懈怠

人間関係を思うとき、いつも人間はお互いのことを尊重しあい配慮しあうことで善き繋がりや成長を楽しんでいけると思う。もしもこれを怠り、相手のことを考えなかったり、自分本位に頑固に押し通していたらどうしても相手の自由を妨げてしまうことになる。

よほど我慢する人でも、それが毎日ともなれば耐えられなくなりある人は病気になり、またある人は感情的になってしまうものだと思う。

自分の考えに凝り固まっていると、どうしても人の忠告や人の助言を素直に聞き入れることをしなくなっていく。それは、いつも自分が考えているところに照らしているからでありそれが積み重なって変なプライドができてきたりとしているうちに周囲を遠ざけてしまうようになる。

人は、あまりにも自分自身で考えてしまうと自己本位になってしまうことがある。たとえば、自分ばかりを責める人は一向に周囲の助言を聞き入れようとせずに自分の欠損した感情を満たそうとばかりに躍起になり独り引きこもっていく。

自責の念とは、誤解なくいえば自分依りの考えであり相手のことを思いやっている余裕などもなく、常に自分の心の不安を解消したいがためにのみ周囲を存在させようとする傲慢な態度である。

以前、アインシュタインがこんな言葉を遺している。

「なぜそんなに自分を責めるんですか?そんなことをしなくても周りがちゃんと必要な時に自分を責めてくれるのだからいいじゃないですか。」

これは、自分で自分を責め続けることの意味のないことを示している良いたとえだと思う。つまり、お互いの問題を一緒に解決しようと思えば自然に対話して関わり合い解決していかなければ一人では解決できはしない。しかし外界との接触を極度に嫌がり、自分の世界だけですべて解決しようとすれば次第に自分を責める世界にどっぷりつかってしまう。

本当は相手が自分以上に困っているのに、いつまでも自分ばっかり困っているとしてしまったらそこに解決の糸口は見いだすことなどできはしない。もっと周囲の率直な意見に耳を傾け、周囲が自分に直せと言っている部分や、それは間違っていると指摘していることを素直に聴き入れることであると思う。またそういう態度をとっていることで周囲は安心してその人のために何とかしてあげたいとし、感謝の心を循環させて善い人間関係を広げていくことも深めていくこともできるのだと思う。

しかしその逆にいつも周りからの善意を無視し裏切り続けていたら、そのうち自分のためにと真摯にアドバイスしてくれる人も次第にいなくなっていく。そうなると、様々なことを独りよがりに対処するような習慣がつき仕舞には何をやっても誰とも人間関係がうまくいかないと感じるようになってしまう。

表面上の浅いものでいえば、誤魔化せても本当に深く厚い関係になるにはその自分だけの世界から抜け出さなければならない。全部素直でないから起きる現象だということに気付くことだと思う。

私も人間のことが好きだから気を付けていることながら、ついそういう人に接するとどうしていいかわからず、気になってしまいそのうち緊張感が続かず関係づくりを維持していくのに怠惰な気持になることがあり配慮に欠けてしまうことがある。

キャッチボールはお互いの心の通じ愛であり一方的に投げ続けるのは根気と忍耐が必要だけれど、何度も何度も話をしてもそれを毎回無視されると嫌な気持ちになってしまいおごりたかぶって態度が傲慢になってしまうことがある。

夏目漱石に、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

とあるけれど、人間界というのは本当に不可思議なところだと思う。

私もそろそろ観念して他の方法を考えるのをやめてこのままでいいと悟り、その環境をどうにかするよりそのままで善いことにしてしまいたいと思う。

どんな理由と状況であれ、自分が何のために志を立て社業にまい進するのかを忘れず子どものためにとあるのであれば、反省し、刷り込みが深い人をも受け容れ見守る実践を通して気づいたことをお客様や世の中に還元するようでなければ自他に誠実になったとも言えない。

善意というものは相手に左右されるものではなくいつも自分が大切にもっているものでもあるからして自分自身は誠実さと素直さを優先し、丹精込めた実践をしていきたいと思う。

信仰も同じく、偉大なものに対して自分が素直でなければ自分を責めるばかりになったりしただすがっているだけになってしまうもの。大切なのは、世界に真っ直ぐに心を開き素直に自分のあるがままに周囲の暖かさを感じることである。

子どもたちを思えば、孤独になりがちな時代だからこそ私はいつも暖かな眼差しで優しく強くいれるような大人のモデルでありたいと願う。