや喜びであったりと本来得られていたお米の陰の役割が消えていきました。

今でも私たちの家々の神棚にはしめ縄があります。そしてお米やお酒なども奉納しています。ここには、単に食べる物としてのお米の役割ではないことが言葉でなくても形になって私たちにその恩恵や徳が授かっていることに気づくものです。

子どもたちに大切なことをそのままに継承していけるように、生き方と働き方を丁寧に紡いでいきたいと思います。

贈与経済2.0の学び

昨日は、ご縁あって贈与経済2.0の講演会に参加してきました。世の中にある当たり前を疑い、その当たり前を考えて問い直すという生き方をされている荒谷大輔さんとお会いしました。ご著書はまだ拝読していませんが、哲学を哲学で終わらせず現実の社会でどう役立てるのかということに取り組まれておられ共感することばかりでした。

この贈与経済2.0はシンプルに言うと、日本銀行券を哲学的に考え見る中で近代の問題に気付きそれを分析したところからはじまったとも仰っておられました。

資本主義経済というものが最初からあったかのように私たちは当たり前にその空気を吸っては疑いもしませんが、かつてはそれとは別の常識やルールもあったということです。資本主義以前の経済がどのようなものか、私たちは正しく歴史を省みて善いものは伝承し、変えるべきところは勇気をもって変えることで次世代への真の贈与が成り立つと私は思っています。

人間というものは、産まれてきて見た世界がはじめからずっとそうであったかのように認識するものです。それだけ環境に依存する動物であるともいえます。さらに教育を施されていき、社会や周囲の大多数の人たちの価値観が当たり前になっていきます。この当たり前というのは、言い換えれば自然というものです。しかしこの自然が本当に自然だとわかるかというのは、この世一生の学問の中心にあるものです。

なぜなら自然というのは、人間が形式知や分別知で理解するものとは異なるからです。むかしの日本人は自然と共生して自然を暮らしに丁寧に編み取り込んでいました。その証拠に日本語はとてもゆるい自然の言葉がたくさんあり、それを先人たちは言霊とも呼びました。現代ではその言霊などというと、怪しい宗教だといわれるのが当たり前にもなっています。日本人の智慧の結晶ともいえる伝統家屋も絶妙に自然との境界を結んでいました。

かつてどうだったかを知るというのは、学びの削除のような刷り込みや思い込みや常識からの脱却が必要です。私たち人間が生きた歴史を学ぶのは、人間の学び直しが必要だからです。知識は詰め込むことだけが学びではなく、むしろ忘れたり本来の原点を思い出したり、感覚を通して世の中を見つめ直したりと気づきを中心に据えた方が真実に近づけるようにも思います。

もしも人間の寿命が1000年くらいあれば、まだかつてを思い出すのでしょうか。私はたまたま幸運にも古民家や宿坊、その他の文化的で歴史的なもの、あるいは1200年以上続く伝統在来種の種を守る活動を通していつも1000年くらいの時間軸を内包する機会をいただいています。

その御蔭で子孫のために代々が自分の生涯を捧げてくださったことで徳が巡るのを実感することができました。また実践を重ねることで自分の代への執着が減り続けています。仕合せというのは、先人からいただいた徳に見守られ、次世代へその徳を推譲するときにもっとも満ち足りるものです。私は私だけど私は先祖そのものであり、そして同時に子孫そのものでもあるのです。

私のこれまでの徳積に学んだ知恵がお役に立てるのは本当に有難いことです。徳は孤ならず必ず隣あるものも生きた歴史です。これからも丹誠を籠めて徳積道を歩んでいきたいと思います。

水のように生きる

先日、親友から「至道無難」という言葉を聴きました。とても善い言葉だと思い、色々と調べていると江戸初期の臨済宗の僧侶の名前であることも知りました。その方の代表的な言葉は、「生きながら死人となりてなりはてて、思いのままにするわざぞよき。」と表現します。他にも残した言葉を深めていると、まさにその名前の通りに生きた方だったように思います。禅僧というのは、歴史を省みるとその一生を懸けて自分に与えられた天命を純粋に生き切る見事な人生の方が多いように思います。

はじまりの仏陀は、悟りを開かれるときこう言ったそうです。「奇なるかな、奇なるかな。 一切衆生、悉く皆な如来の智慧徳相を具有す」、そして「一仏成道して法界を観見すれば、草木国土、悉皆成仏」と。

苦行を通り悟りを忘れるとき悟るということでしょうか。元来、私たちには天からの徳性が具わっていてその心のままでいることが悟るという意味でしょうか。これは聴きなれた言葉では「真心のまま」というのでしょうか。

心が感じたものを感じるままに真心で今を過ごしていく、これが純粋に真心からということになっているかが精進であり本来の修行なのかもしれません。修行のイメージが固定概念に縛られると悟りから遠ざかるというのはなんとなく理解できるものです。

