自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

英彦山への道

昨日から英彦山の宿坊、守静坊に泊まり込みお庭のお手入れをしています。昨年の今頃に、ちょうど工事をスタートして振り返れば一年になります。建物の方はある程度、落ち着いてきましたがお庭の方はほとんど片づけができていませんでした。

気が付けば、この山での暮らしというものも少しずつ観えてきています。綺麗な空気と風、山の鳥が鳴き、せせらぎの音が聴こえ、清らかな夕陽、静かな星空があります。

山は自然のリズムを生きていて人間のスケジュールのこと、喧騒を忘れさせてくれます。

思い返せば、この一年間、どれだけ英彦山と自宅を往復したのだろうかと。途中、英彦山の三山の風景が訪れるたびに心に染み入る憧憬がありました。縁あって、私は英彦山にずっと見守られてきた人生でした。

幼い頃、名前をつけていただいたのも英彦山の霊泉寺。祖父が何度も何度も英彦山に連れてきて遊んでくれました。両親とも正月には参拝し、大人になってからもできる限り時間があるときに子どもたちを連れて英彦山に来ていました。京都の鞍馬寺とのご縁から九州の天狗とのご縁も深まり、毎月のように英彦山と京都の往復する十数年も送りました。そして今では宿坊のお手入れに毎週のように来ています。

こうやって英彦山に関われることが何よりも有難く、仕合せを感じます。

今では法螺貝もはじめ、薬草をはじめ滝行など修験道も学び始め山の文化を学び始めています。

いつからこうなっていたのか、こうなるとわかっていたのか。

守られているというのは、身近な存在に何度も気づき直すことかもしれません。当たり前ではない当たり前に気づく時、人は自分の人生で関係の深いご縁の存在を自覚します。

そして守られている存在に感謝できるとき、その徳に報いたい、ご恩返ししたいという真心に気づきます。感謝はつながりの中にあり、いつまでも人伝えに循環していくのです。

なぜ英彦山にとはもう思いません。英彦山に大切に守られてきたからその恩返しになると思うから今の私の行動があります。この先も、こうやって愛し愛された英彦山と共に歩めることに真の喜びを感じます。

いつまでもこの静けさを保つ荘厳で慈愛に満ちた英彦山と一緒に喜びを分かち合っていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には厳しいけれど豊かな環境のなかで恵みに感謝しながら土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

自然と不自然

物事というのは分断することで問題を発生させていくものです。一般的には、分析することで問題を解析していきますが解析することでさらに問題は細分化されていきます。細分化された問題を解決してもそれは部分最適ですが、それがかえって全体の問題を大きくしたりすることもあるのです。

環境問題なども、最たるものでよかれと思ってやっていたことが実はさらに環境を悪化させたということもあります。何が自然で何が不自然かということも現代の人間社会では変わってしまっていますからそう簡単に解決にはならないものです。

私は物事を解決するための方法は、先人の知恵に従うことだと思います。長い年月、数千年、数百年続いてきた存在がどのような体験をしてどのように対処してきたか。そこから学び直すというものです。

本来、歴史というものは学校で教わるようなものではなく生きる知恵として子々孫々まで伝承されていくものです。伝承されたものを守り続けることで、困難を乗り越え、試練を耐え、生き延びていくのです。

よく格言というものがあったりもします。その格言もまた、よくみたら物事を根源的に解決するための大切な知恵であることがわかるのです。

例えば、あるインディアンの教えに「7代先のことを考えて決める」というものがあります。約300年先にどうなるのかと思慮して決めごとをするというものです。これも環境問題が部分最適にならないための知恵に溢れています。時間をかけて地球は循環しているのだから、今のことに対処ばかりしていても物事は解決しません。というより、そもそも解決することもなく問題も本当はありません。本来は、自然であるだけです。

自然を尊重して、自然と共生していく世の中であれば問題もそれは必然になり自然になります。

子どもたちには何が自然で何が不自然かがわかる感性や知恵を学び、これからの未来で何が必要になるかを伝道していきたいと思います。

 

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。