自然淘汰 

自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。

この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。

つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。

自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。

自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。

元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。

自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。

私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。

地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。

自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

美しい徳

有事の時に、生き残るためにみんな必死ですがその中でも日本人らしい美しい徳が引き出されそれによって助け合いの風土が醸成されみんなが安心して危機を乗り越えるための原動力になりました。

本来、有事の時こそ草莽崛起といって日本では他人のせいにせずに自分が何ができるかと立ち上がって物事を解決してきた歴史があります。まさにこの今こそ、それが試されるときでありみんなで行動を示して日本という国、そして人々を守っていく必要を感じます。

私たちは災害時にこそ、原点に立ち返りどのような助け合いが生まれたかをもう一度思い出すことです。

熊本や東日本大震災でも、助け合いの光景はたくさん見られました。自分さえよければいいのではなく、譲り合い、並び合い、正直に嘘はつかず、自分の分を少し我慢して周囲のためにと尽力していました。

世界にも稀にみる道徳的な人々だと称賛され、日本人は有事のときこそ自分さえ善ければいいではなく、みんなのお手本になるようにと自分を律し振る舞ってきました。

この誇るべき「助け合いの精神」は、私は自他一体の精神からきているものと思います。相手の事を自分の事のように思いやることができる、自分のことで相手のことを思いやることができる。

つまりはいつも誰かを思いやりながら暮らしてきた民族の歴史が証明するように思うのです。共感力の高さや、傾聴力の高さ、同じ人間として平等に接し、すべてのことを自分事として心配する。

ここに日本人の自然風土、そして生活文化の中で育まれた歴史があるように思うのです。

私たちは誰もが同じ人間であり、いのちはどれも同じものです。それを慈しみ愛おしむ心を持てるのは、神話の時代からすべてを八百万の神々として接して暮らしてきた日本人の精神文化が源流になっているのでしょう。

こういう時だからこそ、みんなで助け合い、日本人が有事の時にどのように乗り越えてきたかを歴史に学び取り組むチャンスです。子どもたちのためにも、自分にできることを挑戦していこうと思います。

衆知を集める~クラシフルソン~

昨年末にハッカソンと聴福庵で行いましたが、次回は暮らしフルネスを取り入れて色々と試行錯誤してみます。もともとの「ハッカソン(Hackathon)」とは、ハック(Hack)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語のことです。これはエンジニア、デザイナー、プランナー、マーケティターなどがそれぞれでチームを組み、与えられたテーマを設定し技術やアイデアを持ち寄り短期間で集中してサービスやシステム、アプリケーションの開発をして成果を競いあう仕組みです。

この「ハック」「ハッカー」は、本来システムやソフトウェアを解析、改造するなど、「たたき切る」「切り刻む」「耕す」という本来の言葉の意味がありますが、「物事をブラッシュアップしていく」という意味だそうです。

実際には、日本でいう「ハレ」と「ケ」のように日常の同じ作業ばかりで繰り返されるマンネリ化を防ぐ効果もあったり、視点や目線を換えてみることで新たな観点を見立てるという効果もあります。

「場」を換えるだけでも、発想も視点も変わりますから場の道場(BA)を活用することは大変な効果もあります。

そしてもう一つハッカソンとは別に「アイデアソン(Ideathon)」というものがあります。これはアイデア(Idea)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語である特定のテーマについて多様なメンバーが集まり対話を通じて新たなアイデア創出やビジネスモデルの構築を短期間で行う仕組みがあります。

これはITエンジニアに限らず、多様な人たちがみんなでアイデアを持ち寄って集合知を創造するときに使います。日本では車座になって、長老を中心にみんなで意見を出し合って物事を判断していた歴史がありますが敢えて偶発的な対話の中で思いもがけないようなアイデアに出会うというのはまさに人類発展の仕組みの一つです。

これらを、私の場や和、間の思想と合体させ「クラシフルソン」というものを開発中です。これは「暮らしフルネス」(KURASHI)×「マラソン」(MARATHON)を掛け合わせた造語で、暮らしの中でもっとも和合した衆知を集める仕組みです。

ブロックチェーン神社にお祀りしている八意思兼神というのは、その道の神様です。

この神様が喜ぶような働き方を、BAで創造していきたいと思います。

 

覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

徳の正体

私たちの身体には、長い年月で積み重ねられてきた「徳」があります。この徳は、生まれ変わることによって甦生を続けて今の私たちを支えています。この徳は言い方を換えれば「いのち」ともいい、いのちは何度も甦生することで新しくなっていくのです。

このいのちの本質は、「その徳を磨き続ける」ということを顕します。

私が様々な甦生を手掛けるのは、隠れていく徳を顕現させ、日本古来からの先人の徳や風土の徳を伝承し続けるために必要だと思っているからです。

神道はまさにこれを実践するものですが、私はそれは宗教だとは思っておらず文化であると感じています。そしてこの文化は自然が醸成してきたものですから、私は文化は自然であると考えています。つまり自然とは、風土の姿であり風土がカタチになったものです。そして自然とは徳ですから、その徳をもったものを如何に共生の中で活かしあっていくか。万物の徳を磨き合って調和させていくかが、私たちのいのちの本来の姿であろうと思うのです。

現代は、自然からも離れ風土からも離れ、そして文化からも離れ、日本人が日本人であったことを忘れかけてきています。その中で、かつてから連綿を続いてきた徳を積むという生き方も忘れかけてきています。

今の自分が存在するのは、一体何の御蔭なのか。

それはずっと徳を積み重ねていのちを磨き甦生しここまで紡いできてくださった先祖や風土の御蔭であるのは誰でもわかります。その存在を自覚すれば、自然に恩返しをしたいという気持ちが湧いてきます。

この恩に報いるという心が、徳の基本であり徳を実践するための原動力です。

子どもたちにも先祖がしてきてくださったようなことをそのままに伝道していけるように丁寧に徳を積み重ねていきたいと思います。

夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

伝統を継ぐ

琥珀色というものがあります。これは飴色に輝いている透明感のあるものですが、長い時間の経過が色に入っているものです。私はこの琥珀色のものがとても好きで、飴色のものをみるとすぐにうっとりしてしまいます。

経年変化というものは、長い時間をかけてじっくりとゆっくりと積み重ねられてきたものです。この積み重ねというものが時間をかけて色合いを彩りその歴史を語るからです。

私は歴史を感じるときに心がとけます。

歴史とは、文化でもあり、心の在り処でもあります。私たちは日々に追われるように生きていますが、このいのちもまた先人たちがここまで紡いできたいのちです。いくら新しいように感じていても、魂は古く、琥珀色をしています。

そして初心や目的を忘れずに文化を伝承してきた姿から琥珀色や飴色の透明感を感じます。この琥珀色や飴色は、時には青いものもあれば、白いもの、黒いものあれば、赤いものもあります。しかしその色から放たれるものはすべて琥珀色や飴色を醸しているのです。

時を感じる力というのは、この積み重ねられてきた「徳」を感じる力です。

徳を引き出すということは、積み重ねてきた今を顕現させるということに似ています。それは自分も先人たちと同様に積み重ねる実践を行うときに顕現します。伝統を継ぐということは、徳を引き出すということでしょう。

徳を引き出し、子どもたちに伝承していきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。