この世にある万物は自然であることを尊びます。これを徳ともいいます。自然にしているとみんなが喜ぶのです。私たちはこの世に生をうけてから様々なことを体験します。自分というものを別個に認識し、様々な執着や拘りを持つようになります。それは仕方がないことです。それも体験の一つですから、素直に感謝して承るしかありません。時には、自分が理想としたものであったり、ある時には自分が最も望んでいないものだったりもします。しかし一度きりの人生ですから、そのどれもを引き受けて生きるなかで心の正体が磨かれていきます。自然で生まれて自然でなくなるのはどういうことか。自然に抗うのが人間です。それは記憶を持っているからでしょう。そして体験をするからこそ、私たちは記憶を辿れます。記憶を生きる私たちは記憶を通してあちこち意識を飛ばします。むかし楽しかったことや嬉しかったこと、感動したことを求めては同じように時を超えて体験を求め続けるのです。もはやこれらの本能ともいうべきこの行為のなかにさまざまな迷いが出るのかもしれません。

人間が今に澄み切った心境になっているときはいつでしょうか。それは死んでいるときでしょうか。なかなか人は誰もが本当の意味でのありのまま、あるがままにはいかないものです。それくらい思い込みや刷り込みといった、固定概念のなかで生きてしまうものです。だからこそ、普遍的な道を歩む人はどの時代でもどのような環境でも真心を大切に磨いていきたいと思うようになるのでしょう。

有難いご縁のなかで透明な感性をもっていのちと共に歩み、いのちを充実させて子孫のために今を生きていけたら仕合せです。水のように死んで生きていきたいと思います。

原初の信仰

私は幼い頃から「龍」というものにご縁が深くあります。生まれたのも辰年辰の刻というのもありますが、氏神様は八龍権現でご縁のある神社や場所は龍ばかりが祀られています。今、住んでいるところも八龍権現池の麓で古民家甦生で取り組む場所も龍とご縁の深い場所ばかりです。

改めて考えてみると、小さな頃から龍が好きで川や池や空を眺めては龍を探していました。龍を観たなかで最も記憶にあるのは、隣家が火事で全焼したときです。この時、私は一生懸命に小さなホースで自分の住んでいる家に燃え移らないように放水していました。身体が焼けるような熱気と燃えた瓦が割れて飛んできて死を意識したあるとき、物凄い突風が吹いて空を眺めると巨大な龍が舞い上がりそのあと雨が降り出して火が消えていきました。また消化後、その当時に庭にお祀りしていた龍の護符はどこかに飛んでいきお水をお供えしていた盃も割れていました。

不思議な体験でしたが、あの時のことは忘れることはありません。客観的には火事で燃えているから煙で上昇気流が発生して放水していた水が降ったのだろうと言われそうなものですが、明らかに風や水が何かを守ろうとする意志を感じて龍に観えたのかもしれません。その龍が観えたあと火事はその後は力を失い、私の周囲も風向きが変わり無事に燃え移らず怪我もありませんでした。その後も、何度も風と水が舞うところで龍のような姿を見かけます。水の化身ともいえる氣の流れともいえます。

改めてむかしからいるこの龍とは何かということを少し深めてみようと思います。

先日、弁財天のことをブログで書きましたがこの弁財天と龍神というのは深いご縁があります。日本の各地には、龍神と共に弁財天が祀られているところがたくさんあります。私が現在、お祀りしている妙見神社は八大龍王で英彦山の宿坊は弁財天です。日本最古の八大龍王と弁財天をお祀りする神社は、日本最古の神道の信仰の形を残すと言われる大神神社の摂社の龗神神社(おかみのかみじんじゃ)です。

妙見神社は、闇龗神(くらおかみのかみ)が祀られます。同じ神様で別名の高龗神(たかおかみのかみ)があります。これは名前は違えど同じ神様です。「高龗神」は山の峰の龍神、「闇龗神」は谷底に棲まれる龍神といわれます。水を司るという意味では、龍神も弁財天もこの龗神も同じ神様です。タカは鷹で、クラは坐するです。水を司る神様が居ると意味です。神仏習合というのは、別の呼び名が合わさっても意味は同一であるということです。

そして八大龍王は法華経に登場し仏教を守護する神様です。天竜八部衆に所属する竜族の8体の龍の神様です。8体には難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑伽羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)がいます。

水の化身が龍であり、龍は水そのものを顕現したものです。そして修験道の歴史が古くある場所には、瀬織津姫や不動明王が祀られます。滝場などにも同様に龍神と合祀されます。つまり弁財天と八大龍王と不動明王は同一であるとここから洞察できます。

私たちは思い込みで火と水は違う、雨と海は違うなどと認識します。しかし思い込みを捨ててよく観察すると同一であることはすぐに自明します。水は火が変化した姿であり、火は水が変化した姿です。例えば、その徳性には浄化があります。もっとも浄化するのは火や水、そして土など火水が和合したものです。

私たちが神(かみ)と呼ぶのも、火水(かみ)とも呼びます。浄化するものをかみと音を呼んだのでしょう。水には、穢れを祓う力があります。私たちが拝むとき、それぞれの真言や祈り方、異なる祝詞などがあります。しかしこの世にもしも言葉がなかったら、余計な知識がなかったら私たちは拝むでしょうか。

しかし水というものへの感謝は、もっとも深いものであるのはわかります。水がなければ生きていけませんし、飲める水があるのは何よりも有難いことはわかるからです。そういうものへ拝む気持ちが産まれたことが原初の信仰であるのでしょう。

当たり前のことがわかるようになってこその信仰であり悟りです。私は特定の宗教や宗派などには興味もないし関心もありませんが、原初の信仰にはとても興味があります。

引き続き、子孫が当たり前に気付けるように自分なりの原初の信仰を甦生し実践していきたいと思います。