智慧の伝承~人類の誇りを守る~

知識と知恵という言葉があります。これは、識と恵という言葉で成り立っています。別の漢字では、智慧とも書きます。これらは実際にはどのようなものかということを深く考えてみると、同じ響きの言葉でもまったく意味が異なることが分かります。

そもそも識という字は、言葉を縦横に織りなしながらその意味を理解するということ。そして、恵という字の成り立ちは糸巻きから新しい意味が転じていくということ。これはどちらも織物がカタチになって漢字になっているものです。そして知るという字は、矢と口ですが神意のことを指します。

つまりは神様の織りなす意味を理解し、神様からの意図を転じて解釈する。つまり知識と知恵とは、どちらも神意を悟るということです。不思議ですが、学校で知識や知恵を学ぶというのは常に神意を悟るための学問を実践するということになります。

現代は、知識は単なる暗記の材料になり、コンピューターの出現によって知恵も知識の集合体のように評されることが増えてきて、先人たちが長い年月で築き上げた知識や知恵が伝承されることがなくなってきました。世界が広がっていくのはいいのですが、その分、世界は浅くなってきていないか、今の暮らしに知識と知恵の深みがないことが残念に思います。

そういう私も、人生の半分以上はその知識と知恵の詰め込み教育で育ってきました。知識は武器であり、情報化社会においては知識こそが経済を発展させる道具であると信じ込んできました。現在、戦争も情報戦といってむかしのように直接的な殺戮を行わず情報によって追い込んで勝敗を決めていきます。

本来の人類の目的のために知識と知恵を使わずに、ただの手段として知識と知恵を使おうとする。これでは持続可能な社會など実現することは不可能であることは、誰が考えてもわかります。目くらましにあっているだけで、刷り込みを取り払えば私たちは先人たちの知識と知恵の伝承である本来の智慧によって神様に活かされてきた事実に直面するのです。

この世でいくら知識や知恵があっても生きていくことはできません。私たちは、大宇宙の大自然から偉大な恩恵をいただきその智慧によって活かされます。この身体の細胞の一つ一つ、そして絶妙にバランスを保ち存在しているあらゆる存在、そして関係性やつながり、そのどれもが智慧に満ちています。

その智慧を学ぶことは、大宇宙の大自然の法則に学ぶことであり自分をその存在に少しでも近づけていこうとするのです。つまり神人合一ともいうように、私たちは先人たちの大いなる命の集合体で集積体、まさにその歴史の伝承者ですからそれをそのままに活かし生きることが智慧になるのです。

智慧とは何か、つまりはあるがままの自分に回帰することです。それはあるがままであることが理解できるということ、ありのままで活かしあう真理に生きるということ。これができてはじめて智と慧は和して日本人になるのです。

日本人を創るということは、日本人になるということです。それは日本人の誇りを大切にして日本人のままでいるということです。私は、特別なことをしていることではなく日本人の原点を探り日本人の誇りを保ち子孫にそれをそのままに伝承しようとしているのです。

これを徳ともいうのです。

私は一緒に10年以上、パートナーとして取り組んでいる存在がいてその方は智慧を学びその智慧の真理を伝承するために私塾をひらいています。なぜ私が一緒にと知識と知恵を重ねて考えてみると、それは私が子どもたちのために智慧を実践し覚醒させようとしていたからだと今では感じます。

私が智慧にこだわったのは、すべて子どもたちのためですがこれは日本人のためでもあるし世界の人々のためでもあるし、未来の人たちのためでもあります。人類は大きな分岐点にきていますが、文化は文明の手段であってはならないのです。文化は目的そのものですから日本人の文化を守ることは、日本人の目的を守ることです。文明という手段に翻弄されて本末転倒してはならないのです。

引き続き、私の人生の集大成は徳と決めました。

神意に従って、やるべきことに専念していきたいと思います。

カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

浄化する農法

昨日は、自然農の田んぼに田植えを行いました。取り組みから10年目に入りますが、年々収量を減らしていきます。本来は、収量を上げていくのが当たり前でしょうが敢えて収量を減らすことを実験しています。

実は、むかしの田んぼと名付けた千葉の神崎の田んぼもまた収量を減らしています。現代は、大量生産大量消費の時代ですから逆行するようなことをすると変人奇人だといわれますが、本来は分相応の量に調整して生きるのが人類の智慧であるのです。

