澄心静慮

色々な出来事が起こる中、私が解決できることとそうではないものがある。

例えば、自分自身を修めることや自分自身の信念を醸成し、日々を強い意志で歩んでいくことなどは自分でできる。しかし、相手のことを心配し過ぎてしまい揺らぐと周りに流され依存してしまうと相手が自分で修めないことまでにおせっかいをやき、自分が体調を壊してしまうこともある。

まさに、論語にある「過ぎたるは及ばざるが如し」で必要ないのに相談に乗ったりすると出しゃばりすぎることがある。

いくら他人のために自分を使って、人々の悩みを救済したいと念じても、それが単なる過保護や過干渉と言ったおせっかいになってしまったらそれは力の使い道を間違っていることになる。

自分自身の問題は、自分自身で解決するしかなく、如何にこちらが親身になったとしてもそれはどうしようもない。

ただ、自らが信じるだけである。

過去に信じられてこなかった人たちは、信じるということを苦手にしている人が多い。それは自分自身を裏切ってきた過去から自分を卑下し、何かと行動する前からできない理由を探して自己弁護をしようとするものだと思う。

しかし、そこに信じてあげるや信じ切っている人の存在があれば人は思いきって勇気を出して人が変わっていくのも人間の持っている不思議な力だとも私は思う。

そして相手のことを信じるには心の力がいる。

表面的なものをみてもそれは本当に信じているのではない、信じるとは善悪もなくそのものを丸ごと信じることであり、それがその人にとって全て必要なことだったと思いやることでもある。

人はつい心がざわついてくると、自分の立場やモノサシから相手の善悪を決めつけようとしたり、また偏った判断で迷い悩むこともある。そこから抜け出せなくなると、頭痛の種になったり、いつもそこに心が囚われてしまいそのことばかりが頭から離れなくなることもある。

そうなると、平常心や不動心が揺らぎ、信じることも揺らいできて本人自身も安心や安眠などもすることができなくなる。信じると言うことは、心が安心していることが大切で何も考えないでいられるのは心が信じ切っているからでもある。見ている目や聞いている耳ばかりを使っているとどうしても頭で考えてしまうから心の力が落ちていくのだろう。

そういう時は、経験として一度そこから離れて心を澄まして静かに慮る環境が必要な時が私にもたくさんある。忙しい時や病気がちの時など、尚更そういった無為自然に委ねる時間は自然治癒にはとても必要なことだと私は思う。

論語、大学にもこうある。

「止まるを知りて而る后に定まるあり 定まりて而る后に能く静かなり。 静かにして而る后 に能く安し。 安くして而る后に能く慮る。 慮りて而る后に能く得。」

至善に止まっていれば、次第に定まってくる。そして定まってくれば静かに穏やかになってくる。そして静かであれば安心してくる。安心していれば思慮深くなる。そして思慮深く慎んでいれば次第に事は為る。という感じだろう。

つまり「澄心静慮」、心を澄まして静かに考えていればいつもの自らの真の心の居場所に戻っていることができると私は思う。そこに安んじたまま穏やかに考えているとそこから観えてくる境地がある、そこにいれば信じることができる。

そこに居て信じたまま心を澄ましていると心眼や心耳が開いていき、あるがままに物事を正しく受け容れ、自らの命を悠久の流れに委ねることができるようになる。

静かであること、心を澄ますことは、独り慎み、道を歩くことに繋がっている。

日々繰り返す中で、身を修めるために様々な自戒を持つのも、俗世間での喧騒を棲み分けながら天道地理の戒律を守りつつ、その自らの明徳に添っていくためにも必要なのだと私は思う。

今は、何かと不信や疑惑のニュースや不安定な情勢ばかりを煽り立て人々を盲目にし視野狭窄にする情報が蔓延っている。

こう言う時こそ、心を澄まし静かになって思慮する時間が必要なのだろう。

子どもたちにも、安心して暮らせるための工夫としてこういう体験を通じて見守っていけるような状況も将来は創り上げていきたい。今の時代はどうしても心の水が不足したり流れなかったり、濁ったりしやすくなっている環境がある。

それを自分自身が自修自謙の実践の中で澄まし、平穏無事な生活を通して人々を導ける側でいるように修練を積んでいこうと思う。達人まではまだまだ遠く、せめては無為自然の道楽を楽しめるよう努力精進していきたい。