光の一燈

この世の中の現象として、与える側と受ける側というものがある。しかし本質的に考えれば、受け取る側の姿勢や受け取り手の受け取り方によって、感受する質量は変わってくる。

例えば、会社で言えばある人は「こんなによく社長にはしてくださって」と感謝していてどんなに厳しい環境下であっても甘えられる環境下であっても、自分の受け取り方をいつも善い方へと転換して受け取っている人がいる。またある人は、「こんなによくしているのになぜ」といつも矢印は相手や会社へ向けて厳しい環境下では愚痴を言い、甘えられる環境下では律することもできなく、いつも受け取り方を損な方ばかりに転換して受け取っている人もいる。

これは受け手の問題であり、与えて側は誰に対しても同じく与えているのにそうではない人がいるということだと思う。よく人は、あの人は気に入られるタイプで自分は嫌われるからと言っている人もいる。実際はそうではなくて、受け手側がどれだけ素直に善い方で受け取ろうかという生き方の問題であるようにも思う。

つまり、これを自然界に照らせば太陽はいつも同じように光を出している。しかし受け取る側が、捻くれていて、「あいつばっかり照らして」や「こんなに光っていたら干からびるだろ」や、「眩しすぎて困る」なととなっているのは太陽のせいではなく、受け手の転換する主体的なかかわりが欠落していることでもある。

人間には矛盾があり、愛が欲しいと切望しながら相手の愛を量り、相手の愛を欲しようとするけれど、本来の愛とは、変わらないものであり、いつも愛情深く慈しむものであるのにそれを欲しがるのは受け手の問題である。

自分本位に生きていれば、自分のことだけしか考えず自分勝手にやっているのだから当然受け手側はいつも欲しがることばかりを要求することになる。しかし、よく周囲を思いやり他人のことを自分のことのように配慮していれば受け手側はそれをどれだけ皆で味わえるかや感謝していこうという心持になっていくもの。

よく感謝が足りないと内省する人がいるけれど、それは必ず自分本位であるのだから仕方がない。本当に真実の愛が欲しいのならば、愛がある方と同じく側に立ち、自分から同じく愛を発していなければそれは観えはしないし感じることもできず当然それは永遠に手に入れることはできはしない。

どうせ与えて側は、信頼も信用も、そして愛も優しさも、同じ量を発しているのだから受け手側がしっかりと素直に受け取る気持ちがなければ愛を感じて希望と勇気を出して幸せに生きていくことはできない。

そういう人は、よく周囲を見て、同じなのに受け手側の力でいつも善いものとして受け取っている人を真似をして少しずつでも受け取る質量を増やしていければいいのではないかと思う。

師に以前、「太陽にように」と言われたことがあるけれど、これは自分が自らが光っているということであり、それは相手にあわせて頑張って光るのではなく、相手にあわせて光を出し惜しみすることでもなく、自分そのもののあるがままで自然に照らしていることを言っているのだと私は思う。

私は、自分の照らす分を相手が欲すれば欲するほどに与えようと無理をしてしまい相手を焼いてしまうことがある。もしくは、足りないと言われるとではもう照らさないと無理をして自暴自棄になってしまいそうな時もある。

しかし本来の太陽であるように、子どもたちを信じる眼差しと同じものをこれからも自分は発していけるように実践していきたい。

あの陽の光に癒され、あの陽の光に暖かさを感じながら、生きていく優しさを強さ感じながら希望を持って歩めるように、これからの未来の子どもたちのためにもまず自分自身を太陽に習い修める実践を大事にしていきたい。

他人に左右されず、常に自分から光りを発する一燈でいたい。

かんながらを感じる道は、その光を放ちあう大きな和の中にあることを忘れないためにも自らの光を発する方を大事にしていきたい。