現在は、先人からいただいた智慧を蔑ろにし、便利に量産しますが果たしてこれが本当に自然の理に適っているかを考えている人は少ないように思います。自分の利益ばかりをみんなが追いかければ、その利益競争の結果として全体が貧しくなることもあるのです。

田んぼであれば、生態系が減少し、多様性も失われ、そこにある自然の循環を歪めて生命の楽園が非常に貧しい場所に換わっていきます。そもそも田んぼの一部を私たちも他の生命と共にお借りしているという意識と、この田んぼは人間様のものでよそ者は一切入ってはならないという意識では田んぼ自体の持つ定義も個性も異なっていきます。

私が一緒に取り組んでいる伝統農家さんの田んぼはみんな生態系が豊かであり、生き物たちの楽園で生命が溢れんばかりに漲り、その中で稲がイキイキと育ちます。当然、農薬も肥料も追加せず、自然に任せて自然が喜ぶような農法を行います。

そのためには、人間が取り過ぎないことが重要なのです。アイヌ民族では、自然の利子分だけをいただくという謙虚な言葉があります。あくまで自然のために尽くし、その結果として得られた多少の利子分だけで生活を営むということです。

質素倹約に努めて、自然の掟を守れば、その利子だけで十分一族を養っていくことができます。現代社会においては、みんなが売り上げ競争をし利益の確保ばかりに躍起になりますから利子ではなく、借金でみんな一族を養おうとします。

その借金は利子ではないから、子孫へのツケになります。このツケは、次第に大きくなり返せないほどになってしまいます。田んぼであれば、田んぼの土が枯れてしまい肥料の肥毒や農薬の薬害によって作物が育たない場所になってしまうのです。

だからこそ、私たちは敢えて自然が喜ぶように収量を減らすこと、そしてその分、その田んぼの生き物たちが安心して謳歌して暮らしを楽しめるような場を確保することが重要なのです。

自然農の田んぼは、この時期は沢蟹やエビ、オタマジャクシにカニワナ、蛇や蜘蛛などの子どもがたくさん生まれています。田んぼで田植えをすれば、小さな生き物たちが溢れ、まるで一つの保育園のようです。

その保育園で環境を用意して見守る私は、まさに保育者ということでしょう。私が保育する環境は、適度な距離感によって和を与え、枯草を集めて稲に布団をかけて安心させます。多様な生き物社会の中で、みんなと共生し貢献し合って生きていけるように配慮します。

これだけを守れば、今年もまた立派なお米になってくれるでしょう。当然、このあとは雑草が生えて多少の草刈りや、スズメが来る時期は紐で防いだり、見守りと手入れは必要ですが田んぼの清々しさは御蔭様で年々増すばかりです。

私の実践する農法は、きっと自然が喜び運の善くなる浄化する農法です。浄化とは、いのちを尊重し合うことで透明で純粋な光のような存在に近づけその中でいのちたちがそのままあるがままをオープンに見せながら生き活かしあう場を育てることです。

これから1000年を見据えた教育は、むかしの田んぼの智慧から学ぶべきではないかと私は思います。この智慧を、具現化して実際の保育現場に届けていきたいと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

チャンスを活かす

昨日は、自然農の田畑を整える作業を行いました。いい風が吹き、まさに新緑の季節に入りこれから種を蒔き、苗を植えます。自然の四季と共に暮らしを行うのは、それだけで運気を高めてくれます。

グローバリズムの台頭で、人類は都市型の集中した消費の社會を形成してきましたがその脆さを今回の新型コロナウイルスによって直面しています。自粛するしかなく、自宅に居続けて過ごすという日々を送るしかありません。

感染症は、何度も人類を滅亡寸前まで追いやってきましたがそのどれもが都市型の人と接触する場所で、しかも海外を行き来する人たちによってもたらされてきました。

物流を発展させ、交流人口を増やすことによって経済を発展させてきましたが人口密度が集中し、海外からの人々が容易に行き来することになったということはそれだけ感染量のリスクも高まったということでもあります。今回のことを省みると、人口が80億人を突破したところくらいから自然界が許すはずがないと感じていましたがいよいよ人口減に傾く最初の合図が入ったのではないかとも感じました。

