独立独歩

社会人になり、自分というものを真に活かさず誰かに依存し自分から果敢に挑戦し試練を乗り越え自信を持ち、自分の存在が周囲や組織や会社にとって本当に価値があるものだとするためには独立自尊の精神で自立することが必要になる。

以前、子どもの頃、親元から離れるのが怖くていつまでも自宅に引きこもっていたら今はなかった。はじめての外国への留学、はじめての就職、はじめて仕事、はじめての困難、はじめての孤独、すべてははじめてのものばかりに取り組み、その中で自分を成長発達したことで今の自分があることを知っている。

人は、新たなことにチャレンジするときはいつも初めてのことであることが多い。それを恐れて、誰かにひっついて教えてもらうことばかりになっていたら自分が自分本来の独立した力でやり遂げたとは思えず、そのことから周囲に感謝することもできなくなってしまう。

本当に自分の力でやり遂げて結果を出せば、それが多くの人たちの見守りの中であったことを心底実感することができる。それを最初から他人の力をあてにしていたら結果がでても、それが自分の力でとは実感できず自分のためにやってもらったと思うようになる。

人は、相手の強い力で援助や援護があるとき、より主体的な自分の力でその援助援護を受けとり挑戦することで互いの信頼関係を基盤に大きな仕事を勇猛果敢に取り組んでいくことができるのだと思う。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」にこういうことが書いてある。

『独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。』

意訳すれば、「自立しようとする精神がない人は、必ず他人をあてにする。他人をあてにする人は、必ず他人の態度を気にし恐れるようになる。人の態度を恐れる人は必ず他人にこびへつらうようになる。いつも他人にこびへつらうようになる人は次第にそれが習慣づいてしまい、仕舞には表面上はまったくその様子がわからないようになり、恥ずべき出来事も言動も恥ずかしいとは思わないようになり、本来大切な議論をしなければならない時にもそれをせずうまく誤魔化し、他人を見ればただ頭を下げて反省すればいいと思っている」という感じだろうか。

これは本当に悲しいことだと思う。

自分の力でやってやるんだと自分を発奮させ本気になり、何が何でも結果を出すのだという強い信念で物事に対峙し、真剣勝負で最後までやり遂げる。それがどのような結果になったとしても、全身全霊でやりきったのだから悔いはないと思えるほどに生きようと思える自分と仕事に出会えないのかもしれない。

いつも与えられて、いつも当たり前にあると思ってしまうと、独立自尊の精神は衰えてくる。厳しい環境の中で、常に結果と理想と現実を受け止め、自分が陶冶されていくから成長はある。

甘えられるぬるま湯では、陶冶ではない。陶冶される環境に身をおくとは、いつも厳しい修行の中で時には激しい困難と向き合い、時には大変な大仕事と対峙し、時には腹が煮えわたるような苦しさの中で耐え忍び、それを命を懸けて取り組み成果を掴み取ることをいう。

黙って口をあけていれば自然にはいってくるものではなく、自分から自発的に勇猛果敢に挑戦する気概と、師とともに佳境に入る決意がいる。

中途半端な気持ちで、そんなに自分が成長できると思っている時点でそういう独立自尊の精神を発奮することはできないということに気付かないといけない。

今の時代は、親の過保護過干渉の中で親が助けてくれることは当たり前になっている人がとても多い。社会人になっているのだから、当然いつまでも親に迷惑をかけるのではなく親を支えていこうとしなければいつまでも幼稚なままで何も成長していないということになる。

社会で自分が役割をいただくにも、自分で独立する決心がなければ社会に益するような仕事はできはしない。

子どもたちのためにも、まずは独立独歩の独立自尊の自らの精神をとことん練磨し修行することを優先し、より自立の素晴らしさを伝えていきたい。勇気とは、本当に大切なものを守るために使うものだと伝えていきたい。