道枢

様々な議論や対話をする際は、その原点や初心ともいうべき中心軸がある。

本当は何のためや、一体何のためにと考えるというのは、その中心軸である根本、つまりは根源的理念や信条などという一本通ったものから話し合うことが本筋の議論ができているということになる。

人は、すぐに相対的な考えで自分を中心に物事を解釈し、そこから甲乙をつけて納得しようとするけれど、それでは永遠に本質を理解できはしない。

本質を理解するには、その中心軸を感じとり掴み取るような議論がいる。

つまりは、議論とはその中心が何処にあるのかを話し合いの刹那に自らがその本を捉えることである。

よく話し合いをしていたら、どうしたらいいかどうしたらいいかとばかりに囚われ自分の小さな世界観で大きなものを理解しようとする人がある。しかし、自分の小さな世界では理解できないような大きなものは池の中のカエルが大きな海を理解するくらい難しいことである。

では、どうすればカエルが海を理解できるかというと自分がカエルであることを忘れることであると私は思う。これは仕事でもよく言える、社長の問題意識を理解するならば自分が従業員であることを忘れればいい。そして、自分の地位や役職や肩書などといった小さな池に囚われるのではなく、そもそも海というものにあわせていくことではじめて海が理解できていくのであると私は思う。

仕事をしていると、いつまでたっても変わり映えのない小さなところで右往左往するような作業に没頭し、一喜一憂するようなことを続けてしまうようなシーンに遭遇する。しかしそれでは、本質的なことにあわせて自分というものを中心軸の周囲を正しく回り続けながら積み上げていけるような存在になりはしない。

荘子に、「道枢」という言葉の定義がある。

道というものに一本の空が存在し、その空の中にこそ、無用の用があるとする。これは私の言葉でに換えれば、「きっとそこに何かがある」と感じる場所で自分を活かすことである。

つまりは、偉大な思想や理念、師の行う本筋の行はすべてその「きっと何かがあるのだろう」ということを心が感じ取るために師や理念を議論するものであり、それは頭で小さくまとめるのではなくきっと何かがあると心から信頼して気づきを行動に移していくことを言う。

よく仕事をしていく中で、進め方を大事にするようにと私が話すことがある。

これはなぜかというと進め方が正しくなければ道枢に沿ったものにならないからでもある。自分勝手に進め方まで変えてしまえるのは、その中心軸がわからないからと適当に自分の目と手と頭で安易に処理することであり、私はいつまでも頭ではわからないままでも一緒にやっているうちに感じ取っていくようなものがこの本筋や中心軸というものの理解の方法であると思う。つまり、わかった気にならないようにすることであり両義性や宙ぶらりんのままである状態を心の力で矛盾のまま維持する方法である。

その人の理念を単に文章を読んだくらいで分かりはしないし、ただ話を聴いただけでも知りはしない。しかも自分の居場所からいつもそれを認識しようとしてもその大きさも深さも認識できない。だからこそ議論とは、いつもその中枢が何なのかと自らが動きながら能動的に感知していくものであると私は確信している。

これは簡単に言えば、真似をしてみるや、一緒にやってみる、進め方を教えてもらうや、どのようにすればいいか指示通りやってみるなど、答えはシンプルであり、その他人に近づくことからが価値通りに自らを合わせる方法であると私は思う。

子ども第一主義という、絶対的な理念の前ではもっとみんなが形があるものに縛られず、もっとその人間のことを心底共感することが一緒に何かをするためには頭で理解するよりも何よりも必要なこととし、眼前の利益よりも、心眼の尊徳を大切にするような仕事を続けていきたいと思う。

今、大切なものを守るため同じものを見て、同じものを感じることが心の壁により邪魔をされできなくなることの難しさを感じる。もっと大小や可不可など、相手を意識せず自らの理念をあるがままの自然体で取り組んでいきたいと思う。

無垢な子どもの心で自らを見守っていきたいと思う。