循環の理

今の時代は、知識欲旺盛な人たちが情報という分野で誰でもいつでもどこででも様々な人たちが自由に発信するものを享受することができる時代になった。

ある意味では便利になり、ある意味では不便にもなった。

便利な情報は人を惑わし、すぐに手に入る分形式的になり長持ちしなくなってきた。そして何度も何度も厭きては捨てという風に、枝葉末節委的で非合理なものになってきた。

全体を観て本当にそれがどのように循環するのかなどをよく自然を観察して合理的にシンプルにしているものは、長く大事にして使えば恒久的に使えるようになる。

しかし一部分を切り取り、安易に目先の利害や便利さに飛びつけば循環できなくなり切り捨てたり付け足したりしているうちにモノばかりが増えてすぐにゴミになって使えないようになる。

ゴミにしないというのは、循環することが前提でいるということである。
情報も同じことがいえる。

私たちの身のまわりの情報も生命もそして全ての物体も大いなる循環の中で脈々と流れて変化している存在であり、それが悠久の流れの中で壮大な時間をかけてめぐりめぐっているものであると思う。

一つの石ころをとっても、あの森の木々を見ても、または私のこの打ち込むパソコンの部品ひとつとってもすべては循環の中で生かされたものであり、それがまた自然に帰り、自然から訪れるというように繰り返しの中で私たちとともに繋がりの中で相互に関係しあっているのだと思う。

そう考えてみると、循環しているということを理解しその循環をいつも善いものにしようとするのは私たちの存在そのものを正しく自分が理解しているということでもある。同じく出会いを大切にするのは、循環するからであり一期一会でいるというのはそういう流転の理に沿って歩んでいくことが大切だと理解しているからできているということでもある。

循環することを知れば、何でも捨てるものもなくもったいないとし大切にしていこうとするのは当然のことであると思う。

地球がくるくる周るのも、月がぐるぐる回るのも、太陽が明々と照らすのもすべては循環の理の中にあり、常に捨てるものではなく次世代に譲り渡していくものであることを語る。なぜなら、今の私たちの使っている道具のすべては今までによって譲られたものだからであると思う。

この世のすべては借り物であり、またお返しをしないといけないものだとしたら自分勝手に自分本位に好き勝手に使うなどということが果たして自然の原理原則に沿っているのだろうかと思う。

本来、借りているのだから使わせていただく側として迷惑をかけないように丁寧に慎重に大事にしつつよりそのものの特性を活かし、循環する世界の一部としてそのものの命を輝かせていこうとするのが本来のあるべき道理ではないかと私は思う。

次世代と思うとき、まず私たちが今、ここで有難く得ているすべてのものが循環するものだとし借りたものを返すためにどれだけもったいなく使わせていただいているかということを忘れてはいけない。この命も然り、出会いも然り、そしてめぐりあうすべてのものも然りである。

資源を今の時代の人たちが全部使い切り、ごみのように捨てるという行動や行為は、自分本位に今さえよければいいとし、それまでの循環を冒涜し今までの流れをせき止めたり変えてしまうことになる。

全部使い切れば、なくなるだけであり、流れを変えればそれは子孫へ流れないだけである。どのようにめぐりめぐっているのかをもう一度考えなおした方がいい時期にきている。

より価値のあるもののために活かし、より少しでもお役に立てるものになりたいと思うことこそ他人の道であり循環の中で貢献したいと願う活かされるものの本質がある。

子どもたちには、すべての世界は循環するのだと私の実践と模範を持って示していきたい。