自然界では、天敵というものがありそれが絶妙なバランスで調和を助けてくれます。増えすぎると減るというのは、自然の摂理でありこれは誰も変えることはできません。自然の摂理とは、真理であり、掟でもあります。子から親が産まれないように、また川が下から上に流れないようにすべてのものには決まった道理があるということです。

それに逆らえないのだから昔の人たちは敢えて逆らわないで謙虚に生きていく方法を取ってきました。それが足るを知る事であり、分度を保つことであり、自然に感謝してお互いに助け合う社會を築き上げていくことでした。

現代の社會のもろさは、この逆を走っているところにあります。このまま欲望に任せて、分限を超えつづけ自然を敵にして誰かを蹴落としていくよいな社會が果たして人類にとってどうなのかということが突き付けられたのです。

私たちはみんなで立ち止まったのだから、子どもたちの未来を思えば今回の機会をチャンスにして生き方を見直し先人に倣い、新しい社會をもう一度見つめ直して取り組むこともできるはずです。人類が滅亡する前に、何度も自然はチャンスを与えてくれます。そのチャンスを無駄にしないように、目覚めた人たちが立ち上がっていくしかありません。

子どもたちが安心して末永く暮らしていけるように、このチャンスを活かしたいと思います。

人類の反省と生長

私たち人類は、長い間何を食べてここまでいのちを永らえてきたか。過去には、様々な飢饉や飢餓を体験してきた人類は食糧難の大変さを身に沁みて味わってきた民族でもあります。

しかし現代は、食料過多で大量の食糧を日々に廃棄しています。特に日本は世界で6番目の一人当たりの食品廃棄物を出している国家でアジアではトップです。まだ食べられる食材を年間約621万トン捨てているということになります。

約621万トンの内訳は、スーパーや飲食店などの事業系が約339万トン、家庭系が約282万トンとです。世界では飢餓で苦しんでいる人たちがいて、その食料援助量は約320万トンといわれます。その倍を捨てているのだから、信じられない数字です。

かつての日本は、質素倹約し、捨てるものが一切ないほどの循環型社会を江戸時代に築いていました。100年ちょっとの間に、こんなにも循環しない消費のみの社會を築き上げ、捨てるものばかりの国家になったのは驚くばかりです。

徳を積む国家から、徳を減らす国家になり、先人たちが積み重ねてきた大切な実践を手放し、アジアのどの国よりも廃棄するようになったのを知って先祖は今、どのような気持ちだろうかと考えてしまいます。

特に日本で廃棄される理由は、賞味期限の短さだといわれます。まだ食べられるようなものも、現在は食材を確認するのではなく消費期限や賞味期限だけをみて判断するようになっています。冷蔵庫や保存がきくにも関わらず、なんでも期限が切れたら捨てていきます。これは食品業界が、この数十年のうちにその体制を築き上げていったとも言えます。

見た目ばかりの食品をつくるのは、たくさん買ってもらうためです。見た目を意識するばかり、肝心な食というものの本質が崩れていきました。食はいのちそのものであるというよりも、見た目の美味しさの方が価値があるようになっていきました。

現在、コロナで飲食業は大変な思いをしていて友人の経営者たちも苦労していますが敢えてここで本来の食とは何だったのかを立ち止まって見つめ直す機会かもしれません。

最近は、行き過ぎた乱獲で魚はいなくなり、田畑は農薬と肥料で疲弊し、自然の生き物たちは猛スピードで食物連鎖が崩れ絶滅し始めています。いつまでもこんな消費することしか考えない世の中を続けるのか、今のままで本当にこの先、子孫たちはやっていけるのか。もう答えが出ているのだから、改めるチャンスかもしれないのです。

今回のコロナで、また人類は地球から機会を得ました。人類は何回も何回も好き勝手てきたのにも関わらず、自然に許されここまで生き延びてきました。自然に許されるたびに、私たちは災害や困難と向き合いそれを乗り越える過程で、謙虚にあり方を見つめて、素直に反省して改善を続けていきました。

また機会をいただいた以上、思い切って一人一人が生き方を換えて変革し世界を以前よりももっと素晴らしいものに換えていけばいいのです。機会によって自らを見つめ、その機械によって自らを変える、この繰り返しこそが伝統文化の継承であり、文明の温故知新、進化成長なのです。

子どもたちが喜んでくれるような決断を続けていきたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。